「……ひどい顔ね」
満は思わず呟いた。言われた咲のほうはえへへと恥ずかしそうに笑う。
満と咲、二人の登校風景である。舞と薫は美術部の集まりで早くに登校していた。
満は通学鞄のほかに体操着を入れる袋を二つ、手に持っていた。
先に出た薫が忘れていたのに気がついたので一緒に持ってきたのである。

今はちょうど普通の生徒が登校する時間帯なので二人の周りには他の
夕凪中の生徒も何人かぱらぱらと歩いていた。

咲の顔はいつもと違い、目が腫れぼったい。瞼が腫れ上がった姿は眠そうにも見える。
「昨日寝る前にこれ読んだら大泣きしちゃって……」
「これ?」
満は咲から渡された文庫本を手に取った。赤いブックカバーを外して表紙を見てみると、
最近ソフト部員の間で流行っているという恋愛小説の表紙が見えた。裏表紙に書いてある
あらすじによれば、身分制度が厳格な社会で恋に落ちた主人公二人は身分が不釣合いである
ために周りから徹底して反対されるが、それでも大恋愛を貫こうとする物語……らしい。
「これね、ソフト部内でぐるぐる回ってて。やっと私のところに来たんだ! でも次、優子の
 番だから早く読まないとって思って昨日一気に読んだら」
「……そうなったのね」
満はもう一度咲の瞼のあたりをしげしげと見た。
「そういうことなんだけど……、時間が経たないと治らないみたい」
「ふうん」
そう答ながら満はぱらぱらと本のページをめくってみる。
「満、興味あるの? だったら満にも後で貸すように頼んでおこうか? 多分10人待ち
 くらいだけど」
「んー」
満は元の通りにカバーを掛けなおすとはい、と咲に本を返した。
「いいわ。時間掛かりそうだし……小説ってよく分からないことが多いし」
「え? ……そうなの?」
咲は本を受け取ると丁寧にかばんの中にしまい満の顔を見る。
「でもこの前何かの本楽しそうに読んでなかった?」
「あの推理小説は面白かったわ。パズルみたいで。でも恋愛物は……」
「あ、そういうこと」
「ええ」
咲は一旦前を見たが、すぐに横を向いて腫れぼったい目で満を見た。
満の顔はちょうど朝日を浴びて明るく輝いているように見える。
――そういえば満、こんなに可愛いのに特に恋の話とか聞かないよね……。

満に憧れている男子生徒がいてもおかしくはない。だが、あまりそういった
話は聞いたことがない。
「……どうかした、咲?」
不自然に自分を見ている咲に満は不思議そうな目を向ける。
「あ、あのさ、満。その、」
咲は妙にどもった。満はますます不思議そうな顔をする。
「えっと、……恋、とかしてないの?」
「恋?」
「う、うんその……好きな人がいるとか」
「好きな人?」
満が咲の言葉を鸚鵡返しに繰り返すので咲は自分の言葉がだんだん恥ずかしくなってきた。
少し顔が赤くなってきたような気がする。
「そうね……そういうの良く分からないわ。咲にはいるの? 好きな人」
「えっ!?」
咲は満の質問に飛び上がりそうなほど驚いた。顔が赤くなったのが自分でも
はっきりと分かる。
「い、いいいいないよ、うん! 好きな人なんて!」
「そうなの?」
「うん、いないいない!」
もちろん咲は舞の兄に憧れているのだが、それは誰にも秘密だ。
「そう? それにしては恋愛物好きじゃない。この前もドラマ一生懸命見たって」
「そ、それはそのそういうのに憧れるって言うか、何ていうか……」
「ふうん。憧れるっていうほどいいものなの?」
「う、うんうん!」
「ねえ咲」
満は真面目な顔になった。
「恋人とか、好きな人のことって、どういう風に思うの?」
「ど、どうって」
真っ赤になったまま咲は口ごもった。
「咲にも分からない?」
「わ、分からないわけじゃないけど」
そう答えると満は好奇心で目をきらきらさせた。
「だったら、教えてもらえないかしら? 後学の為に」
「こ、後学ってその……」
「あら、咲はいつも私にいろんなこと教えてくれるじゃない」
「それはそうだけど……ええと」
咲はごくりと唾を飲み込むと少し背筋を伸ばした。
「えっとね、その、誰かに恋をすると」
「うん」
満が咲のことを覗き込むかのように顔を近づけてくる。
「その……その人が自分をどう思ってるのか気になったり、その人を見てると
 どきどきしたり、」
「うん」
「そ、それからその人とずっと一緒にいれたらいいな〜なんて思ったりして……」
「へえ」
「と、とにかく! 好きな人に対してはそういう風に思うようになるんだよ!」
「そう、じゃあ誰かに対してそんな風に思ったらそれが恋ってことなのね」
「うん、そう!」
やれやれやっと説明できた、と思うと咲の顔の色も次第に落ち着いてきた。
「そうだ、満。もし満が誰か好きになったらそれって初恋ってことだよ」
「はつこい?」
「うん。初めての恋って書くの」
「ああ。……咲はもうしたの? 初恋」
「うん」
咲は照れたように笑った。もう顔色はいつもと同じだ。
「幼稚園の頃だけどね、体操の上手な先生が格好よかったんだ」
「へえ……」
満は以前アルバムで見せてもらった幼稚園の咲を思い出した。
そういえば体操用の服を着て運動している咲の写真もあったかもしれない。
「満の初恋も楽しみだね」
「そう?」
「うん! 好きな人ができたら絶対教えてよ、ほら恋の悩みも色々あるだろうし」
「そうね……そうさせてもらうわ」
くすりと満は笑った。咲もつられてにこにこと笑う。
――満が恋の悩みに落ちたりしたらきっとすごく可愛いんだろうなあ……。
まだ少し時間がかかりそうだけど、と咲は思った。

だが、しかし。
こうしたことは前触れもなく突然起きることなのである。

「おはよー!」
元気な声で教室に飛び込む咲に続いて満も教室に入ると、まず薫の机の上に
体操着の袋を置き、それから自分の席について教科書やノートを机の中にしまい始めた。

「あ、霧生さんおはよう」
すぐに満の席に近寄ってきたのは宮迫学だ。
おはようと挨拶を返す満に、宮迫はA4サイズのクリアファイルをちらりと見せた。
中にはプリントが入っている。
「一昨日配ったアンケート、書いて持ってきた? 篠原先生から
 集めるように言われてるんだ」
「あ、あれ」
紙自体は持っているが記入はしていないことを満は思い出した。
県の一斉調査ということで、中学生の生活についてのアンケート用紙が配られていたのだ。
「書いて出すから、ちょっと待って」
「ああ、じゃあ薫さんのほうにも提出するように伝えておいて貰える?」
「ええ」
――多分薫はもう記入していると思うけど……。
そう思いながら満はアンケートに記入を始めた。睡眠時間や学習時間や、
結構答える項目が多い。面倒くさく思いながら、多少いい加減に満は答えていった。

全部の質問に回答を終えると、一時間目が始まる時間のちょうど5分前だった。
朝練を終えたバスケ部やサッカー部の部員達が続々と教室に戻ってくる。
次々に帰ってくるクラスメートの一人一人に声をかけるのは
諦めたらしく、宮迫は黒板に大きく
「アンケート用紙はクラス委員に提出してください」
と書いていた。教室の中も一気に賑やかに、熱っぽくなる。
「……」
ざわざわした教室の喧騒から少し離れたところに満は舞と薫の足音を聞き取った。
廊下をゆっくりと歩いてくる。
「あ、おはよう満さん」
「おはよう」
舞、薫の順に教室へ入ってくると、扉近くにいる満に一言挨拶をして舞は
自分の席へと向っていく。
薫も自分の席――満のすぐ後ろだ――につこうとして「あ」と机の上の
体操着を見て声を上げた。
「満が?」
「ええ、そうよ。薫忘れてたでしょ。今日はこの前雨で中止になった分の体育があるのに」
満は椅子に横向きに座りながら後ろの薫を得意げに見上げる。薫は体操着を机の横にかけると
静かに着席した。
「今日体育があるって今まで忘れてたわ。……満は忘れてなかったの?」
「あら、当たり前じゃない」
「意外ね」
「どういう意味よ!?」
「どうでもいいって忘れそうだから。そういうことは」
「……薫じゃないんだから」
わずかに肩をすくめると満は椅子にきちんと座りなおした。宮迫が黒板に大きく書いた、
アンケート用紙提出の文字が見える。
「薫、アンケートは書いてきたの?」
きっとこれも忘れているだろうと思って聞いてみたが、
「書いてきたわ」
と薫は一言で答えた。
「……何でよ」
「何でって言われても。満こそ書いてきたの」
「当たり前じゃない」
なんだか悔しいのでそう言って先ほど書いたアンケート用紙を見せると薫は意外そうに目を見張った。
「……何よ?」
満がそう尋ねると薫は、
「絶対忘れていると思ってたわ」
と涼しい顔で答える。
「あのねえ薫」
満は椅子ごと後ろを向いて薫を真正面から見据えた。
――確かに忘れてはいたけど……、
薫の言っていることは正確なのだが、満はそれが無性に腹立たしかった。
普段、忘れ物をするのは満の方が多い。薫はそれを注意したりフォローしたりすることが多い。
だから薫の反応は当然ではあるのだが……、
「私のことなんだと思っているのかしら」
二人の会話に被さるように鳴る。
「満は満よ。それ以外の何物でもないわ」
さらりと薫は受け流すとほら、と満に前を見るように促した。
篠原先生が教室に入ってきていた。

――まったくもう……
英語の教科書を机の上に出しながら満は内心不満でいっぱいだった。
――薫、私のこと何だと思っているのよ!
少しは見直してくれてもいいのに、と満は思う。
「じゃあ先週からの続き、64ページ開いて」
篠原先生の言葉に合わせて満は教科書を開く。……と、「With Love」という言葉が
目に入った。手紙文の一節だ。小さな女の子とお姉さんの文通という設定である。
そういえば今朝咲とそんな恋愛についての話をしたっけ、と満は思い出した。

”誰かに恋をすると、その……その人が自分をどう思ってるのか気になったり、
 その人を見てるとどきどきしたり、そ、それからその人とずっと一緒にいれたら
 いいな〜なんて思ったりして……”
咲の言葉が甦る。思い出して、はっと満は息を飲んだ。

――その人が、自分をどう思ってるか気になるって……まさか私、薫に恋をしているの!?
いや、でもまだ条件が足りない。後二つ、条件はある。
そして、満がそんな風に動揺しているうちにも授業は進んでいた。

「じゃあ次の文の訳。 "I want to play the piano with you." 霧生薫、訳して」
指名された薫は、はいと立ち上がると、
「私はあなたと一緒にピアノを弾きたい」
と答える。
「あ〜、まあそうなんだが」
篠原先生は薫の回答にわずかに苦笑を浮かべた。
「これはお姉さんから女の子への手紙の中の文章だから、もう少しそれっぽく訳せないかな?」
「……」
薫は少しの間黙った。満はその状況にはらはらしていた。今、教科書に書いてある文章は
ある意味で非常に危ない。薫が「you」を「みのりちゃん」とでも訳すのではないかと
満はどきどきしながら薫の答を待っていた。
「……私はあなたと一緒にピアノを弾きたいわ」
考えに考えて薫が作った答はこれだった。最初の答と比べて「わ」しか違っていないが、
無難な答に満はほっと安心する。
「そうだな、そんな感じだ。じゃあ次は……」
授業は続いていく。満はまたはっと気づいた。今、薫のことを考えてやけにどきどき
したではないか。

――じゃあ、私……!?
最後の条件は薫とずっと一緒にいたいと思うかどうかだ。自分の胸に聞いてみる。
――離れたくはないわね。
数分考えて、満はこう結論を出した。
これで決まった。自分は薫に恋をしているのだ。――咲が言っていたほど、
いいものかどうかは分からなかったけれど。

「咲!」
授業が終ると満はすぐに咲を連れて教室を飛び出し、屋上へと向った。
「どどど、どうしたの満!?」
咲は訳も分からず満に引っ張られてきたが屋上でようやく満に声をかける。
「あ、あのね咲。落ち着いて聞いて」
「うん」
「なんか、私薫に恋してるみたいなんだけど」
「えーっ!?」
咲は大声を上げて目を丸くした。
「そ、そうだったの!?」
「だって、薫が私のことどう思ってるか気になるし……」
と満は先ほどのことを説明する。咲は黙ってその話を聞いていた。
「薫を見ているとどきどきするし、薫と離れるのもいやだし! でも、これが恋なの!?」
「あ……うん、満」
落ち着いて、という風に咲は満の肩を抑えた。

「多分、それ何かちょっと違うと思うよ」
「え……そうなの? でも咲が言ってた条件は満たしてるんだけど……」
「うーんと、」
咲はにっこりと笑った。
「恋って、したらその時に分かっちゃうんだよ。条件とかそういうんじゃなくて」
「そう……なの?」
「うん」
やっぱり良く分からないわね、と満はぼやいた。
「そのうち分かるよ」
「そうかしら」
「うん、満なら絶対!」
ぽんぽんと満の肩を叩くと咲は、「教室戻ろっ!」と満の背中を押していった。

-完-

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