神は死んだと思っていた。

死んだのは神ばかりではない。
悪魔とか霊とか、そんなものは中世頃までの迷信が産んだ影で
この現代にはもう存在しないと思っていた。

彼女に、会うまでは。

 * * *

一人で暮らすマンションのドアの内側には悪霊退散のお札が
何枚も何枚も、ドアが見えなくなるくらいまで貼ってある。
彼女の存在を知ってからすぐに私はお札を取り寄せ
ドア一面に張り巡らせた。
せめて自分の住まいだけは守ることができるように。

彼女――風浦可符香。生前の名は赤木杏。
移植コーディネーターが本業の私は、脳死状態にあった彼女の臓器を
幾人もの少女たちに移植するように手配をした。
赤木杏の臓器は、ほぼすべて他の少女たちの身体に渡ったと言っていい。

しばらく後に、移植を受けた少女たちを集めた「学校」に私は
スクールカウンセラーとして勤務することになった。

そしてそこで、彼女に会った。風浦可符香に。正確には、少女たちが演じる彼女に。

「風浦可符香」は偽名である。移植を受けた少女たちに、ドナーのことを
少しだけ記憶してもらいたくて教えた名前に過ぎない。
しかし少女たちは、交替して黄色の髪留めをつけては「風浦可符香」を演じはじめた。

初めは、ふざけているのかと思った。
しかし、彼女たちが演じる風浦可符香の人格は一貫していた。
私は意識があるときの赤木杏に会ったことはない。
彼女がどんな言動を取っていたか、実際には知らない。

しかし、彼女たちが演じる風浦可符香はこうした少女もいるだろうと――
赤木杏が元気だった頃はこうだったのかも知れないと思わせるものがあった。
それにはっきりと気づいた時、私はお札を求めた。
こんなおかしな状況になるのは霊か何かのせいではないかと、
そんな風に考えずにはいられなかった。

そして、先日。少女たちは卒業した。
風浦可符香――赤木杏も、古い言い方で言えば成仏したはずだ。
私はようやく肩の荷が降りた気がした。

――もう、このお札は剥がしてもいいのかしら。
ドアに手を触れる。お札は随分古びていた。もう何年も経つから、と私は思った。

と。私は目を疑った。
ドアに張り付けた幾枚ものお札が、手も触れていないのに一斉にばらばらと
剥がれ落ちた。
風が吹いたわけでもない。ドアも窓も閉まっている。
糊の劣化だろうか。しかし、こんなに同時に劣化するものだろうか。

”ひどいじゃないですか、智恵先生――”
誰かの声が頭の中に聞こえた。いや、誰か、なんて曖昧なものではない。
彼女の声が私の頭の中に聞こえた。

「風浦さん!? どこにいるの!?」
振り返って部屋の中を見回す。だが、誰の姿もそこにはない。
”ここですよ。分かりませんか?”
分かりませんかと言われても、見えないものは見えない。
声は私の背中の方から聞こえてくる気がするのだが、見てみるとそこにはいないのだ。

あっと思って、私は洗面所に飛び込むとその鏡を覗いた。
鏡越しに背後を見ると、彼女は確かにそこに映っていた。

「――赤木さん……」
意識を失って昏々と眠り続けていた赤木杏が高校生になったら
こんな顔形になるだろうかと思われる姿で、彼女はそこにいた。
”その名前は久しぶりです”
と彼女は笑った。
――生徒たちは可符香という同級生をこんな容姿で見ていたのね。
私はそう思っていた。
私が見ていたのは誰かが演じる彼女の姿で、外見は元の少女たちのままだったから。

”それにしてもひどいじゃないですか。私が居なくなったから悪霊退散の
 お札をはずすんじゃ、まるで私が悪霊みたいです”
軽い口調で、彼女は話を戻す。
「あの……その……だって……」
どう答えたらいいかいいか分からなくて私は言葉に詰まった。

”分かってますよ。私が、怖かったんでしょう?
 先生のところに復讐にでも来たんじゃないかって”
ふ、と笑って彼女はそう言った。
「だって……赤木さん。私はあなたの身体を……」
切り刻む決断をした。彼女がドナーカードを持っていたとはいえ、
あそこまでばらばらにされることを望んでいたとは思えない。
人は私を悪魔と呼ぶ。

”んー”
彼女は少し考えるような顔をした後、
”まあでも、結果的に高校に行けましたしね。結果的にですが。
 それはそうと”
もっと大事な話があるんです、と彼女は私に告げた。

”赤木杏のこと、覚えていてくださいね”
「え……?」
意外に思って、私は聞き返した。念を押されるまでもない。
私が彼女のことを忘れるはずがない。
”風浦可符香のことは絶望先生もクラスのみんなも覚えていてくれます”
「え……でも、クラスの子たちは……」
”忘れると思ってますか?”
私が小さく頷くと、
”それは先生の願望ですよ”
と彼女は静かに答えた。
「願望?」
”ええ。みんなに、普通の人生を歩んでいってほしいという願望……、
 あの時の移植が、普通の移植であってほしかったという願望。
 移植の後に霊が現れたなんてことはあってほしくなかったという願望”

内心を言い当てられたような気がした。

”でも、智恵先生。それはさせません。みんな、私の血肉を分け与えた……
 私の大事な、友達なんですから”
きっぱりと彼女は言いきって、
”でも”
と言葉を繋いだ。

”智恵先生はご存知ですよね。赤木杏のことを覚えている人はもうほとんど
 いないんです”
「ええ……」
赤木杏は家族縁が薄かった。

”だから、せめて智恵先生だけでも赤木杏のことを覚えていてくださいね”
「忘れるはずがないでしょう」
”安心しました”
彼女はにこりと笑顔を浮かべる。

「赤木さん」
私は洗面台にしがみつくようにして鏡の中を覗き込む。
「私のこと、恨んでる?」
”やだなあ、そんなわけないじゃないですか”
彼女は何かを企むような笑いを浮かべる。
”高校にも行けましたし――、熟女のセーラー服まで見せてもらいましたし!”
そう言って彼女は吹きだして大笑いした。私の頭にかっと血が上る。

「私の着替えを勝手にセーラー服に変えていたのはやっぱりあなたね!」
”熟女のセーラー服はずるいですよ智恵先生! 絶望先生も回春してたじゃないですか!”
「誰が熟女ですか! 大体勝手に変えておいてずるいも何も!」
甲高い笑い声を残して、彼女は突然鏡の中から姿を消した。

「赤木さん? 風浦さん?」
呼びかけてみても、もう返事はない。高校にいた時から彼女は神出鬼没だったが、
今回もそうだった。

――忘れないわ、あなたのことは……。
そう思いながら、なんだか疲れた気がして私は洗面所の床に座り込んだ。


-完-

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