何度も、何度も線を引く。美術室の後ろ側の小さな机に置いてある静物――瓶や箱――を
見ながら、薫は幾度も線を消しては引いていた。

今の美術部の課題はこれらのもののデッサンで、他の部員たちはほとんど帰ってしまったけれど
薫は先生に頼んでさらに残って取り組んでいた。
舞は美術室の少し離れたところで、窓から見える樹を描いていた。薫を待つついでなのだが、
こちらはこちらで絵に夢中になってしまっている。

竹内彩乃はそんな二人の様子を美術室の外から見て、
――しょうがないなあ、もう。
と苦笑いした。舞の集中力のことは以前から知っているが、最近入部した薫も
絵を描くことに関してはかなりひたむきだ。技術的にはまだまだだとしても。

舞は声をかけても気が付かないだろうからと、彩乃は薫の方に声をかけることにした。
「霧生さん」
一言言っただけで薫が自分の方に目を向けてくれたので彩乃は安心すると――
相手が舞の場合には気づいてもらえるまで何回も呼ばなければいけない――、
「そろそろ美術室閉めるようにって、先生が」
「あ、ああ……もうそんな時間」
薫は美術室にかけてある時計を見やった。部員たちの大半が帰ってから
もう一時間は過ぎている。
「机の上のものはそのままで、準備室に机入れておけばいいからって」
手伝うよ、と彩乃は机の片方の端を持った。薫も机の反対側を持つと、二人で準備室の
中まで机を運び入れる。
「これでよしと」
彩乃は準備室の扉をしっかりと閉めると「絵の方はできた?」と薫に尋ねる。
「その、」
と言いにくそうな顔をする薫を見て彩乃は事態を察すると、
「大丈夫だって、時間はまだあるし」
と答える。

「……霧生さんって、色つけるの好きだよね」
「え?」
片づけが終わって今度は舞の方に声をかけようとそちらに足を進めながら彩乃が呟く。
薫は自分に向けられた言葉が意外に思って聞き返すと、彩乃は彩乃で薫が意外に思ったことに
驚いたようで、
「違ってた? 色を付ける方が好きそうだと思ったんだけど」
「どうして」
違うも何も、そんな風に自覚したことがなかったので、当惑しながら薫はその理由を尋ねる。
「んー、」
薫の真剣さにややたじろぎながらも彩乃は
「この前の絵を描いている時にも思ったんだけど、最初の下書きの時より色を
 塗っている時の方が楽しそうだったから。ほら、霧生さんの――満さんの絵を描いている時」
「そう……だった?」
「私にはそう見えたけど」
ほら美翔さん、もう時間だから――と彩乃は舞に声をかけて肩を少し強く叩くと、
少ししてから舞は気づいてあわててスケッチブックをとじて鉛筆をしまった。
鍵をかけておくから早く帰るようにって先生が言ってたよ、という彩乃の言葉に二人は
急いで教室に戻ると鞄を持って帰路についた。

「薫さん、描けたの?」
学校から家の方へと向かう坂を下りながら舞が尋ねる。舞は自分の絵を描く方に
集中していたので薫が絵を描き始めたところまでしか見ていないのである。
「そうね。……、まだよくわからないけれど」
薫は眩しい夕日に若干目を細めながら答えた。
「分からないって?」
「物は見えているはずなのに、どういう風に描いたらそれを絵に表現できるのか
 よく分からないのよ」
「ああ……」
舞には薫の言いたいことが何となくわかった。
「沢山描いてみるといいと思うわ。そのうち、薫さんの描きたかった形に
 なってくると思うから」
「そういうもの?」
「ええ。きっと」
舞の言葉に、もっと沢山絵を描いてみようと薫は思いながら、さきほど疑問に
思ったことをそのまま舞に尋ねてみた。
「さっき、竹内さんに『色を塗っている方が楽しそう』って言われたのだけれど……そう思う?」
「え? 薫さんが、っていうこと?」
「ええ」
「そうね……」
舞は口を噤むと、少しの間考えた。
「うん、この前はちょっとそう見えたかも」
「そう?」
舞にもそう見えたのだとすると、本当に自分は色を塗る方が好きなのかもしれないと
薫は思った。自分ではそのつもりはなかったのだけれど。

「薫さん、色を塗っている時にはあんまり迷ってなくてのびのび塗っている感じが
 したから、それで楽しそうに見えたんだと思うわ」
「そう……かしら」
薫は以前に絵を描いたときの自分のことを思い出してみようとしたが、
よく思い出せなかった。あの時にしろ今にしろ、必死で描いていただけで
あまりそれ以外の記憶がない。
空に目を向けると、夕日は低く橙色の光で町を照らしていた。夜の闇が空を覆い始め、光は紺色の中に溶けはじめていた。


「満?」
だいぶ遅くなってしまったので薫はPANPAKAパンに寄らずに満と一緒に暮らす家に帰ってみた。
玄関のドアを開けると、照明はまだ消えたままだ。「満」ともう一度声に出してみるが、
返事はない。まだ咲のところかしら、と薫は思った。
電気をつけるのが何となく面倒で――もともと暗いところでも満と薫はそれほど
不自由なく活動できる――薫は暗い家の中に入った。
まだ日没には少しだけ間があるので、部屋の中には薄明かりが入り込んでいる。
――満、今日の夕食の支度するの忘れてないかしら。
今日の夕食の当番は満である。PANPAKAパンで何か買ってくるのかもしれないと
薫は思いながら部屋の電気をつけようとした手を止めた。
日は今、落ちてしまおうとしていた。最後の残り火のように橙色の光が見える。
薫が見ている前で、窓の中の丸い太陽は最後の曲線を残して姿を消し橙と藍の混ざった
紫色が西の空に漂った。
「……」
コートも脱がないまま、ぺたんと薫は床の上に座った。空は次第に暗くなっていく。
それに呼応するようにして部屋の中も暗くなり、置いてある家具の姿かたちも
ぼんやりとしてきていた。

――そういえば……
薫はふと、枯れ果てた空の泉を思い出した。あの時と今は全然違っている。
あの時は周りに見るもの見るもの、すべてが灰色に死に絶えていた。
色らしい色と言えば満の髪や目の色と、隅の方で小さくなっていたムープとフープ
くらいで――二人は満と薫からは隠れているつもりだったらしいが、
薫の視界の端には二人がちょろちょろと飛び回っているのがよく見えていた――、
それらの色も灰色の薄闇の中でくすんでいた。

「あ〜ら、あなた達。空の泉の管理はちゃんとやっているのかしら?」
ミズ・シタターレは暇になると満と薫に難癖をつけにやってきていた。
もともと空の泉を枯れさせたのは彼女なので、満と薫がここの管理者に
選ばれたのが気に入らないというのがその理由だった。
最初のうちは満と薫も警戒したものだったが、何回目かになると座っている
木の幹の上から動こうともしなかった。

「……何か用?」
面倒そうに満が答える。
「時折はこうして見にこないとねえ。あんた達が泉の管理をちゃんとしている
 保証なんて何もないし。本来、わたくしのような美しいものが泉の管理を任されるべきなのに」
「美しい?」
薫はミズ・シタターレの言葉が引っかかって彼女の姿を上から下まで改めて見直した。
「……美しいって、何?」
薫がそう尋ねると、
「あんたねえ!」
とシタターレは激怒して全身に滅びの力を籠める。
「……いいのかしらここでそんなことしてて」
流石に止めた方がいいと思った満がシタターレには目をむけずに呟く。
「水の泉の管理を放っておいて、アクダイカーン様の言いつけに背いていていいのかしら?」
「……!」
言い返そうとしたミズ・シタターレだったが、眉をひくつかせただけで
「覚えてなさい、満、薫!」
と悔しそうに言葉を残して水柱となったかと思うとかき消えた。
満はふん、と息をつく。追い返せただけで満は満足だった。

「ねえ、満?」
薫がそんな満に尋ねる。
「何?」
「美しいって何? どういうこと?」
「綺麗だってことよ」
簡単なことだ、という風に満が答えるのに薫は
「綺麗ってどういうこと?」
とさらに尋ねる。薫は別に満を困らせようと思っていたのではなく、
ただ言葉の意味が分からなかった。
「さあ――。私だってそれ以上は分からないわ。ミズ・シタターレの言っていたことだし、
 どうでもいいんじゃない?」
「……そうね。どうでもいいことだわ」
確かにどうでもいいことだ、と思って薫はもうそのことは考えないようにした。

美しいという言葉の意味を薫が本当に実感したのはいつだったか分からない。
緑の郷に来て初めに驚いたのは、この世界が光に満ちていることだった。
夜の闇に沈んでさえ波の音は響き、そこには動きがあることが感じられた。
いつの間にか薫は、「美しい」「綺麗」という言葉の意味が分かるようになっていた。
満の眼や髪の色のことも綺麗だと思うようになっていた。
空の泉にいた頃はそんなことを思いつきもしなかったのに。


「……なにしてるの、薫? 電気もつけないで」
満の声がして、ぱちんと部屋の明かりがついた。
「あ……満。今帰ったの」
「ええ。薫が来るかと思って咲の家で少し待っていたんだけど」
「ああ、今日はだいぶ遅くなったから先に帰っていた方がいいと思って」
「ふうん。……それで何してたの? 電気もつけないで」
「ちょっと考え事を」
「……薫、舞に似てきた?」
「えっ」
満の言葉に驚く薫を見て満はくすりと笑うと、
「集中していると電気つけていないのにも気づかないようになったのかしら」
「そういうんじゃないわ。それは気づいてた」
「ふうん。PANPAKAパンでパンを買ってきたから、それとシーフードサラダでいい?」
「ええ」
台所に立つ満の後ろ姿を見て薫は勢いをつけて立ち上がると、
たっと満の真後ろに立ち襟足に手を触れた。
「ちょ、何、薫!?」
満はびくりと身を震わせて包丁を持ったまま薫を振り返る。
「満の髪、いろんな色に見える」
「え?」
意味が分からないという表情で満は聞き返すが、
「次に描くときはもっと色合いを考えるわ」
「そ……そう」
薫は言うだけ言ってさっさと台所を出て行ってしまった。満は、わずかに首を傾げながら
包丁を持ちなおすとサラダの材料を切り始めた。

-完-

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