音を立てずに雨が降る。
天気予報で曇りのち雨と言っていたのを忠実に守るかのように、
夕凪町を雨が濡らし始めた。

「あらあら、降ってきちゃったわね」
商品の値札を直していた満の後ろから咲のお母さんの声が聞こえてくる。
満がガラス戸ごしに外を見ると、初めのうちは見えなかったが
やがて微かに雨が降っているのが見えてきた。

「テーブル片づけてきちゃうわね」
咲のお母さんはそう言ってレジのそばを離れる。私も、と満は
後を追いかけた。お客さんが来ていない今、PANPAKAパン店内にいるのは
咲のお母さんと満だけだ。
娘の咲が部活でいないのに娘の友人の満が店を手伝っているというのは
よくよく考えてみればおかしな光景だが、
最近のPANPAKAパンではよくみられる風景になっていた。


「じゃあ、満ちゃんそっち持ってくれる?」
パンを購入したらすぐ食べられるように屋外にテーブルセットが置いてあるが、
雨の時にはすぐに引っ込めることになっている。
テーブルの下で雨宿りしていたコロネが、二人がテーブルを持ち上げたのを見て
にゃあと声をあげてすたすたと歩きだすと家の玄関の方に向かっていく。
全部のテーブルセットを片づけて、満と咲のお母さんは店内に戻ると手を
洗って再び元の位置についた。

「ん〜、今日はいまいちねえ」
レジの後ろで咲のお母さんが伸びをする。
今日は確かに、お客さんが少ない。午前中はそれでもまだぽつぽつと
お客さんが来ていたが、午後になってもうほとんど誰も来ていない。
お父さんは配達に出ているし、店内は完全に咲のお母さんと満の二人だけだ。
「こういう時、お店やってると少し不自由よねえ」
え? という表情で満が咲のお母さんを見ると、
「時間が確実に余ってるならケーキぐらい作って満ちゃんに
 食べてもらうんだけど。お客さんが来たらケーキ作ってるわけにもいかないしね」
「そんな、私ケーキなんて」
「でも、せっかく来てもらってるのに。そういえば今日は薫ちゃんは?」
「薫は今日は絵を描くと言って」
「ああ、薫ちゃんは美術部に入ったんだったわね」
「何か、課題の絵をできれば今日中に完成させたいって言ってて……」
満は、出かける前に見た薫の顔を思い出した。薫が今までに書いた絵は
まだ二、三枚だろうか。
テーマがあってそれに応じた作品と言うのは中々難しいものらしく――どうせ
テーマがあるのなら、いっそ「○○がある静物画」のように描くものまで
指定されていた方が助かるというのが薫の意見らしい――絵の技術以前に
何を描けばいいのかが分からずに困っていたようだ。

――今朝の薫の顔、本人に見せたらなんて言うかしら。
満はそう思ってくすりと笑みを浮かべた。

「雨降ってきちゃったわね。大丈夫かしら」
「たぶん、雨宿りしてると思います」
「……傘持って探しに行った方がいいんじゃない?」
「前もこういうことがあって、舞と一緒に雨宿りしていたそうなんです」
雨宿りしていたら目の前をかたつむりが這って行ったからそれを
絵に描いた、とその時薫は嬉しそうだった。
それ以来、満は薫がスケッチに出かけて行ったあと雨が降ってきても
あまり心配しないことにしている。

「課題はどういうものなの?」
「『冬の残像』だそうです」
「……随分難しそうな課題なのね」
咲のお母さんはそう言って苦笑した。
「そうなんですか?」
「ええ」
満の言葉に、咲のお母さんはくすくすと笑う。
「それは薫ちゃんが困るのも無理はないわ。難しそうだもの」
「へえ……」
そういうものか、と満は思う。薫が困っているのは単に絵を描き始めたばかりで
そういうことに慣れていないからだと思っていたが、それだけでもないらしい。

「それで薫ちゃんはどうしたの?」
「舞と一緒に、描くものを探しにいきました」
「そうね、それが一番。探しに行って見つけたものを描くのが一番ね」
咲のお母さんはレジの後ろの椅子に座る。接客するときはもちろん立ってするが、
誰もお客さんがいない時には座ることも多い。
「満ちゃんも座ったら? お客さんまだ来ないみたいだし」
咲のお母さんがそう言って薦めてくれたので、レジの後ろに置いてある小さな椅子に
ちょこんと座る。最近この椅子は満専用になりつつあった。

「満ちゃんは一緒に行かないの?」
「ついていくと薫が嫌がるので……」
「えっ? どうして?」
「絵を描くときは舞と一緒がいいみたいで。私と一緒に行くと、気が散るからって」
「へえ、そうなの。……満ちゃん、薫ちゃんに話しかけたりしているの? 
 薫ちゃんが絵を描いている時」
たまにそうします、退屈だからという返事を聞いて咲のお母さんは大きく頷くと、
「きっとそれよ。一度静かに見ていたら、薫ちゃんだって
 嫌がらなくなるんじゃないかしら」
「う〜ん……でも……」
やっぱり退屈だからと言いたそうな満を見て咲のお母さんは
くすっと笑うと、

「満ちゃんも一緒に描いてみたらいいんじゃない?」
と続ける。
「絵をですか?」
「あんまり好きじゃないんだっけ」
「考えたことないです」
そういえば、絵を描くのは舞や薫のすることだと満は思っていた。
自分が絵を描くなんてことは――冗談や、ちょっとした落書きでならともかく――、
考えてみたこともなかった。

「お茶でも淹れましょうか」
いよいよお客さんが来ないと咲のお母さんは判断したのか、
立ち上がると一旦家の方へと戻った。
しばらく店で――店番も兼ねながら――待っていると、
家の方から満の嗅いだことのない匂いがしてくる。

「はい、お待たせ」
咲のお母さんが2つのマグカップに注いできたお茶から
暖かそうに湯気が立っている。
「フレーバーティーなの。この前お客様から頂いてね」
はい、どうぞ。とカップを渡され、満は思わずカップの中を覗き込んだ。
中には赤い液体が満たされている。
「紅茶……ですか?」
「そうなの。でも、ちょっと普通の味と違うのよ」
飲む前に満はもう一度匂いを嗅いでみた。
甘い匂いは何かに似ている。何だったかしら、と思いながら紅茶を一口含んでみた。

「……あ、」
満の口から思わず言葉が漏れる。何の匂いだったか思い出した。
「苺ですか?」
「正解。ストロベリーフレーバーの紅茶なんですって」
咲のお母さんは持っていた紅茶の箱を満に見せた。「Strawberry」と
はっきり書いてある。
「へえ……」
「一年中売ってるんだと思うけど、春先に飲むとこの季節のものを
 飲んでいる気になるわよね」
満はもう一口飲んでみた。ベースになっている紅茶は満もどこかで――多分舞の家で
飲んだことのあるオーソドックスなものだが、苺の香りと甘みが
やはり新鮮だ。

そういえば最近よく苺のパックを売っているのを見かけると満は思った。

「パンもねえ、こんな風に季節のものをいろいろ出せるといいんだけどね」
え? と満は顔をあげて咲のお母さんの顔を見上げる。
「ほら、たまにケーキのほうではやってるでしょう? 秋限定のモンブランを出したり」
ええ、と満は頷く。
「パンでも季節商品をいろいろ出したいんだけどね」
「あ、でもこの前かぼちゃの」
「そうそう、あれは結構好評だったのよ」
ハロウィンに合わせて、かぼちゃをふんだんに使ったパンを売りに出したことを
満が言うと咲のお母さんは大きく頷いた。
「ああいうの、もっとやりたいのよね。ねえ満ちゃん、冬の野菜とか
 果物とかで使えそうなものないかしら」
冬の野菜とか果物、と言われて満はううんと頭を巡らす。
ぱっと思いついたのはみかんだったが、パンに入れられるものかと
聞かれると微妙だ。

「冬、良く食べていたものなんてあった? 満ちゃん」
ええと、と満は考える。
「そういえば薫が妙に大根を気に入って」
「大根?」
咲のお母さんは意外そうに眼を瞬かせる。
「大根を煮てお味噌をつけた料理を週に二、三回作ってたんです」
「ああ、ふろふき大根ね。おいしいものね」
「たぶん舞のところで教えてもらったんだと思うんですけど……あ、でも
 パンに大根は」
「そうね、ちょっと難しいわね」
咲のお母さんはそう言って笑った。

「そうだ、せっかくだから満ちゃんも薫ちゃんみたいに『冬の残像』を探してみたら?」
「えっ?」
「いろいろな野菜とか果物で冬っぽいものを探してみたらどうかしら。
 今日はまだ寒いし、温かい料理でも作ってあげたら薫ちゃんも喜ぶわよ」
今日は確かにまだ寒い。雨が降ったからなおさらだ。
満が食事当番の日でもあるし、ちょうどいいかもしれないと満は思った。
PANPAKAパンを出る予定だった夕刻、雨が小降りになってきた頃合いを見計らって
満は店を出ると商店街の方に足を向けた。


――意外と、ないのね。
普段使っているスーパーに足を運んでみて満は少し驚いた。
「春野菜」といったコーナーは大々的に作られているが、
冬の野菜や果物はすっかり場所が小さくなっている。
まだ寒いのに、と満は思うが、
――でも、季節のものって先取りがいいんだっけ。
と、いつか本屋さんの店頭で見たファッション雑誌の表紙にあったコピーを
反芻してみる。

いずれにせよ、今日は野菜を買うだけではなくて買って夕食もつくらなければならない。
調理方法が分かるものにしないと、と思うと満の視線は買い慣れている食材の方に向かう。
しかし中々、これだと思うものがない。
「『冬の残像』ねえ……」
薫もこんな風に、中々決められずにふらふらしていたのだろうかと
満は思った。
――そろそろ帰ってくるとは思うけど。
食材を買って帰って、薫を待たせて料理と言うことになるだろうから
あまり時間のかからないものがいいと満は思う。
と、香ばしい匂いに満の足が止まり匂いの元に赤い瞳が向けられる。
それを見た瞬間、これだ、と満はぴんときた。
探し求めていたのはきっとこれだ。

 * * *

「ただいま」
満が帰宅してすぐ、寒さで耳を真っ赤にして薫が家に戻ってきた。
「おかえり、薫。いい絵描けた?」
妙に満が上機嫌なのを不思議に思いながらも薫は、
「そうね」
と答える。
「結局何を描いたの?」
「まだ霜の降りているところがあったから」
「雨は? 大丈夫だった?」
「ええ。舞が傘を持っていたし」
満とそんな会話を交しながら家の中に入り、香ばしい匂いに薫も気づく。
「……何の匂い?」
そう満に尋ねると、満はくすっと笑った。
「私も探したのよ。冬の残像」
「え?」
コートや手袋を脱ぎながら薫が部屋の中に入るのを待って、満は「いいでしょ」と
薫にそれを――スーパーで売っていた焼き芋を突き付ける。
「……焼き芋?」
「そうそう、美味しそうでしょう? 冷めないうちに薫が帰ってくるといいと思ってたんだけど、
 良かったわ」
はいこれ――と満は二つのうちの一つを手渡す。渡されるままに薫は
受け取ると、両手で持つ。すっかり冷えていた指先がすぐに熱くなってくる。
暖かい、と薫は思った。湯気を上げている焼き芋は冷えた身体にはありがたい。
満はというと、もう半分くらいを食べている。薫も一口かじってみた。
熱さが口の中に広がる。

「でも、どうして?」
「咲のお母さんに言われたの。私も探してみたらって」
「焼き芋は冬と言うより、秋の残像じゃない?」
「細かいことはいいのよ」
「ところで、今日のご飯は焼き芋なの?」
「おでんにしたいんだけど、いい?」
「ええ。それでお願い」
焼き芋を食べ終えた満が台所の方に行ったので、薫は自分の分を全部食べて
一息つくと雨に濡れたコートをハンガーにかけて部屋の中に干し始めた。


-完-

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