「おい」
二のへの教室。後ろから声をかけられて日塔奈美は振り返った。
「どうしたの、倫ちゃん?」
後ろに立っていたのは糸色倫。クラスの担任、糸色望先生の妹である。
なぜかこのクラスに編入してきて今は奈美たちの同級生として日々を送っている――
ことになっているが、いわゆる高校生らしい部分はほとんどなく、
兄である先生やその生徒たちをからかうために学校生活を送っているようにも見える。

「お兄様がお前に話があるそうだ」
「先生が?」
なんだろう、と奈美が首を傾げると倫はその様子を見て、
「望お兄様ではないぞ。命お兄様が話があるから、放課後医院の方に来るように、と」
「絶命先生が?」
糸色家には先生と呼ばれる職業についているものが多い。
倫と望の兄にあたる糸色命は医師であり、この高校の近くで糸色医院を開業している。
腕は悪くないのだろうが、「糸色命」という名前――横書きで続けて書くと「絶命」と
なってしまうこの名前が災いしてか、中々繁盛とはいかないようである。

「……なんだろう?」
担任の教師に呼ばれるならまだ分かるが、医師に呼び出される覚えはない。
本格的に奈美は首を傾げた。
「知らぬ。できるだけ早く話したいそうだが」
「あ、じゃあさ。これから行くから、倫ちゃん一緒について来てよ。
 私、命先生とほとんど話したことないし」
「今日は用事があってな」
と倫はつれない。
「え〜、そんな」
「どうせ碌に患者もいないだろうから、行けばすぐに話もできるだろう」
では、伝えたぞ。と言って倫は奈美に背を向けるとそのまま鞄を持って教室を出て行った。
しょうがないなあ、と思いながら奈美も鞄を掴み、掃除の始まった教室を後にする。
掃除となると命をかけているかのように熱心な木津千里がみんなに指示を飛ばす声が
後ろから聞こえてきた。


というわけで、糸色医院に来てみたのだが。
運悪くこの日は妙に患者が多かった。受付で診察ではないことを告げると、
患者さんが一通り済むまで待つように頼まれ――それ自体は当然だと奈美は思ったのだが、
後から後から、決して多くはないものの途切れることなく患者がやってきて
奈美は待合室でずいぶん待たされる羽目になってしまった。


――何の用事なんだろう。
待合室に置いてある雑誌の興味のある記事を大体読み終えてしまうと、
そんなことを考えて時間をつぶすよりほかになくなる。
医者に呼び出されるというのは、普通に考えて碌なことではない。

――でも私、絶命先生にかかったことないし。
同級生の小節あびるがこの医院に通っているので何度か一緒に来たことはあるが、
診察室まで入ったことはない。
そういえばあびるちゃん今日休みだったっけ、と奈美は思いながらまた思考を巡らせる。

強いて診察されたというなら、この前学校で一斉に行われた健康診断の時くらいだ。
――でも、あの健診で何か問題があったならまず学校に連絡が来るよね。
一度はそう思ったものの、奈美ははたと別の可能性に気が付いた。

担任はここの医師の弟。
しかもチキンときている。
奈美の健診結果に問題があると知らされたらどうなるだろうか。

”ええっ、日塔さんがこんなことに!? ここ、こんなこと言えませんよ!
 兄さん代わりに言ってくださいよ、医者でしょう!?”

――まさかそんなこと。……
うろたえる担任教師をリアルに想像してしまったが、ないない、と奈美は頭を振って
その想像を自分の中から追い出そうとした。
――健診の結果が悪かったなんてこと、絶対ないから!
根拠があるわけではないのだが、奈美はとにかく否定したかった。

「お大事に」
最後の患者さんが診察室から出て来てしばらくしてから、
「お待たせしました」
と言って絶命先生は奈美を診察室へと招き入れた。
緊張した面持ちで奈美は部屋の中へと入る。
診察室はいつも奈美がかかっている内科の先生の部屋よりは少し広く、
奈美は患者用の椅子に座って糸色命医師と正対した。

「あ、あの」
声が震えているのが自分でもわかる。
「なんなんでしょうか……?」
まるで、悪いことが告げられるのが分かっているかのように奈美はおどおどしながら
糸色医師に尋ねていた。

「小節あびる」
「え?」
彼が口にしたのは奈美の同級生の名前だった。
「知ってますよね」
「え、ええ」
もちろん。と奈美は頷いた。まさかあびるちゃんに何か良くないことでもあったのだろうか、
と悪い方向に思考は進む。

「倫から聞きました。あなたと彼女は親しいそうですね」
「ええ」
奈美はこっくりと頷いた。
「あ、あの。あびるちゃん今日休んでたんですけど、何か……ひどい怪我でも……」
「まあいつもよりは少々ひどくてね。一日学校を休むように昨日指示しました。
 ちゃんと聞いているなら良かった」
「それであびるちゃんがどうかしたんですか?」
奈美は話を話を急かす。糸色医師は椅子の背もたれに大きくもたれかかった。
「彼女には自覚が足りない。そう思いませんか」
「何の自覚でしょうか?」
「もちろん……、」
彼は言葉を切った。
「怪我人としての自覚です」

小節あびるには怪我が絶えない。彼女の腕や足には包帯や湿布や絆創膏がいつも巻かれてていたり
貼られていたりしているし、服で見えないところにも包帯があちこち巻かれていることも
奈美は知っていた。

動物好きの彼女が動物とじゃれている間に負った怪我の場合が多い。
が、時に事故に巻き込まれていることもある。

「彼女はいつも怪我をしている。――怪我を、ましてや彼女のような大怪我を一つしたのなら
 それが治るまでおとなしくしているものです。大抵は」
冷静に続ける意思の言葉に奈美は黙って頷く。
「でも彼女はおとなしくなんてしやしない。それどころか、更に別の大怪我を負ってくる」
奈美は、また大きく頷いた。奈美が見ているあびるも確かにそういうことをしている。

「怪我人としての自覚が彼女には必要です。一度、きちんとすべての傷を完治させることを
 考えなければ」
「はい」
奈美は声を出して返事をした。彼の言っていることはよく分かる。
あびるには一度全部の怪我を治しきってもらいたい。

「それで。あなたには――」
命医師は背筋を伸ばして奈美を見据える。
「彼女にその自覚を持たせてもらいたいんです。友達だからできることもあるでしょう」
「えっ」
無理です、と奈美は言いそうになった。そんなことができるなら、
おそらくはとっくの昔にそうしている。
今まであの状態だったのはそんなことができないからだ。

「もちろん、医者としても努力しますが。あなたや、彼女のクラスメイト達が
 頑張った方が早い気がしましてね」
「絶望先生には頼まないんですか?」
「望にそんなことができるとでも?」
冷静に返され、無理ですね、と奈美は思う。
それにしても――と奈美の思ったことはつい口から零れ落ちた。

「先生っていいお医者さんですね」
「え?」
「あ、いやその」
言うつもりはなかったのに言ってしまったのに気づいて奈美は慌てる。
言葉の意味を説明した方がいいだろうと
「その、あびるちゃんが病院に来た方が経営にはいいのに」
「ああ」
それは確かにそうですが、と命医師は再び椅子に大きくもたれかかった。
少しだらしのない姿勢になる。
「医者は患者が健康になるのが願いですからね」
「ええ……」
立派なお医者さんだなあ、と奈美は思う。姿かたちはそっくりでも、
教師の使命をどこかに置き忘れてきたかのように毎日絶望している
どこかの教師とは大違いだ――、

「ごめんねえ、忘れ物しちゃったみたいで。ベージュの帽子なんだけど、届いてない?」
突然待合室の方から中年女性の大きな声が聞こえてきた。
忘れ物を取りに戻って来たらしい。受付の看護婦さんが対応しているようだ。

「ああ、そうそうこれこれ。ありがとうねえ。ねえそういえば、いつも来ている
 包帯ぐるぐる巻きの女の子、今日は来ていないみたいだけど?」
あびるちゃんのことかな、と漏れ聞こえてくる声を聴きながら奈美は思う。
あびるはこの病院の常連患者の間では有名人になってしまっているのかもしれない。
命医師のこめかみがぴくぴくと動いていることに奈美は気づいた。

「本当にねえ、あんな若いのにいつまでたっても怪我が治らないから
 糸色先生、ヤブなんじゃないかって噂まで流れてるのよ〜」
診察室で奈美や命医師に聞かれているとは知らず、常連患者の言葉が続く。

「こおのぉ〜っ!」
苛々したらしい命医師は思わず立ち上がると自分の座っていた椅子をドアに投げつけようとして
「先生!」
と奈美に言われて思いとどまる。
「いや失敬。とにかく、小節さんのことをお願いしますよ」
彼は平静さを装って椅子を戻すと再び腰かけたが、その顔には汗がにじんでいた。
――なるほど、あびるちゃんの怪我がいつまでも治らないと病院が困るんだ……
と奈美は納得した。


ということで翌朝、奈美はいつもより早く登校した。
あびるに自覚を持たせると言っても、奈美一人だけではたぶん無理だ。
みんなの協力を得なければ。

早く教室に来た同級生を捕まえると早速奈美は事情説明を始める。
三々五々やってくるクラスメイト達も次第に奈美たちの周りに集まってきた。
「あびるちゃんに自覚を?」
一番近くで奈美の話を聞いていたのは千里。
「うん、どうすればいいかなって」
「自覚を持てるならそれに越したことはないけど――」
近くの席に腰かけて漫画を読んでいた藤吉晴美も聞いていたようで話に加わってくる。
「自覚持てるんならもう持ってる気もするよね」
「アレをなんとかすればいいんじゃないか?」
腕組みしたままアイディアを出したのは木村カエレ。
「アレ?」
奈美が尋ねると、
「ほら、この前言ってた0.001秒の……」
「ああ、0.001秒の悪魔」
この前、智恵先生が言っていた。事故の時に、咄嗟に逃げようという気持ちが
諦めに変わってしまうことを0.001秒の悪魔と呼ぶらしい。
あびるはどうしても、車が自分に近づいてくると逃げるのを諦めてしまうことが
多いらしかった。

「でも、それってどうすればいいのかなあ」
「さあ――、別の人格になれば天使の方が憑いてるかもしれないけど」
カエレの言うことは簡単には実現し難い。

「先生に頼んで登校を禁止してもらったらどうかしら。」
千里が思いついたように言う。
「は?」
「ほら、あびるちゃん怪我してても学校に来るけど。けが人はきっちり休むべきじゃない!?」
めるめる、と音無芽留が携帯に文字を打ち込んでみんなに見せる。

『先生に言われて休むような奴か?』

「それもそうね、だったら私が行って――。」
と千里が愛用のきっちりスコップを手に取ると、

「やだなあ」
と可符香の妙に明るい声が教室の後ろからした。
「あびるちゃんは怪我人なんかじゃないよ」
「え?」
またいきなり何を言い出すのか、という目でみんなは可符香を見る。
可符香はどうすればいいのか確信を持っているような顔で近づいてきた。
「あびるちゃんは苦行をしているんだよ。だからあれは怪我じゃなくて、苦行の成果」
「苦行? ってお坊さんがするあれのこと?」
うん、と可符香は奈美に大きく頷いて見せる。
「だからあれは悟りに近づくための尊い行為なんだよ」
はあ、と一瞬納得しかけた奈美だったが、

「でも、あびるちゃんが怪我してたらやっぱり体に負担だよね。危ないし――」
と呟く。

「なら、0.001秒の天使を召喚しましょう。あびるちゃんに」
と可符香はこともなげに言う。
「そんなことできるの!?」
「千里ちゃんならできるよね」
「うなっ!?」
可符香は突然千里のおでこに手を当てた。
「ほら、千里ちゃんの千里眼が開けば!」
と、可符香が手をどけると千里の額にははっきりと第三の目が開く。
「どど、どうしてこんなことに……」
腰を抜かしている奈美たちを尻目に千里は
「あびるちゃんが来た!」
と叫ぶ。言葉通り、小節あびるは松葉づえを両脇に抱えて教室に入ってきた。
「おはよう。あれ、みんな集まって……」
というあびるの声は突進してきた千里にかき消される。
「何」
あびるの小さな声は誰にも聞かれることがなく、
千里はあびるを押し倒すと
「ここに! 0.001秒の天使を! 召喚するのじゃ!」
と叫びあびるの右足のギプスに太いマジックで何かの模様を――
人類が見るにはたぶん早すぎる何かを描き始める。

「じゃあ、私もポロロッカ星人へのメッセージを描きます!」
可符香が千里の横からマジックを差し入れ、こちらはこちらで好き勝手な絵を描き始める。
「マリアもお絵かきするゾ!」
状況が分かっているのかいないのか、マリアもあびるのギプスに何やら風景を描き始めた。

「は……はは……」
よく分からない展開になるのはいつものことなので、奈美は乾いた笑いを浮かべて見ているしかなかったが、
――でもそういえば、ギプスにメッセージを書くのってよくやるよね。
と思いついた。これまであびるにそんなことをしたことはなかったが。

「私もちょっと」
と可符香やマリアの間に入ると、ごく普通に「早く治りますように」と書いておく――
千里の描くよく分からない模様を邪魔しないように。

結局、千里による召喚は始業時間まで続いた。

 * * *

「……」
放課後、あびるが糸色医院に行くと。
命医師はギプスにこれまで見たことのないものが沢山描かれているのを見て絶句した。
「……これは?」
「友人が描いたんですけど」
「何を意味してるんだ?」
「さあ――話を総合すると、おまじないか何かみたいですけど」
「ふ、ふーん……」
『怪我人の自覚を持たせろ』と言ったことがこの絵に繋がっているのだろうか。
見ていて背筋が寒くなるものをおぼえるような絵柄であったので、
命医師はなるべく視線を逸らせておこうと思った。が、一つ、ごく普通のメッセージが
書いてあるのも目に入った。

「と、友達が書いてくれているみたいに早く治さないとな」
上ずった声でそう告げる。本当はもっと感動的な雰囲気で言いたかったのだが。
「そうですねえ」
あびるはどこか他人事のような返事だ。
君はやはりもっと自覚を持ちたまえ、と医師は思うのであった。


-完-

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