清海高校の合格発表の日、泉田の高校受験は終わった。
彼女の受験番号は合格者を示す一覧に載っていた。
これで4月から清海高校に入学することが決まった。

夕凪中の担任の先生を初めとする先生や友達に報告して、次の日曜日。
朝早く目が覚めた彼女は――受験が近づいてからと言うものずっと
朝方の生活をしていたので癖になっていた――そのまま起きると、
ずっとしまいこんでいたランニングシューズを引っ張り出した。

地区大会が終わってしばらくしてから泉田はソフトボールに関わる道具を
奥の方にしまった。
自主練のランニングに使用していたこのシューズも、下駄箱に封印した。
勉強が行き詰るとついつい体を動かしたくなる。
ちょっとした気分転換程度ならともかく、30分、1時間と運動していたくなって
しまうので危険だ。
ということで、本格的に受験勉強をすると決めてからこういったものは
すべて目に見えないところにおいていた。
運動するのは体育の授業の時間に限定、というのが彼女が最初に自分に課した
制限だった。

そんな我慢も、もう終わりだ。
もう勉強を放っておいて運動に没頭していても誰にも怒られることはない――というよりも、
「こんなことしてていいんだっけ」と自分で自分に罪悪感を植え付けないですむ。

椅子を持ってきて下駄箱の上の方にしまっていた箱を取り出す。去年の今頃買った
シューズは、一目見るだけで履きこんでいることが分かる。
しまう時に良く洗って乾燥させておいたので汚れはほとんど目立たないが、
それでも、走っている時についた傷は隠れはしない。
紐を外してしまっておいたので、まず靴に紐をつけるところから彼女の
自主練は再開した。
久しぶりのことだと、たったこれだけでも新鮮だ。白を基調に赤いアクセントの入った
シューズに白い紐が通っていく。
足の様子を見ながら紐の締め方を調整し、あるところで決めて蝶結びにする。
立ち上がって少し歩いたり足首を回すストレッチをしたりしてみると、
靴が数か月前のように自分の足に馴染んでくるのを感じた。

小学校の頃は陸上をしていた彼女にとって、ランニングシューズはもっとも
馴染みのある運動靴といっても過言ではない。何足も履きつぶしてきたが、
こんなに休ませた靴はこれが初めてかもしれない。


一度靴を脱いで家の中に戻ると、私物のジャージに着替える。
まだ寝ている両親に「ランニングしてきます」とメモを残して
彼女は家を出ると、いつもの自主練コース――海沿いの道へと向かった。
暖かくなり始めた風が気持ち良かった。


ひょうたん岩をのぞむ海沿いの道は、夕凪中ソフト部もランニングに使っている。
中学に入学して以来、彼女はこの道を数えきれないほど走ってきた。
自主練でも、ここを走ることにしている。
いつも走っている道なのでタイムの変動が分かりやすい。
夕凪の海は朝日を受け止めてきらきらと光っていた。うん、と泉田はまず大きく
深呼吸をする。久しぶりに酸素が身体中にいきわたるような気がする。

軽い柔軟体操と準備運動をすませると、泉田はまず一本、と走り始めた。
足音が軽快に海ぞいの道を渡り始めた。

鳥の鳴く声が聞こえる。波の寄せる音も聞こえる。
初めて聞くように思いながら、彼女はゆったりとしたテンポで走り続けた。

――やっぱり、なまってる……
ゴール地点に決めている場所について、泉田ははあはあと息をつきながら思わず
しゃがみこんだ。
日曜の朝ということもあって人が少ないからいいようなものの、
しゃがんで手をついて休んでいるのを近くに歩いている人が見たら
心配されてしまうに違いない。

ずっと運動をしていなかったから仕方がない。
勉強する時間はうそをつかないので確実に成績は上がったが、
運動をしない時間もうそはつかない。体力は確実に落ちている。

――清海に入学するまでには元に戻しておかないと。
清海高校は勉強もスポーツも盛んである。受験前に学校を一度見に行ったときには
ちょうどグラウンドでソフトボール部が練習をしていた。
しばらく打撃練習を見ていたのだが、かなりのパワーヒッターも何人か
いるようで打ち損じたはずの打球まで遠くに飛んでいた。
夕凪中とはちがって部員も多い。
入学してからはまず、レギュラーの獲得が第一の目標になるだろう。
よし、と泉田は気合を入れて屈伸すると呼吸を整えてもう一度ランニングコースを見据えた。
軽く肩を動かして身体をほぐすと、今来たコースをもう一度逆向きに走り始める。
じんわりと汗がにじみ始めてきた。
走り終えると、泉田はまた息を切らせてへたりこんだ。先ほどよりも
疲労感は大きい気がした。

――砂浜で少し休もう。
道路から砂浜に降りて、体育座りをして一休みする。
本当に、体力が落ちたと思った。

「あの……ひょっとして、泉田さん?」
背後に足音が聞こえたと思ったので振り向いてみると、
確かめるような様子で話しかけてきたのは、自分と同じくらいの年恰好の女の子だった。
だが、誰だかわからない。少なくとも小学校や中学校のクラスメイトではない。

「え……っと。そうですが」
そうですが誰ですか? とは直接は聞けなかった。
「私のこと、覚えてない?」
「……」
覚えていない。どう記憶を探っても覚えていない。しかし、覚えていないといけない
相手のようだ。これはまずい。失礼すぎる。どうにかその場を取り繕おうと泉田は
「えっと、その」
と言ってはみたものの言葉が続かない。相手はその様子を見て明るく笑った。

「そうだよね、普通覚えてないよ」
「え」
「私、沢田っていうんだけど――小学校の時の市の陸上大会みたいなので
 泉田さんと一緒のレースによく出てたんだよね。夕凪五小の代表で」
「あ。――ああ」
はっきりと思い出したわけではなかったが、泉田は彼女にそう言われて
何となく納得できたような気がした。

このあたりの市立小学校は、年に何度か学校対抗のスポーツの大会をする。
野球やサッカーと言った競技はもとより、陸上の大会も行われている。
泉田は小学校の頃、よく学校の代表に選ばれてそういった大会に出ていたものだ。
確か一位になると県の大会に出られるという話だったが、そこまでいったことはない。
大抵二位か三位になっていた。そういえば、今眼の前にいる彼女はよく一位になっていた
――かもしれない。やはり記憶は定かではなかった。
同じ学年にほとんど毎回一位になっていた子がいたのは確かだが。

「中学一緒じゃなくても、陸上のどっかの大会で泉田さんのことは見かけると
 思ってたんだけど。陸上部には入ってないの?」
「あ。うん。私ソフト部に入ったから」
「ソフト部? 小学校の時からそっちもやってたの?」
「ううん、中学で始めて。チーム競技をやりたかったから」

三年前の三月、泉田は制服の採寸その他の手続きで小学校の同級生と一緒に
夕凪中を訪れた。中学に入ったらチームプレーのあるスポーツを始めたいとは
思っていたが、具体的に何かを考えていたわけではなかった。
その日、たまたまソフト部が守備練習をしていた。
「林、走れ! 動き遅いぞ!」
「はい!」
バッターボックスに立つ篠原先生が次々にボールを打っては指示を飛ばす。
部員たちがユニフォームを泥だらけにしながらボールに食らいつく。
その激しさに、泉田は少しの間見とれていた。
「手続きあっちみたいだよ、行こっ!」
今日手続きにきた小学生向けの掲示を同級生が目ざとく見つけ、一同は
そちらの方に足を向けた。
だがこの時にはもう、ソフト部への入部を泉田は考え始めていた。


「陸上でもチームっぽいことはできるじゃない。リレーとか」
三年前のことを思い出していた泉田は沢田の言葉に現実に帰ってきた。
「うん、そうなんだけどね。でもやっぱり、基本的には個人プレーだと思うし。
 それと、先生が熱心だから」
「先生?」
「うん。すごく厳しくて真面目で。小学校の時は陸上やってるっていっても、
 顧問の先生はそんなに熱心じゃなくて自分で勝手に走ってるみたいな
 ものだったから。なんか、そういう厳しい指導にちょっと憧れてたのかも」
「ふうん……そっか」
「でも、夕凪中の陸上部のみんなも結構すごいって聞いてるけど」
泉田がそう言うと、
「うん。でも、中学では泉田さんとも走りたかったな。私が一位になった
 レースで、二位になったのって大体泉田さんだから」
ああ、やっぱり。よく一位になっていた人がこの沢田さんなんだと
泉田は納得した。

本当はここで、「じゃあ今、一緒に走ってみる?」とでも言えば
いいのかもしれないが――しかし今の状態で走るのはあまりにもみっともない。
彼女の思い出をぶち壊しにする必要もないんだから、と泉田は思った。

「高校でもソフト部? ……ていうか、高校どこに行くの?」
「清海高校でソフト部のつもり」
そう答えると、彼女はえっと驚いた。
「頭いいんだ。泉田さん」
「そんなことないけど……」
「いや頭いいって! 清海とか私だったらありえないもん!」
そうなんだ、とも、そんなことないでしょ、とも言えず泉田は
「沢田さんはどこの高校?」
と聞き返した。

「私はね……」
沢田が言ったのは、泉田も知っている県立高校の名前だった。
スポーツに力を入れていることで有名な高校である。
競技によっては、他の県からわざわざその高校を目指して進学してくる人も
いると聞いている。
「ひょっとして、スポーツ推薦で?」
「うん! 筆記もあったけどね」
沢田は誇らしげに頷いた。
「高校でも陸上やるんだ」
「もちろん。最終目標はインターハイかな」
「へえ」
その高校にスポーツ枠で入った生徒なら、十分可能性はある。
「すごいね」
と、泉田は心からそう思った。
「泉田さんも頑張ってね。ソフトもインターハイあるし」
「あ……そうだね」
そういえば、そうだった。今まではそんなことは考えもしていなかったけれど。
じゃあね、と言って彼女は手を振ると去って行った。
彼女もジャージを着ていたことに泉田はいまさらながらに気が付いた。
朝の練習の途中だったのかも知れない。彼女の話からすると、
日々の陸上の練習こそが受験のための対策でもあっただろうから。

頑張ろう、と思って泉田は立ち上がる。目標は高い方がいい。
当面はレギュラー定着が目標でも、インターハイ出場を考えられるくらいには
いずれはなりたい。

もう一度走ろうと、泉田はいつものコースに戻ると柔軟体操をしてから
スタートラインについた。

-完-

 ←押していただけると嬉しいです。


短編SS置き場へ戻る
indexへ戻る