「と、いうわけで世の中には」
絶望先生が教科書片手に、重要なポイントを黒板に書いていく。化学の授業である。

「混合物と純物質があります。大抵のものは混合物です」
例として、たとえば、と教科書をめくりながら、
「砂と泥が混ざったものは混合物です……ってこれは当たり前ですが。ああ、こっちは
 化学の授業らしい例ですね。水(H2O)に塩化ナトリウム(NaCl)を溶かしたものは混合物になります。
 水(H2O)や塩化ナトリウム(NaCl)のように単一の化学式で表されるものを純物質と言います。
 混合物から純物質を精製していくには色々なやり方があって、まずたとえば濾過とか……」

黒板の文字を生徒たちがノートに書き写していく音が教室に響く。
だが先生が突然黙ったので、何人かの生徒は手を止めて不思議そうに先生の方を見た。

「そんなに、」
我に返ったように先生は教科書をとじる。
ああまた始まった、と多くの生徒がこれから先の授業はまともには続かないことを覚悟した。
大草麻菜実はさっさと内職の造花づくりに精を出し始めている。

「そんなに、純物質にしたいんですかね。適当に不純物が混ざっていないと危険だと言うのに。
 世の中の大抵のものは、純度を上げていくと危険なんです」
糸色望は白けたような表情で、教卓の上に閉じた教科書をぱたんと置いた。
何の話だと皆はまだついていけていない。

「『純』とは危険なんですよ!
 水から不純物を取り除いて精製した純水は不味いんです!
 お酒お酒と言っていますがお酒に含まれるアルコール分は蒸留を重ねたウオッカでも96%!
 100%の純粋なアルコールなんて飲んだらロシアがもっと恐ろしくなります!」

「じゃあひょっとしてこれも、」
と奈美は通学途中に買ってきた紙パックを鞄から出して机の上に置いた。
「果汁100%、つまり純度100%のジュースだから危険なんですか?」

糸色望はそれを見て、んーと首をかしげる。奈美の隣の席に座っているあびるがその紙パックを手に取り、
表示を確かめる。

「奈美ちゃん、これ」
「何? 果汁100%で間違ってないでしょ?」
「香料とか添加してるみたいだよ。純粋に果汁だけってわけじゃないから危険はないんじゃない?」
「えっ!? 果汁100%なのに!?」
奈美はあびるの顔を見て驚いたように声をあげ、「そんなことになっていたのか!」と頭を抱えた。
「美味しいからいいんじゃない」
「まあ日塔さんのジュースに危険性はなかったということで」
糸色望がそうまとめた。

あびるは紙パックを奈美の机の上に戻し――奈美はなんだかだまされたような気持で
それをまたしまう――、
「物質とは違うけど。純血種の動物の方が雑種より身体が弱いって言われることはあるよね……」
と呟く。
「そうです。何にしろ、」
絶望先生は我が意を得たりとばかりに話を戻そうとする。
「何でもかんでも純粋にしようとするのは危険なのです!」

がらり。と教室の扉が開いた。
「すみませんすみません! 私のようなものが遅刻してすみません!」
お決まりの文句と共に加賀愛が頭をぺこぺこと下げながら教室に飛び込んでくる。

「今日はどうされました?」
出席簿に遅刻の印をつけながら先生がそう尋ねると、
「じ、実は通学に使う定期が昨日で切れていたので駅で切符を買おうとしたのですが、」
と加賀愛は説明を始める。
切符を買おうと財布を出したところ、いかにも困っていそうな人に話しかけられ、
家まで帰るための電車賃が足りないから貸してくれと言われたと言うのである。

「それで、今日は小銭がなかったのでお財布に入っていた1000円札を渡したら、
 今度は私が学校に来るための電車賃がなくなってしまって家まで取りに戻っていたんです!
 すみませんすみません、私のようなものが!」
「あ、あー……それはですね……」
糸色望は今の話を聞いて思ったことを言うかどうか、加賀愛からわずかに目をそらしながら考えていたが、

「加賀さん」
と教室の後ろの方から聞こえた根津美子の声にその思考は遮られた。彼女が授業中に発言をするのは珍しい。
「は、はい!?」
加賀愛は驚いたように根津美子の方に目を向ける。
「それ寸借詐欺」
根津美子は表情一つ変えずにそう告げ、彼女の隣に座っている丸内翔子はご愁傷様とでも言いたそうな顔で
「かなりの確率で」
と言葉を添える。

「え、ええええ!?」
加賀愛の顔が青ざめた。
「で、でもあの人、あんなに純粋そうな目をしていて!」
根津美子はそれを聞いて鼻で笑う。
「本当に純粋な目なのか、そう見せかけた演技をしているかなんて
 赤の他人が簡単に判別できるものじゃないからね」
「そ、そんな……」
パニック気味になっている加賀愛に「あ、まず加賀さん席について」と糸色望が促すと、
「すす、すみません、私のようなものがずっと突っ立っていて!」
と慌てながら加賀愛は自席に座る。

「まあ、根津さんや丸内さんに言われると妙にリアルですが」
絶望先生は教卓に両手を置いてクラスの面々に正面から向き合った。
「純粋な目ほど人は騙されてしまうものです。やはり、純なものは危険なのです!
 だから、精製なんてしない方がいいんです!」
と繰り返す。

「はい。」
と木津千里が手を挙げて静かに立ち上がった。
「なんですか木津さん」
「先程から先生のおっしゃっている意味が分かりません。」
はっきりと、そう告げる。

「混ざっているものから不純物を取り除いて純粋な物質にする!
 素晴らしいことじゃありませんか!」
「いえ、ですからそれは」
「いいえ、世の中きっちりしないといけません! むしろ、すべてのものは純物質になるべきです!」
「だから純なものは危険だと!」

「そんなことありませんよ」
二人の会話に割って入ったのは風浦可符香。木津千里は席に座る。今までずっと事の成り行きを
眺めていた可符香はいつものように満面の笑顔で教師を見ていた。

「純なもので素敵なものもありますよ」
「そんなものはありません!」
「ありますよ、たとえば……『純愛』とか!」

純愛。その響きにクラスの女子は「ああ」と思わず声をあげた。
「そうですよ先生! 純愛は素敵です!」
加勢が来たとばかりに木津千里が声を上げる。
「千里ちゃんはどんなのが純愛だと思うの?」
可符香に話を振られて千里は「そ……そうね、」と少し照れたものの、

「死んだ恋人をいつまでも思い続けるのは純愛じゃないかしら。」
と頬を赤らめる。

「やはり皆さんは純の危険を知らなさすぎる!」
ばん、と糸色望は黒板に書いた「純物質」の「純」の文字を叩いた。
「純愛なんて世の中で最も危険なものです!
 100%の純愛なんて言ったら、死んだ恋人を思うあまりその恋人の血や臓器を移植された
 別の人を元の恋人だと信じて愛するところまでいきます! 元の恋人の眼やら心臓やらを愛するんですよ!
 絶望した! 純愛に絶望した!」
なんですかそれは、という反応が教室を覆った。

「なんでそんなグロテスクな展開を考えるんですか」
あびるが呆れたように呟くと、
「純とはそれほど危険なものだと言うことです」
と意地になったように糸色望は答える。

「そうですか、先生はやっぱり純は危険だと思うんですね」
可符香がそう尋ねると、「当然です」と教師は答えた。

「そうすると、先生の――」
可符香は一冊の和綴じの同人誌を出して自分の顔の横に掲げた。『石ころ』。糸色望の書いた小説である。

「書いている、『純』文学も危険なんですね」
糸色望はがあんと頭を殴られたようなショックを受けた。可符香は
「大衆文学や通俗文学より、ずっと危険なんですね」
と追い打ちをかける。

「そ……そうですその通りです」
糸色望も自分の理屈に基づいて認めざるを得ない。
「純文学は危険です! 作風を変えなければ。今日はもう自習にします!」
そう言って教室を飛び出し、自分の作品について見つめなおすために宿直室に籠った。

 * * *

後日。可符香はまとい経由で糸色望の次作品のプロットを手に入れて読んでいた。

「先生の次の小説だけどね」
たまたま教室で近くに居たあびるに向かって話しかける。
「どんな話になる予定なの?」
「えーっと、男の人と女の人が恋人同士で」
「うん」
「女の人は先に死んじゃうんだけどその臓器がいろいろな人たちに移植されて」
「……うん」
「男の人は元の恋人の臓器を愛するために移植された人たちを元恋人と思って愛し」
「やっぱりその展開?」
「さらに、元恋人の血を輸血された人たちも次から次へととっかえひっかえ自分の嫁にし」
「……うん……」
「男女のべつまくなし、次から次へと子を産ませ」
「そこ、藤吉さんに影響受けてない?」
「百人斬りとして世の男性に称えられるけど本人その自覚なし。っていうお話らしいよ」
「純文学ではなさそうだけど」
ホラーにしたいんだかギャグにしたいんだか。と、あびるは思わず呟いていた。


-完-

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