「ばっかやろ! 口答えばっかりしやがって!」
怒声とともに少年の身体は雪の中へと投げ出された。珍しくもない。
この家で奉公を始めてから数日に一度はあることだ。
だが、病み上がりの身体にこれは応えた。
彼の栗色の髪も今はすっかり艶を失い、顔にぴたりと貼りついている。

「今夜は外で反省してな」
ごめんなさい、ごめんなさいという謝罪もむなしく、ぴたりと扉が閉められる。
雪はやんだとはいえ、気温はまだまだ寒い。彼は雪の中でぎゅうっと身体を丸くした。
それでも、容赦なく体温は奪われていく。

――僕、ここで死ぬのかな……
弱気なことを思う。生まれ故郷からこの東国の地に方向に来てしばらく経つが、
最近はこう思うことが増えた。実際この豪農の家は人遣いが荒いことで有名で、
彼の前に奉公していた少年は無理がたたって病気でなくなったらしい。

――お母さん……。
眠くなってきた。雪の冷たさはここも彼の故郷の北国も変わらない。
こんな時に脳裏に浮かぶのは優しい母親のことだ。
こちらに来てから一度も会っていない。最後に別れるときに
”辛くても頑張るんだよ”
と言った母親の言いつけを守って、彼は頑張ってきた。
慣れない奉公も一生懸命やったつもりだった。だが、やってもやっても
怒られるのには変わりがなかった。
もう限界だ。彼の身体は雪の中に倒れる。もうここで眠ってしまおうと思った。

 * * *

「あら……」
薄い月明かりを頼りに雪の降りつむ町を歩いていたイースは、雪の中に倒れた少年を見て
足を止めた。

――死んでいるのかしら。それとも、……
イースはきょろきょろと辺りを見回し人気のないことを確認すると
手にしていた鞄の中から自分の血でつくったトバリノリを取り出す。
これを注射すれば、多くの生き物はすぐに死に至る。
こうして死んだ獲物を食べると、戦う手間が省ける。

「今、楽にしてあげるわ」
イースは雪の中で眠っているように見える少年に近づくと、
鞄を置いて屈みこんでそっと彼の腕にトバリノリの針を刺す。
少年は死んだように動かなかった。だが、イースがゆっくりとトバリ毒を
体内へと注入していくと、彼は突然かっと目を見開き身を翻して
トバリノリを叩き落とすと声にならない声で吠え、四つ足になってイースから
距離を取り彼女が身構えると同時に突進してその鋭い牙で彼女の左肩に噛みついた。
ぐっとイースから呻き声が漏れる。
腕を払って少年を振り落とそうとしても、彼はイースの肩に
牙をつきたてたまま離れようとはしなかった。
血が肩を流れていくのが分かる。

「……っ……」
誰かの血を吸うことは何度もあったが、誰かに血を吸われるのは初めてだ。
痛みの中に甘美なものがイースの中を駆け抜けたが、彼女はすぐに我に返ると思い切り
腕と身体をよじって少年を振り払い雪の積もる大地へと叩きつけた。
少年は身体を低くして怒りに燃えた目でイースをにらみつける。
ぐるぐるといった唸り声をあげている彼は野犬のようにしか見えなかった。

「大人しくしなさい!」
イースが一喝したが、少年は一瞬退いたかと思うと高く跳びあがり
空からイースに襲い掛かる。だがイースは右手に持ち直した鞄を大きく振り回し
彼を再度地面へと叩きのめす。少年はすぐに起き上って低い姿勢のまま
再びイースを睨み付けていたが、
やがて何かを思い出したかのようにくるりと身を翻すと
イースから離れてかけて行った。咲は、彼がこれまで暮らしていた豪農の屋敷だ。

緊張が解けて、イースは鞄を再び足元に置いた。

――痛っ……
改めて痛みを感じる肩に手をやると、ねっとりとした自身の血液がイースの手についた。
ぺろりとその血を舐めて味わってから止血しようと鞄の中から包帯をだし、
服の上から傷口を抑えて簡単に止血をする。

――それにしても、あの子……
屋敷の方から小さな悲鳴が聞こえてきた。

トバリの血には毒がある。トバリであるイースの血にも、毒がある。
トバリの毒を摂取した人間には3つの反応パターンがある。第1は、5分もかからずにあっさりと
死んでしまう場合。第2は、一命は取り留めるものの気が狂ってしまう場合。
第3は、一時的な錯乱を起こすがその後正気に戻り生きながらえる場合である。
第3の場合にはその人物はトバリとなり、トバリとして残りの生を生きていくことになる。

これまでイースの血を体内に入れたものはみな、あっという間に死んでいった。
生きていたのはあの少年だけである。彼が正気に返るのかどうかは分からない。
あの少年をこのまま放置して立ち去るか、それとも彼が入って行った屋敷に行って
様子を見てみるか。
イースは少し悩んだが、結局は行ってみることにした。


彼が体当たりで破ったらしい屋敷の扉から一歩中に入ると、
惨劇がこの中で展開されたのはすぐに分かった。扉のすぐ内側に二人の人間が
折り重なるようにして倒れている。二人は自分たちの血の海の中に倒れていた。
後ろ側に倒れている方の人間はまだわずかに息があったので、
イースは彼の息の根を止めてやった。

屋敷の奥へと入っていくごとに人の血の匂いが濃くなっていく。
ある部屋では三人ほどの人間が倒れていたが、その血は天井近くまで
飛び散っていた。イースは冷たい目で彼らの死体を一瞥する。
人の死を見て心を動かすなんて、そんな習慣を彼女はとうの昔に棄て去ってしまっていた。

イースはあの少年を探して広い屋敷の中を歩き回る。
屋敷には生き物の気配はまったくない。ただ死体と血ばかりがあちこちにあった。

屋敷の奥のある部屋は誰か女性が使っていたものらしく、壁際に大きな鏡台が置いてある。
その鏡台の前で、あの少年が床にうずくまって肩を震わせながらしくしくと泣いている。

イースはその姿に何かを幻視した。7歳の時の自分の姿。
小さなころだったうえに錯乱もしていたので記憶は曖昧だが、我に返った時
自分に何が起きたか分からず不安で不安で仕方がなかったことはよく覚えている。

「あなた……」
イースは部屋の中に肺って言った。少年はイースが近づいてくるのに気付いて顔を向ける。
その眼は既に正気を取戻し、涙に濡れていた。彼が口を開けて何かを言う。
それは以前のように吠えるものではなく、言葉の意味は分からずとも何かの
言語を発しているのだろうとは分かるものだった。

「怖いことなんて何もないわ。あなたにも、私にも」
イースはそう言って更に彼に近づく。少年は怯えたような眼でイースを見ていた。
どうやって彼に、敵意のないことを示したらいいか――イースは屈みこみ、
彼と視線の高さを合わせた。

「私は、今のあなたの敵ではないわ」
そう言って両腕を伸ばすと少年の身体を抱きかかえる。幸い彼の文化圏でも
それは親愛の情を示す行為だったようで、彼はイースの胸に顔を押し付けるようにして
抱きついて泣きじゃくった。イースは少年を抱いたまま、彼が落ち着くのを静かに待っていた。
ひとしきり泣いて、それでも泣き声が小さくなる時が来る。
彼の泣き声が小さくなったのを見計らって、イースは少年の身体を自分から少し離すと、
その眼を真っ直ぐに見た。

「あなた、私と一緒に来る?」
言葉は通じていない。イースは彼に右手を差し出した。彼が自分の手を掴んだなら
連れて行こうと思った。彼が手を伸ばしてこないのなら、このまま置いて行こうと思った。

彼はほとんど迷わなかった。イースが差し出した右手を、彼はすぐにつかんだ。
まるで、初めからこうしようと決めていたかのように。
イースは彼の手を引いて立ち上がった。

「分かったわ。一緒に、行きましょう」
彼女の顔は笑っていたかもしれない。イースは少年の手を引いて、月明かりに照らされる
雪の道へと出て行った。

――あなたは、私が一人前のトバリに育ててあげる。
彼女はそう決心していた。やがて、二人の姿は闇の中へと消えて行った。

翌朝、豪農の家の者が全員殺されていると分かって町は大騒ぎになった。
しかし誰も、奉公人の少年の死体がないことには気が付かなかった。
彼の存在そのものも事件の大きさに紛れて忘れ去られていたという話である。

-完-

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