夕方の海を描き上げ、舞は満足したようにスケッチブックを眺めた。
ひょうたん岩を中心に据えた海は、橙色に輝いている。その光の一端でも
スケッチブックに留めることができて舞は嬉しかった。

もちろん、一端は所詮一端である。舞がどんなに頑張って絵を描こうとも、
実際に見る夕凪町の海には敵わない。
恐らく一生かかっても、本物には敵わないだろう。

そのことがまた、舞には嬉しかった。
自分には絶対に手の届かないものが厳として存在していてくれることが嬉しかった。

絵も乾いたので、帰ろうと舞は立ち上がる。
日も落ちる頃となると空気も随分冷たくなる。一時期と比べて日は大分長くなったのだが、
夕方になるとまだまだ寒い。
舞は誕生日にもらったコートのボタンをしっかりと留めた。
首をすくめるようにしてコートの中に埋める。寒いとついつい猫背がちになってしまう。
浜辺から道路へ上がると、「舞ー!」と大きな声がした。

「咲?」
「舞、スケッチ?」
咲は制服だけを着ている。コートも着ていない。寒いはずなのに、ちっとも寒いようには
見えなかった。

「うん、海を描いてたの。咲は――配達?」
咲はいつも乗る自転車を押している。どうして乗らないのか不思議に思いながらも舞は尋ねた。

「うん、学校から帰ったら頼まれちゃって。いくつか回ってたら、こんな時間になっちゃった」
咲は相変わらず自転車を押しながら近づいてくる。

自転車はいつものように軽やかに咲を先導するのではなく、重く咲に抵抗して
いるようだった。

「咲、自転車どうしたの?」
「最後のおうち行って来たらパンクしちゃった」
咲は頭に手を当てて苦笑いする。
「ちょっと道が暗くなってるところで良く見えなかったんだけど、道路に色んなものが
 散乱してたみたいで。両輪ともパンクするなんて初めてだよ」
「両輪とも!?」
「うん、そうそう。珍しいでしょ?」
「珍しい……初めて聞いたわ」
「今日はついてないみたい……う〜ん、でも最後の宅配先行った後だったからついてたのかな?」
良く分かんないや、そう言って咲はまた笑った。

「自転車、どうするの?」
「このままじゃ乗れないから、自転車屋さんに寄って帰るよ。少し遅くなっちゃうけど、
 でも、もう配達ないし帰るだけだから」
○○サイクリング、と咲は自転車屋さんの名前を言った。
この場所から見ると、PANPAKAパンを通り越して反対側にある店である。

「じゃあ、私もついてく」
「舞? もう遅いから……」
「遅いのは咲も一緒でしょ? 二人の方が安心じゃない」
舞の言葉に咲はちらりと心配そうな顔をしたが、
「じゃあ、自転車直ったら舞のことお家まで送ってくよ」
そう言って納得したようだった。

「舞、籠に荷物置いていいよ」
「駄目よ、重くなっちゃうから。ただでさえ自転車重いんでしょう?」
「スケッチブックと絵の具でしょ? 大して重くないよ」
「大して重くないから、自分で持ってるわ」
「もう、舞ってば」
二人は顔を見合わせて笑う。他愛のない会話なのに、なぜか楽しくて仕方がない。
自分達のしている会話の中身に、あまり意味などない。
ただ会話をしているということが重要なのだ――と、言葉にして考えたわけではなかったが、
二人とも何となくそういう気持ちを抱いていた。

○○サイクリングはまだ開いていた。咲が行くとおじさんから「久しぶり」と声をかけられる。

「パンクしちゃったんです、両方の車輪が」
「両方? へえ――タイヤが弱くなってたかもしれないね」
「直りますか?」
「直すよ」
おじさんは自信を持って断言した。
「うちで買ってもらったものだし、まだ寿命は来てないんだからね。
 少し時間かかるかもしれないから、友達と一緒に待ってて」
お願いしますと言って、咲は舞と一緒に店の外に出てみる。

今日は天気が良かったので、商品の自転車の一部は店の外にディスプレイされている。
スポーツタイプの軽いものもあれば、買い物用に使う大きい三輪車のようなタイプもあった。

咲は一際小さい、子供用の自転車に目を留めた。いかにも子供の目を引きそうな
アニメのキャラクターが車体に描かれている。

「あ〜、これ」
「みのりちゃん、この番組好きなのよね」
「うん。これ、見たら欲しがるだろうなあ」
咲は子供用の自転車のサドルに触れた。当然なのだがかなり低い位置にある。

「ねえ、みのりちゃんは自転車は?」
「まだ持ってないけど、欲しいみたい」
「咲が自転車乗ってるの見てるもんね」
「うん、乗りたがっちゃって。私が自転車に乗るようになったのも
 今のみのりくらいの時からだから、お父さん達もそろそろ買ってあげようかなって
 思ってるみたい。しばらくは転んだりして大変だと思うけど……」
「へえ、咲もあんなに小さな頃から乗ってたんだ」
「うん」
「あれ? 今の自転車に乗ってたんじゃないわよね」
「あれは乗れないよ〜、このぐらいの、」
咲はディスプレイされている自転車のサドルをぐいっと押した。

「子供用のに乗ってたんだ。特にキャラクターは描いてなかったけどね」
「その自転車を使えば、みのりちゃん練習できるわね」
舞は咲の家でそんなに小さな自転車は見たことがなかったが、物持ちのいい咲の家のことである。
どこかにしまってあるのだろうと思った。


「う〜ん、私が小さい頃乗ってた自転車は完全に壊しちゃったからなあ」
「……え?」
咲の口から意外な言葉が漏れてきた。

「壊しちゃったって、どうして? 大切にしてたんでしょう?」
「うん、大事にしてたよ。やっと買ってもらえた自転車だもん」
「それなら、どうして?」
舞にはどういうことなのか見当もつかなかった。大事にしていたと咲が言うのなら、
言葉どおり大切にしていたはずである。
少しくらい壊してしまったとしても、こうして直してくれる店もある。

「いや、それがね、その……」
咲は言いにくそうに言葉を濁らせるが、舞はそんな咲をじっと見つめていた。
諦めたように咲が重い口を開く。

「すごく、気持ちよかったんだよね」
「何が?」
「自転車に乗って、坂道下ってたら、ほら漕がなくてもすごい速さで降りていくじゃない?
 風があんまり気持ちよかったから、つい、そのう……」
「何をしたの?」
舞の口調は冷静なものではあったが、若干厳しさも含んでいた。
舞の真剣な顔を見て咲はえ〜っと、と言葉を濁したが、

「手を放しちゃったんだよね、ついつい」
やっと正直に言う。舞の顔色がすっと変わった。

「咲!?」
「いや、子どもの! 子どもの頃のことだから! お父さん達に沢山怒られたから、
 もう手を放したりしないから!」
「自転車はその時壊れたのね。咲はどうなったの?」
「私はほら、頑丈だし、丈夫で長持ち……」
「……咲」
「はい……」
舞の表情はあくまでも真剣なもので咲は顔を赤くして俯いた。
もう何年も前のことを話したのだが、舞が怒っているらしい空気は
何も言わなくても伝わってくる。

「もう、そんなことしてないのよね?」
「う、うんうん、もうそんなことしてないよ!」
舞は一つため息のように息をついた。

「それなら、いいけど。もう、咲ってば……」
「すみません……」
なんだか良く分からないままに咲は謝る。

――咲に大きな怪我がなかったなら良かったけど。もう、気をつけてくれないと……

「でも、今度の自転車は本当に大事にしてるんだよ、ね、おじさん」
咲は少し店に近づき、修理をしているおじさんに大声で話しかける。

「ああ、そうだね。今度のは大事に使ってるなあ」
「ほらほら」
咲はおじさんの言葉に胸を張った。
舞はそんな咲を見て「そうね」と笑う。その声に咲がほっとした顔をした。


修理の終えた自転車を再び咲が押し、約束どおり舞の家まで送っていく。
帰り道の会話は再び他愛のないものだった。

「じゃあね、舞。また明日ね」
「うん、あのね咲」
無事に舞を家まで送り届けると、咲は自転車にまたがって乗って帰ろうとした。
舞の声が自転車上の咲を呼び止める。
「うん?」
「気をつけて帰ってね」
「分かってるよ、大丈夫。ちゃんと安全運転するから」

任せておいて、そう言って咲は手を振るとハンドルをしっかり握って
自転車を走らせて行った。
咲が最初の曲がり角を曲がるまで見届けてから、舞も家に入る。


――そろそろ、ね……。

頃合を見計らい、受話器を手に取る。
もう電話帳を見るまでもなく日向家の番号は覚えていた。

「もしもし、日向ですが」
聞きなれた声が受話器から聞こえてきた。
「あ、咲?」
「あれ、舞? どうしたの、何かあったの?」
「ううん、咲がちゃんと家に着いたかどうか確認したかっただけ」
「もう、大丈夫だってば。ちゃんと着いたから」
「うん、それならいいんだけど」
受話器の向こうで大丈夫だよと言っている咲の言葉を聞き、じゃあまた明日ね、と
舞は受話器を置いた。

無事に咲は何事もなく――いつものように――日向家に着いたらしい。

「それでね、お兄ちゃん、咲ったらね、子どもの頃……」
今夜は兄と二人きりの夕食である。こんなとき舞が話すのは咲のことが多くなる。
今日の話は自転車のことになるのは当然だった。

「あはは、咲ちゃんは子どもの頃から元気良かったんだなあ」
「もう、そういう問題じゃないでしょ? 危ないじゃない」
「危ないけどね。でも咲ちゃんは春だから」
「春?」
「そう。Spring。生き物がばねみたいに飛び出してくるからSpringって言うんだろう?
 咲ちゃんにぴったり」
「確かに咲は春っぽいけど……」
舞は能天気に笑っている兄に少し腹が立った。
――お兄ちゃんは咲のこと面白がってばかりなんだから。
そう思うと、
――やっぱり私が咲のことちゃんと見てなくちゃ。
そんな気持ちが湧いてくる。


「あ、今日英語のプリント提出日だっけ」
「咲ちゃんとやって来た?」
翌日、舞と咲はいつものように前後の席でプリントを見せ合っていた。
「じゃーん! 私だってやるときはやるんだから」
「……咲。春は"Spling"じゃなくて、rよ」
舞は咲のプリントの間違いについつい気づいてしまう。
「あ、本当だ! 直さなくちゃ。ねえ、他には間違いないかな?」
「えーっと」
舞は一通りプリントを見てから、
「うん、ないみたい」
「ありがと、舞」
直そっと、そう言いながら咲は前を向いて机に向った。

ふと、気づいたように言う。
「でも、何で春の事をスプリングって言うんだろうね? ばねみたい」
「春は咲みたいだからよ」
「え、何のこと?」
不思議そうに咲が首を廻らせて舞を見る。

「ううん、なんでもない」
舞はそう答えて一人笑った。


-完-

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