――う〜ん、と。
数学の宿題をしている舞の手が止まった。「応用問題」の項に入っている
2題目が良く分からない。

初めは1題目と同じやり方でいいのかと思ったが、計算してみると
どうやっても上手くいかない。ノートの上で鉛筆をくるくる回してしばし
考え込んでみる。

やがて舞は鉛筆を置いて机の横の窓からぼんやりと空を眺めながら
考え事を始めた。頭の中では先ほどの問題文が浮かんでは消えて行く。

――あの公式を使ってみたら……? だめ、うまく行かないわ。

いくつか方法を考えてみるがどれもうまく行きそうにない。相当難しい問題らしい
ということがだんだん分かってきた。

――うーん……。

美翔家には今、舞のほかには誰もいない。
両親は仕事で遅くなると言っていたし、和也も学校の友達と夕食を食べてから
帰ってくるつもりだと言っていた。舞は先ほどまでPANPAKAパンにいて、
帰ってきてから宿題に取り掛かったのだがどうもはかどらない。

――満さんと薫さんに電話して聞いてみようかな……

舞は立ち上がると電話をかけようと自分の部屋を出た。と、兄の部屋のドアが目に入った。
いつもどおりに閉じている。
そういえば、と舞は思い出した。前、和也に数学の問題を聞きにいったとき、

「この参考書便利なんだよ」
と見せてくれた本がある。
「高校の参考書?」
「うん、でも中学の時の公式とかも一通り乗ってるから
 忘れたことがあってもすぐに探せるんだ。……あった。この考え方を
 応用して解けばいいんじゃないかな……」

あの本があれば、何か分かるかもしれない。

「お兄ちゃん、ちょっと入るね」
留守だとわかってはいるが一応声をかけて部屋に入る。
和也の部屋には良く入るが、入る前に一度声をかけることが
不文律になっていた。和也が舞の部屋に入る場合も同じことだ。

――え〜と……。

本棚を見る。ぎっしりと分厚い本が詰まっていて――並び順はあまり規則性がない――、
舞はきょろきょろと見覚えのある背表紙を探した。「近代日本文化史」の横に
「高校数学基礎」というハードカバーの本が置いてある。確かお兄ちゃんが
見せてくれたのはこの本だった、と舞は背表紙に手をかけて引き抜こうとした。
軽く力を入れてみるも本が棚から抜けてこない。
舞はゆっくりと腕に力を込めた。さらに力を入れて引き抜こうとし……。


「ま、舞!?」
「どうしたの!?」
通学路で会った咲と満が口々に尋ねてくる。
薫は舞の顔を見て心配そうに眉を顰めた。

「う、うん……なんでもないんだけど」
消え入りそうな声で答えるとそれがますます咲たちの心配を誘ったようで
三人はもう舞の顔を覗き込むようにして見つめてくる。舞は思わず後ろに
二、三歩下がってしまった。

「なんでもないならいいんだけど、でも普段の舞がしそうな怪我には
 見えないんだけど……」
咲の視線の先には舞のおでこがある。目立たないように、だがしっかりと絆創膏が
貼ってある。

「本当に、大した怪我じゃないの」
「そう? だったらいいんだけど」
咲、満、薫はまだ納得していないようだったが、
「早く学校に行かないと間に合わなくなっちゃう」
という舞の言葉で歩き始める。
三人から少し遅れた舞は、聞かれないようにそっとため息をついた。
……聞かれないようにした、つもりだった。

教室に入ると初めは皆普通にしているが、絆創膏に気づくと一瞬えっという表情で舞を見る。
予想していたこととはいえ恥ずかしそうに舞は俯くと、
「美翔さんマジ大丈夫、それ?」と聞いてくる仁美に「うん、大したことないから」
と答えて自分の席についた。

ぼんやりと左側の窓の向こうに視線を向ける。と、視界はすぐに遮られた。
上に視線を上げると満と薫が立っている。
前の席の咲も椅子ごと舞のほうに向いていた。何となく囲まれた気分になる。

「もう学校に遅れる心配はないわ」
薫が言った言葉の意味を舞が汲み取れないで居ると、
「だから、ゆっくり話しても大丈夫でしょ?」
満が補足するように言った。

うんうん、と咲も頷いている。

「ほ、本当に大した怪我じゃないんだけど……」
「怪我は大したことないかもしれないわね。でも、」
口ごもる舞に薫の言葉が被さる。

「舞の様子はいつもと違うように見えるけど」
薫の口調は冷静だ。納得するまで絶対に逃がさないような雰囲気が
にじみ出ている。

「舞、朝から何か落ち込んでるじゃない。怪我と関係あるのかどうかは
 分からないけど」
「本当に何でもないならいいけど、あんまりそうは見えないよ」
満と咲も舞を説得するような口調になる。
「う、うん……」
どう説明したらいいのか、頭の中を
「舞が言いたくないなら無理にとは言わないけど……」
困り顔になった舞を見て咲が助け舟を出した形になった。


舞がそのことについて話したのは昼休みになってからである。
他のクラスメートのいない屋上で四人きりになってからやっと話し始めた。
咲たち三人は舞の言葉を一言も聞き漏らすまいとするように真剣に
聞いている。

「その、この怪我は昨日お兄ちゃんの部屋で本が降ってきて
 顔にかすったときちょっと切れたからなんだけど……」
三人がいかにも心配そうな顔をしているのを見て、舞は本当に大したことないの、
多分二、三日で治るから、と言い更に言葉を続ける。

「その時お兄ちゃんと喧嘩しちゃって……」
「ええっ!?」
三人がいっせいに驚きの声を上げた。
「和也さんと、舞が!?」
咲が信じられないという顔をする。

「う、うん……」
「でもどうして? 舞が喧嘩するなんて」
珍しいわね、という満の言葉に
「お兄ちゃんの本棚、本を一冊取ったらすぐに崩れてくるような仕組みになってたの」

―― ……仕組み?

まるで、わざと本が崩れるようにしていたかのような言い方だと薫は
思ったが、今は舞の言葉に耳を傾けようと黙っていた。

「そういえば、本棚には触らないように言われていたの。言われてたんだけど、
 あまり気にしてなくてついつい本を借りようとしちゃって……。
 でも、本が勢いよく崩れてきてちょっと怒っていたところに
 タイミングよくお兄ちゃんが帰ってきたから、喧嘩しちゃったの」
「ははあ……」
咲が半分くらい納得したような声を漏らした。
経緯は理解できる。それで喧嘩になることもあるだろうと思う。

しかし、喧嘩の当事者が舞と和也であるところが中々信じられない。

「舞と和也さんも喧嘩することってあるんだね」
「お兄ちゃん、普段はすごく優しいけどたまに意地を張り始めると
 すごく頑固になるから……」

――舞もそういう傾向にあるような……。

三人ともそう思ったが今は言わないでおくことにして、

「それで、和也さんとは喧嘩したままなの?」
満が問うと、うん、と舞は目を伏せた。
「なんだかきっかけがなくて。今朝も話してないわ」
「ふうん……」

何かできないかなと首を捻っていた咲が、あっそうだと大きな声を出した。
「今日って水曜日だったよね?」
確認するように他の三人に聞き頷いたのを見ると、

「じゃあさ、満。今日和也さん買い物に来る日じゃないかな?」
「ああ、そうね。可能性は高いわ」
「買い物? 何それ?」
舞が不思議そうな顔をした。

「和也さん、水曜日は大体うちの店にパンを買いに来てくれるんだよ」
「学校が早く終わるから買いに来るんだって言ってたわ」
「そ、そうだったの……」
全然知らなかった和也の習慣を知って舞は不思議な気持ちになった。
自分の兄のことを、自分よりも友達の方が良く知っていると言うのは
なんだか意外だ。

「だから、今日和也さんが来たら少し舞のこと聞いてみようか?」
「う……うん」
咲たちまでこんなことに巻き込むのは……と舞は思ったが、
何かとっかかりができるかもしれないと思い直す。

お願い、と舞がいったとき丁度昼休みの中間を告げるチャイムが鳴った。
いけない今日はソフト部のミーティングがあるんだと言って咲は大慌てでお弁当の
残りを掻き込むと、

「じゃあ、また後でね!」
と大急ぎで屋上から部室に向っていく。


嵐のような咲に三人はちょっとぽかんとしていたが、
気を取り直したように顔を見合わせて笑った。

「でも、本当に意外だわ。舞とお兄さんが喧嘩することがあるなんて」
満が呟いた言葉に薫も「そうね」と言い、
「咲とみのりちゃんはたまに喧嘩――というか、咲が怒ってみのりちゃんが
 それに反論して大変なことになることがあるらしいけど」
「へえ……」
主に咲から話を聞いている舞と満にはそれも意外な話だった。
咲に聞くと大抵は「またみのりが我侭言って……」ということになっているのだが、
みのりにしてみれば言い分があるのかもしれない。


「うん、なんだか昨日は本当に……すごく、腹が立った時にお兄ちゃんが
 帰ってきたから……。
 すごく綺麗に本が並んでいるように見えたのに、一冊引き抜いたらばらばらばらと
 棚中の本が降ってくるような感じで」

"ただいまー。……舞っ!? 何やってるんだよ!"
"お兄ちゃん!? 何でこの本棚こんな風になってるの!?"
"だから触らないように言っただろ!?"
"そうだけど、参考書借りようとしただけなのに!"

舞は昨夜の会話を思い出し恥ずかしそうに俯いた。
薫はそんな舞を見て
「でも良かったわ」と言って満を驚かせる。

「薫? 何がいいの?」
「舞、朝よりは大分元気になったような気がするもの」
舞は薫の言葉に目を上げた。そう? と尋ねると薫は一つ頷く。

「みんなに話せたから、少し気が晴れたのかも」
そう言って微笑むと、満と薫は安心したように笑った。

空を見上げると、いつもと同じ水色の中に白い雲がぽっかりと浮かんでいた。
――咲がお兄ちゃんと話してくれたら……
兄に無断で本を出そうとした事をまず謝ろう、と思う。
本当は咲の手を煩わせずに兄と話をしたほうがいいのだが、
折角咲が「話をする」といってくれているのだからここは
頼むことにして、

――謝ってから、それから本棚の整理の仕方について話してみて。
  あのままだったらお兄ちゃんだっていつ本に埋もれるか分からないもの……

「ありがとう、満さん薫さん」
舞が空になった弁当箱を片付けて立ち上がると満と薫はなぜお礼を言われるのか
分からないと言うようにきょとんとしていたものの、お昼のパンが入っていた
袋を片付け始めた。


「咲。来たわよ、和也さん」
放課後、PANPAKAパンでお手伝いをしていた満が遠くから和也の姿が近づいてくるのに
気づいて咲に知らせる。
咲は初めてのお客さんに「当店お薦めのパン」について説明を始めようとしていたので、
「ここは私が代わるから」と満は咲の持っていた「PANPAKAパンお薦めパン一覧」を受け取り
仕事を引き継ぐ。

咲はすぐに店を出て近づいてくる和也に向った。

「和也さん」
「あ、やあ咲ちゃん。またパン買いたいんだけどいいかな?」
「もちろんです! でもその前に……」
「?」
咲は和也をPANPAKAパンの庭にあるテーブル席に連れて行った。幸い近くには誰もいない。

「どうしたの?」
「えーと、その。実は今日、舞に聞いたんですけど。和也さんと喧嘩したって」
いつもは和也と会話するとなるともじもじして中々言葉が出てこないのに、
今はするすると出てくる。咲にはそれに気づくゆとりはなかったが。

「ああ、舞そんなこと言ってたんだ……」
照れくさそうに和也は頭を掻いた。
「その、それで舞が仲直りするきっかけがないって言ってて」
「うん。いや、あれは僕が悪いんだよ。本棚に本を詰めすぎてたから。
 詰めすぎてるって分からないように詰めてたから、舞も引き抜いちゃったんだろうけど……
 安全に本を抜くにはコツが必要なんだ。
 昨日帰ってきたら舞がそんな危ない本棚に触ってたからついつい怒っちゃってね」
「……それは和也さんが悪いような……」
「うん、分かってるよ。咲ちゃん、今日は実はね……」
和也はぐいっと身を乗り出してテーブルの向こうにいる咲に囁きかける。

「舞が好きそうなパンを買いに来たんだ。それを手土産にして
 舞に謝ろうと思って。なにかお薦めの、ないかな?」
「あ、そうだったんですか!」
咲は勢いよく立ち上がった。
――うん、良かった。和也さんがこんな感じなら、きっとすぐに仲直りできるよ、舞!

心の中で舞に呼びかけ、
「今、新商品がちょうど出てるんですよ。舞もきっと気に入ると思うんです。
 試食もできるので、ちょっと試してみて下さい」
和也を押し込むようにPANPAKAパン店内に連れて行きお薦めのパンの解説を始める。


「ただいま――」
小一時間後に和也は美翔家に帰ってきた。舞の靴が玄関にあるのを見て
少し緊張しながら二階に上がり、舞の部屋の戸をノックする。

「舞?」
「――お兄ちゃん」
兄妹は視線が合うと互いに一瞬視線を逸らした後、
「ごめん」「ごめんなさい」と同時に言う。

互いの言葉が聞こえたあと、また視線が合った。
今度は緊張がほぐれて、どこか穏やかな空気が二人の間に流れる。

「ごめん、舞。昨日は言いすぎたよ」
「私も……、つい、カッとしちゃったから……」
「咲ちゃんのところでパン買ってきたんだ」
和也がPANPAKAパンの袋を掲げて見せた。

「新商品なんだって。二つ買ってきたから、舞食べていいよ」
「ありがとう……」
舞は受け取りリビングに行こうとして、「お兄ちゃん、一緒に食べるんじゃないの?」
と動かない和也に怪訝そうな表情を向ける。

「いや、本棚を整理してからいくよ」
「私も手伝う?」
「一人で大丈夫。食べてていいよ。後からいくから」
舞を先に行かせて、和也は自分の部屋に入った。
本棚は前と同じように本が詰め込んであり、一冊引き抜けばすぐに
崩れてくる状態だ。

――読まなくなった本は古本にするなりしないとなあ。

そう思いながら、本が崩れてこないように気をつけて「太陽」という本を手に取る。
ぱらぱらと本をめくると、栞のようになった一枚の写真が出てきた。

――こんな風に本の中に咲ちゃんの写真入れてるって舞に知られたら
  変に思われるかもしれないからな。今回は見つからなかったみたいだけど。
  もっと別の分かりやすい保管場所を考えないとなあ……。

「太陽」という本の中は咲の写真を入れておくのに一番いい場所だと
思えていたが、本棚の整理をするに当たっては別の場所に避難させておいた方がいいだろう。

机の引き出しを開けてすぐに目に付く隕石の標本の横に咲の写真を置くと、
和也は古本屋に出す本を選び始めた。

-完-

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