「……あれ?」
気がついた時、丸内翔子は放課後の二のへの教室に一人座っていた。
教室にはもう誰もいない。夕陽だけが静かに差し込んでいる。

この高校に入学してきてからというもの、たまにこういうことがある。
気が付くとそれまで数時間の記憶が飛んでいるのだ。
今日も、昼休みが終わったあとくらいから今までの記憶がない。
入学前に受けた大きな手術の後遺症かもしれないと翔子は思っていた。
あまり頻繁にこうしたことが起きるなら病院に行った方がいいが、
今のところはまだいくほどでもない、と勝手に思っている。

机の中の荷物を鞄に詰めて、翔子は席から立ち上がった。
中学の時も日々が退屈だと思っていたが、この学校も決して面白くはない。
変な教師と、変な同級生が日々掛け合いをして――それだけ。
翔子の席の隣の子は不登校なのか何かなのか、ずっと学校に来ない。
もしかしてこの学校があまり面白くないことを知っていて
来てないんじゃないかなと思いながら翔子は教室を後にした。

 * * *

翔子が教室を出たのと同じころ、一人の女子生徒がSC室を訪ねていた。
「智恵先生、こんにちはっ!」
「あら、大浦さ……」
と言いかけた新井智恵は入ってきた女子生徒の様子をまじまじと見つめ、
「風浦さん?」
と言い直す。

「そうだ、智恵先生はこれつけておかないと分からないんでしたね」
少女は制服のポケットから十字の髪飾りを出すとそれを自分の前髪に留めた。

――分からない方が普通なのよ。
智恵は内心そう思う。この生徒の担任教師も同級生も皆、風浦可符香の姿が――別の
女生徒に入った時の彼女の姿が――見えるらしい。
だが智恵には可符香の姿は見えない。

今だって彼女は大浦可奈子の中に出現しているようだが、智恵には大浦可奈子が
急に陽気になったようにしか見えていなかった。
「それで、どうしてここに来たの?」
「やだなあ、智恵先生」
可符香は相談に来た生徒が座る椅子に座った。

「もちろん相談に来たんです」
「あなたが何の相談があるというの?」
「うちのクラス、全然来ない人がいるんですよね」
可符香は少しだけ心配そうな表情を浮かべる。
「どこにいるのか、智恵先生なら知ってるんじゃないかなって思いまして!」
「ああ……」
智恵は少し考えてから、言葉を選んで答え始めた。

「その子は、学校に来るつもりがないみたいね」
「でも、小森ちゃんの時は家庭訪問までして学校に連れてきたじゃないですか」
「小森さんの場合はご家族の希望があったから。彼女の場合はそうじゃないし」
「ん〜」
可符香は口をへの字に曲げたかと思うと、突然表情を明るくして
ずいと身を乗り出した。

「じゃあ、私がその子を説得してきます! 友達として!
 だから居場所教えてください!」
「と……友達?」
「ええ、もちろん友達です。教えてくださいよ智恵先生、
 その子は私の大事なものを持っているんですから」
可符香にそう言われると智恵は弱い。やがて諦めたようにため息をつくと、
智恵はある場所の住所を書いて渡した。

「今はここで、何かの仕事をしているそうだけど」
「ありがとうございます!」
可符香はぴょんと跳びあがるように椅子から降り、部屋から出て行こうとして
ドアの前で振り返った。
「ああ、そうだ智恵先生。今日、丸内さんの中から心の中を見せてもらったんですけど。
 何か、すごく退屈してるみたいですよ? 刺激が足りないって」
「人のプライバシーを勝手に見るのは止めなさい。
 ……困ったことがあるなら私のところに来るように伝えて」
「はーい、分かりました!」
元気よく返事をして、可符香はSC室から出て行った。残された智恵は
額に手を当ててため息をついた。

 * * *

智恵に教えられた住所は、絵画の販売をしている展示場だった。
いや、それは純粋な芸術としての絵画を売る場所ではないだろう。資産価値があるという絵画を
あの手この手で売りつけている、胡散臭いにpいを感じさせる場所だった。

――へえ、こんなところに……。

可符香はしばらく様子を見ていたが、彼女が仕事を終えるまで待つことにした。
日も暮れて辺りが暗くなった頃。彼女はようやく展示場の裏口から姿を現した。
「初めまして、根津さん」
背後から声をかけると彼女はぎょっとした顔で振り返る。
街灯の光でお互いの顔は良く見えた。
「……誰?」
「美子ちゃんのクラスメイトだよ。ずっと学校に来ないから、どうしたのかなあって思って」
「クラスメイト?」
美子は馬鹿にしたように笑う。

「そういうの興味ないからさ」
そう言って踵を返すと、立ち去ろうとする。
「待って、美子ちゃん」
可符香は小走りに走って彼女の前に回り込んだ。

「だったら、賭けをしない?」
「賭け?」
「うん。美子ちゃんが勝ったら学校に来なくていいよ。
 でも、私が勝ったら学校に来てね。一日でもいいから。それで、翔子ちゃんって子が
 退屈しているみたいだから何か面白いことさせてあげてほしいな」
「ふーん」
美子は興味なさそうにしながら、

「何で賭けをする気?」
と一応尋ねる。
「ポーカーなんか、どう?」
「ポーカー?」
「うん」
「いいよ、乗るよその賭け」
美子は急にその気になった。ポーカーは何度かやったことがある。
こんな幼い雰囲気の高校生より自分の方が絶対強いだろうと、
美子はそう思っていた。
あっさり負けてしまえばこんなお節介なことをしてくることはもうないだろう。

テーブルがある方が落ち着いてできるので二人でコーヒーショップに入り、
店員さんから見えにくい隅の席を選ぶ。

カードは可符香の持っていたものを使った。カードにおかしなところがないか、
美子は事前に確認してからゲームに臨む。美子ちゃんがカードを配って良いよ、
と可符香が言うので美子がカードをよく切ってから5枚ずつ配った。
二人ともそれぞれ一回ずつ手札の交換をし――美子は一瞬立ちくらみのように
目の前が暗くなったが、気のせいだと思った――、

「私はこれでいいよ」
「私も」
と二人の息が合う。
「じゃあ」
と美子がカードを見せようとすると、可符香が手を伸ばしてそれを押しとどめた。

「何?」
「見せなくてもいいよ。見せなくても、私が勝ってるってわかってるんだから」
「はあ? 何言って……」
「美子ちゃんツーペアでしょ? 私スリーペアだから、私の勝ちだよ」
美子は愕然とした。確かに美子の手札はツーペアだ。だがなぜ相手にそんなことが
分かるのか、それが分からなかった。

「そんなの、見てみないと分からないでしょ」
「んー、じゃあ、このままカードを見なかったら引き分けってことにしてあげる。
 でも、カードを見たら美子ちゃん、負けだよ?」
――この子、単に何の役もできてないだけじゃないの。
美子はそう思った。自分の手札があまりにも弱いから、ゲーム自体をなかったことに
しようとしてこんなことを言っているのだろう。
ツーペアと彼女が言ったのも、当てずっぽうに決まっている。
たまたま当たっていただけで……、

「いいよ、カード見ようよお互いに」
「ふーん」
可符香と美子は同時にカードを開いて見せた。美子は絶句した。
美子の手札はツーペア、そして可符香の手札は彼女が言った通りにスリーペアだったから。

「どうして……」
可符香はにこにこして答える。
「美子ちゃんの顔見てたら分かっちゃった。美子ちゃんのことなら、私もう何でも分かる
 気がするよ」
そんなはずはない。顔を見ただけで分かるものか。美子はそう思ったが、しかし現実を見ると
可符香の言葉を否定しきることもできなかった。

「じゃあ、約束だよ美子ちゃん。明日学校に来てね。翔子ちゃんのこと、楽しませてあげて」
可符香は自分の席から立ち上がり、立てないでいる美子の肩に軽く手を添える。
それからそっと耳元で囁いた。
「来なくてもいいけど、そしたら私また美子ちゃんのこと呼びに来るからね?」
美子は、その言葉にぞくりとした。

 * * *

翌日。可符香との約束通りに美子は高校に登校していた。
約束を破ることは簡単だったが、可符香の得体のしれなさの方が怖い。

――学校に行くくらいであの子が納得するならその方が楽だ……
という考えが美子の行動を決めていた。
初めて来てみた学校は、想像通り大して面白い場所ではない。
変な教師と、変なクラスメイト達と。美子が初めて登校したというのに
クラスメイトたちが特に騒ぐこともなく、まるで彼女がずっと前から
その教室にいたかのように振る舞うのも奇妙だった。

何ということもなく学校生活を終えようとしていた美子だったが、
「ねえ、美子ちゃん。約束だよ」
と可符香が突然席の背後に立っていた。
「な……何?」
美子は振り返らずに、つとめて冷静を装う。

「翔子ちゃんのこと遊んであげてって」
可符香は美子の耳元でささやいた。美子も静かに言葉を返す。
「隣の席の子でしょ? 普通の子じゃない、真面目そうな……。
 何で私と絡ませたいのよ」
「きっと、美子ちゃんは翔子ちゃんと仲良くなれると思う!」
可符香が突然大きな声を出したので、美子の隣に座っていた翔子が
驚いてこちらを見た。

「ねえねえ翔子ちゃん」
渡りに船と言わんばかりに可符香は翔子に目を向け、
「な……何?」
「美子ちゃんが放課後翔子ちゃんと遊びたいって」
「ちょっと、あんた」
何勝手なこと言って、と美子は言いかけたが可符香がちらりと向けた視線に
威圧されるように口をつぐんだ。

「いい……けど?」
戸惑いながら翔子は答える。
翔子にしてみれば、突然登校してきたクラスメイトが一日ろくに口もきいてこなかったのに、
「遊びたい」と言われても違和感だらけだ。
ただ、見ていた様子から美子も学校に退屈していたのは分かったから
気が合うかもしれないとは少しだけ期待していた。

「良かったね美子ちゃん。じゃあ、そういうことでね」
勝手にそう決めて可符香はその場から離れる。美子はもうどうにでもなれ、と
やけくそだった。

――仕事場に連れて行ったらいい。
美子はそう思っていた。
ごく普通の、育ちの良いらしい彼女のこと、美子がしている仕事のことを知れば
すぐにでも逃げ出すだろう。可符香もそれで諦めるだろうし。


ということで美子は放課後、翔子を自分の職場に連れて行った。
「いつもこんなところにいるの?」
絵画の展示場という慣れない場所で辺りを落ち着きなく見回しながら
翔子は尋ねる。
「そうだよ」
美子は高校の制服からカジュアルな服装に着替えていた。
「適当に絵でも見ながら辺りを見てたら?」
そう言って翔子を置き去りにすると、展示場に入ってきた男の接客に急ぐ。
絵の資産価値の説明をあれこれすると、男はやがて美子の話術に乗せられたように
購入契約に同意した。

―― 一丁あがりっと……。
今日最初の客とうまく契約できたことに手ごたえを感じながら美子が振り返ると、
すぐ近くに翔子が立っていた。丸い目をして、彼女のことを見つめている。

「分かったでしょ。いつも私が何してるか」
こくん、と翔子は頷いた。
「悪いけどさ、私、風浦さんに言われてあなたを今日誘っただけなんだ。
 遊んでる暇なんてないからさっさと……」
帰って、と言いかけた美子の言葉に重ねるように翔子が口を開く。
「ねえ、私もやってみていい?」
「え?」
翔子の真意をはかりかねて美子は聞き返した。
「私も、やってみていい? 根津さんみたいなこと」
翔子は繰り返す。
「遊びじゃないんだよ」
と美子は言った。
「一回だけでいいの。見てて。私結構うまくやれる気がする」
「ええ?」
その自信はどこから来るのか、と美子は思う。
だが、いっそやらせてしまえとも思った。
どうせうまくいかないだろうから、それでもう私には絡んでこないだろう――、
だが、この美子のもくろみもまた外れた。

翔子は、実にうまくやったのである。
ビギナーズラックという雰囲気でもなく、先ほどの美子の言動を
トレースしながらも自分なりの工夫を加えて契約をとってきた。

「丸内さん、あなた……」
「もう一回、やってみてもいい?」
美子は無言で頷いた。彼女の実力を測ってみたいという気持ちが強くなった。

 * * *

「ねえ、根津さんって普段あんなことしてるんだね」
昨夜と同様、暗くなってから美子は展示場を出る。今日は翔子も後ろについていた。
契約がいくつかとれて上機嫌の翔子は、よく喋った。
「どうして、あんなことしてるの?」
「お金が欲しいから」
美子は不愛想に答える。美子の方が今日の契約件数が少なかったので、
少し機嫌が悪かった。
「なんで?」
「なんでって――」
「お金って、何かを買いたいから必要なものでしょ? 根津さんが本当に欲しいのは何?」
「……お金で買えるのは物だけじゃないよ」
「じゃあ、根津さんは何が欲しいの?」
美子は立ち止まると振り返って翔子の顔を正面から見据えた。

「好きなことしてられるから」
「好きなことって?」
翔子も美子の顔を見つめかえす。
「……お金稼いだりとか」
「お金が目的なんだ」
「今はね」
美子は踵を返した。

「ねえねえ」
翔子は小走りに、美子の隣に並ぶ。
「良かったら、私もそのお金儲けに協力させてくれない?」
「……なんで?」
美子はちらりと視線を翔子に向けただけですぐに戻した。
「私、今の生活退屈だしつまらないし」
「遊びでやってるんじゃないんだよ」
「私と根津さんが協力したら、もっとお金稼げると思うけど?」
美子の足が止まった。翔子が言っていることは、美子も薄々感じていたことだった。
二人で協力すれば、もしかしたら今の倍以上の収入を得られるかもしれない。

「……本気で言ってるの?」
「うん。あ、でもね、一つだけ条件が。根津さんも毎日登校してくれない?
 あの学校でもお金儲けのネタはありそうだし、私一人で通うのも退屈だし」
「ふうん……」
少しの間、試してみるのもいいかもしれない。美子はそう思った。
問題は翔子が美子にとって信用に足る存在なのかということだが、
信用できないとなったらその時点で切ればいい。

「儲けは半々、それでいい?」
「うん、もちろん。これからよろしくね」
翔子はにっこりと笑った。

美子は、まだまだ引き返せるつもりでいた。いつでも、翔子を切れるつもりでいた。
しばらく後に翔子が彼女にとって絶対に手放せないパートナーになるとは思ってもいなかったのである。

-完-

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