「ちょっと赤くなっちゃったかな……」
美翔舞は脱衣所の鏡で自分の顔を見てそうつぶやくと、化粧水を手に取り
肌にぴたぴたと押し当てた。

次の先生の順番があるのであまりのんびりしているわけにもいかない。
手早く着替えを済ませると、美翔舞は合宿所の風呂場を出た。

舞は勤めている高校の美術部の引率として夏休みの合宿に来ているのである。
芸術方面にも力を入れている学校だけあって合宿期間は長い。
合宿所のロビーに出てみると、生徒たちがわいわいと話をしていた。
合宿の目的は、普段の生活では見られないものをスケッチすること。
昼間は大抵山に散策に行ってスケッチをしてくる。町では見ることのできない
高山植物をテーマにスケッチしている生徒も多い。

次に入浴する順番の先生に浴場が空いたことを告げて一旦自分が荷物を置いている
部屋に戻ると、舞はスケッチブックを持ってきた。
彼女自身のスケッチブックは、この合宿にきてからも実はそれほど枚数が増えていない。

昼間生徒たちがスケッチをしているときは様子を見て回ったり、
危ないことをしている子がいたら注意したり――合宿ということでテンションが高くなっているので、
コースから外れたところに行こうとする生徒も珍しくなくいるのだ――
仕事が結構忙しい。

舞は絵を描き始めて集中し始めると周りのことが見えなくなってしまうので、
昼間は敢えてほとんどスケッチをしないことにしていた。
するにしても、簡単なものにとどめている。

だから、こうしたロビーでの時間の方が舞にとっては落ち着いて絵を描ける。
実際、舞のスケッチブックの絵は大半が合宿所周辺の様子だった。

「見て見て」
トランプに興じていた女子生徒たちがロビーの隅に座って絵を描き始めた舞に気が付く。
「美翔先生が何か描いてる」
とひそひそと口にする。
生徒たちはもちろん、舞の絵を見たことはあった。口にこそしないが
舞の絵のファンも美術部員の中には何人かいる。
だが、こうした場で高校生がそうした素直な評価を口にすることはあまりない。
「何描いてるんだろうね?」
生徒の誰かが興味津々といった表情でそう言うと、生徒たちはくすくすと笑いあった。
身体の向きから見ればロビーの様子をスケッチしているはずなのだが、

「美翔先生、目の前のものに全然関係ないもの描いてることよくあるもんねえ」
「私、この前美術室で先生がわざわざ石膏像出して絵を描いてたから
 それを描いてると思って後ろから覗いたら誰かがソフトボールしてる絵だった」
「だったら石膏像出さなくっていいよねえ」
「最初は石膏像描こうと思ってたんだろうね」
「先生、大学の時に課題と全然関係ない絵描いて単位もらったって本当?」
「さすがにそれはないでしょ……」
初めは声を潜めていた会話のボリュームがだんだん大きくなってくるが、
舞は一向に気づきもしない。
美翔先生が集中し始めたんだと気づいた生徒たちは示し合わせたようにそっと
彼女の背後に回って絵を覗く。生徒たちは顔を見合わせた。
スケッチブックの中にはパンを焼く誰かの姿があった。

 * * *

「ただいま。……満?」
咲と別れて家に帰ってきた薫は、家の静かさにおやと首をかしげた。
テレビの音もしないし、満の気配自体がごく小さい気がする。
「満?」
警戒しながら薫はリビングへと足を進める。
リビングのじゅうたんの上では満がごろごろと寝転がっていた。

「……ただいま」
そんな様子を見て呆れながら薫が言うと、
「あら、薫。お帰り」
とたった今気が付いたかのような表情で寝転がったまま薫を見上げる。

「パスタがフライパンに入ってるから。あと、サラダとパンね」
と、今日食事当番の満はその姿勢のまま指示を出してごろりと横に転がった。
「……満はもう食べたの?」
薫は鞄を椅子の上に置き、テーブルの自分の席を少し片付ける。

「ええ。薫遅かったのね」
「一人お迎えが遅れた子がいたのよ」
「ふうん」
薫は台所で満の準備してくれたパスタをお皿に取り、サラダとパンの皿も持って
再び食卓に戻ってくると席について「いただきます」と夕食を食べ始めた。
満は何も答えない。落ち着きなく寝返りを打っている音だけがする。

「満?」
「なーに?」
「体調悪いならちゃんと寝なさい」
そうではないだろうなと思いながら薫は言う。
「違うわよ」
案の定、そんな答えが返ってきた。
「だったら、あまりだらしないことしてないで」
「考えてるのよ」
「何を」
「来週、保育園にどんなパン渡そうかなって」
「ああ。……」
薫の勤める保育園の給食の主食は多くの場合ご飯だが、週に一度程度、
パンを出すことになっている。
そのパンはPANPAKAパンと契約して購入しているのだ。

「でも、どうして考えるの? いつものパンにすればいいじゃない」
「それだと面白みがないでしょう? 子供たちも飽きるんじゃないかしらって思って」
「別に飽きてなんかいないわ。パン自体が週に一度だし」
「分かってないわね、薫」
満はおおげさにため息をついてみせた。薫は些かむっとする。

「こう、いつもとちょっと違うパンだとパンの日が待ち遠しくなってくるかもしれないでしょう?」
「それはそうかもしれないけど……でも、価格は上げないでよ」
「分かってるわよ、そのくらい」
当然、というように満は答える。

「あと、カロリーや栄養価の計算もちゃんとしてるんだからいつものパンと材料変えないでよ」
「分かってるわよ。もう」
うるさい――と言いたそうに満は返事をすると、また床にうつぶせになってうんうん唸って考え始めた。

 * * *

月が真南に近くなる。舞は合宿所で見回りをしていた。
合宿期間中、消灯の時間は決められている。決められているが高校生が素直に
そんなものを守るわけもなく、部屋で起きている分には教師陣も容認しているのだが
合宿所の外に出て行かれてはこまるので、建物の周りをぐるりと見まわっていた。

と、懐中電灯の明かりに人影が映る。
それは月を見上げる一人の生徒の姿だった。先ほどロビーで舞の絵を後ろから
覗き込んだ四人の中の一人だ。

「――松田さん?」
「美翔先生」
彼女は舞よりもだいぶ背が高く、顔つきも大人びている。制服さえ着ていなければ、
女子大生といっても通じるだろう。
高校はとっくに卒業しているはずなんですが、何かの間違いでここにいるんです――そう言われれば
納得してしまいそうになるほど、彼女は年齢の割に落ち着いた雰囲気を身に纏っていた。

「もう、寝ないと。消灯時間は過ぎているわよ」
「そうですね」
と彼女は答えたが、宿舎に戻ろうという様子はなかった。

「松田さん?」
舞の声が若干きつくなる。普段さほど反抗的な生徒でもないので、
彼女がすぐに戻ろうとしなかったことが意外だった。

「先生」
彼女は真面目な口調で答えた。
「私、部活やめようかと思ってるんです」
「えっ」
唐突な発言に舞が目を丸くすると、
「最近、絵を描いてても楽しくないので。あんまり」
と彼女は続けた。
「ああ……」
と舞は納得していた。彼女の絵の技術は確かなのだが、最近の絵からは
確かにあまり楽しそうな感じは伝わってこない。

「そうね。そういう気持ちなら」
「割とあっさりしてるんですね」
意外そうに彼女は言う。
「最近の松田さんの絵を見ているとあまり楽しそうでないもの、部活を変えてみるのもいいと思うわ」
う、と彼女は喉がつまったような声を出した。自分ではそう思っていたものの、
絵に現れているとは考えていなかったらしかった。

「次の部活は考えてるの?」
「考え中なんですけど。運動系にしようかなって」
「そう、打ち込める部活があるといいわね」
どうなるかわかりませんけど、と答えて彼女はまた空を見上げた。

「私の友達はね、おうちがパン屋さんなんだけど。
 そこのパンがすごくおいしいから、別の友達がパン作りを習うようになって
 とうとう今は本当にパン屋さんになったのよね」
「はあ……?」
話が見えない。というように彼女は舞の言葉に相槌をうつ。
「どこで何に出会うか分からないし。松田さんも次の部活が好きになれるといいわね」
気分がまた変わったら美術部に戻ってきてもいいんだし。と舞は独り言のように呟く。
「あ、」
と松田は今気づいたように声をあげた。
「もしかしてさっき描いてたパンを焼いている人の絵って、今言ってた人の」
「え? どうして知っているの?」
後ろから覗きこまれているとは知らない舞がきょとんとした表情を見せる。

「いえ、別に」
しまったと思った彼女は知らん顔をすると
「寝ます」
と一言言って立ち去ろうとする。
「やめるって言っても合宿の間はちゃんと活動してね」
追いかけてくる舞の言葉に、
「分かってます」
と彼女は答えて宿舎の中へと戻って行った。


舞はしばし月を見上げてから、また見回りを続けた。

 * * *

「ねえ、保育園の子が好きな動物は?」
「いろいろよ。子供によって」
「それはそうだろうけど、割と多くの子が好きな動物を聞きたいのよ」
満は、食事とその片づけを終えた薫に相変わらず寝転がった姿勢のままで尋ねる。
「そうね、やっぱり象とかキリンとか……動物を飼っている子は犬とか猫とかね」
んー、とつぶやいて満はようやくじゅうたんの上に起き上がって座る。

「じゃあ象の形に焼いてみようかしら」
満はテーブルの上に置いてあったチラシを手に取ると、その裏に鉛筆で
簡単に象の形を描き始めた。薫がやってきてそれを覗き込む。
「頭を大きめにすると可愛くなると思うわ」
「そう?」
満は素直に描き直す。こうして霧生家の夜は更けていくのだった。

-完-

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