月が高い位置から辺りを照らしている。満は窓辺に立って
網戸を通ってくる夜風を感じていた。柔らかい風に身を任せていると
身体から熱がすうっと引いていくような気がする。
夏休みも後半に入ったとはいえ、まだまだ蒸し暑い日が続く。
しかしそれでも、夜になると多少は涼しい気分を味わうことができるようになってきている。
風呂上がりの身体は少しずつ落ち着きを取り戻していた。

「満、一階の電気消してきたけどいい?」
風呂から上がってきたばかりの薫がドアから顔を出す。
薫はいつも髪をまとめているバレッタを今は外しているので、
額の辺りに少し髪がかかっていた。満はそんな薫を毎日のように見ているのだけれど
どこか新鮮に見えるのは、オールバックの印象が強すぎるのかもしれない。

「ええ。もう寝るから。……戸締りは?」
「してきた」
短く答えると、薫はベッドに腰を下ろす。湯上りで上気した頬は色の白い顔に
赤みを添えている。
満が窓ガラスを閉じさらにカーテンを閉めると月の光が閉め出され、
部屋は電気の明かりだけになった。

「……カーテン、開けておいて」
「そう?」
どうしてなのか理由は聞かずに満はまたカーテンを開けた。月明かりがさっと
差し込む。薫は時々こんな風に気まぐれを口にすることがある。
「おやすみ」
満はベッドの中にもぐりこんだ。「おやすみ」と薫の声が布団の上から聞こえてきた。


満と薫はゴーヤーンを倒してからというもの緑の郷に暮らしている。
二人が夕凪中に転入するときに書いてあった住所に行ってみると
誰も住んでいない家があり――咲も咲の家族もそんなところに家があるとは記憶になかった――、
「これはきっと緑の郷の精霊の力ムプ」
「そうププ! 精霊の不思議の力ププ!」
というわけで二人はそこで暮らしていた。たまにムープやフープが泉の郷から
遊びに来て泊まっていくことがあるが、大抵は二人きりだ。
といって、一日中二人でべったりといるわけでもない。
今は夏休みだが、満も薫もスケッチにパン作りにと忙しくしているので
確実に二人きりになるのは朝起きた時と、夜寝る前のこの時間くらいだ。
枯れ果てた空の泉にいた頃の方が二人でいた時間としては長かった。
しかし満も薫も、あのころに戻りたいとはもちろん思っていなかった。


「ん……薫?」
頭の半分くらいまで布団にもぐっていた満だったが、隣に来た薫が寝ようとしていない
気がして目を開いてごそごそと体を上にあげ頭を完全に布団の上に出す。
薫は満の隣で布団を肩辺りまでかけてうつ伏せになり、
ベッドに持ち込んできたスケッチブックに鉛筆で何か描きこんでいる。
部屋の明かりは消してしまったので、ちょうど窓から差し込む月の光を頼りに
薫は鉛筆を動かしていた。

「薫……まだ寝ないの……?」
「ええ……もう少し……」
薫は満が自分のことを見ているのに気が付いていたようで
満の質問に静かに答えながら手を動かす。
「そう」
薫の表情がひどく穏やかだったので見ていて満は嬉しくなった。
そのまましばらく薫の横顔を見てみる。普段なら、じっと顔を見ていると
その内薫が「何?」と聞いて来たりぷいとそっぽを向いたりするので
長い間見ていることは難しい。
今の薫は満の視線を感じてはいても気にしないことにしているようで、
満は思う存分薫の顔を見ていることができた。
絵を描き続けている薫は薄い笑みさえ浮かべて、とても楽しそうだ。

――薫って分かりやすいわよね。
つくづく満はそう思う。
今の絵だって、描いている風景全体を描きたくて
始めた絵に決まっている。一番描きたいものを敢えて描かないでおくような
ややこしい真似を薫はしない。彼女の表現はいつだってストレートだ。
嬉しいときは嬉しい、楽しいときは楽しい、不愉快な時は不愉快だと
そういう表情を薫はいつもしている。
満にとっては薫がどういう気持ちでいるのか判断するのはかなり容易だ。
不機嫌なことを分かっていながらからかってみて、より不機嫌にさせて
手が付けられなくなることもあるが、それはまた別の問題である。

夕凪中のクラスメイトは何かの連絡事項を伝えるときにまず満に言って、
「薫さんの方にも伝えておいてね」と頼んでいくことがある。
初めは二人に別々に言うのが面倒なのでどちらか一人に言って
もう一人に伝えるように頼むのだと思っていた。
だから薫に先に伝えておくパターンもあるはずだと思っていた。

どうも自分ばかりが「薫さんに伝えて」と頼まれるようだと気づいたのは
少ししてからのことである。薫がとっつきにくいと思われているからか、
満と薫に何か伝えなければいけないことがあると満の方に伝える人は多い。

――こんなに分かりやすいんだから、機嫌が悪くなさそうな時を
  狙って話せばいいのに。
満はそう思うが、中々そういう風にはならないものらしく
満の方に伝言を頼む人は減らない。美術部員がようやく薫に直接
言うようになったくらいだ。

そんなことを考えながら満はまたスケッチブックの方を見た。

――舞やみのりちゃんと、今日行った場所かしら。
薫の描いている絵はトネリコの森のどこかだ。そこまでは満にも分かった。
その正確な場所までは分からない。ここに住むようになってからまた日の浅い
満と薫は、森のことをかなり知るようになったとはいえ知らない場所も
沢山ある。

今日は満はPANPAKAパンでパン作りの傍ら店番もしていたが、
薫は舞と一緒にみのりを連れてスケッチに出かけていたのである。

「今日行った場所?」
「……ええ」
もう満に声をかけられることはないだろうと思っていたのか、
薫が驚いたように答える。
「みんなでスケッチしたの?」
「ええ。みのりちゃん喜んでたわ、スケッチをたくさん描いて自由研究というのに
 するんですって」
「……ふうん」
薫は分かりやすい。満は改めてそう思う。
みのりちゃんのことを話す薫は、本人を目の前にしているときと同じように
普段よりも一層表情が優しくなる。みのりちゃん以外のことを話すときには
その表情をすることはない。

満に言われて思い出したのか、薫はその表情のままでスケッチブックに再び視線を
落とした。

「……」
無言のまま満は腕を伸ばすと、人差し指でえいっと薫の頬を刺す。
「……何?」
薫の表情から一瞬にして優しさが消えた。
邪魔をされて不愉快だと口には出さないが、目の色がはっきりそう語っている。
「ん〜、ここから見ていると薫の頬って結構柔らかそうだと思って」
本当に柔らかいのね、と言いながら満は二度三度と薫の頬をつつく。薫は鉛筆を置くと
左手でぱっと満の手を捉えた。
「何よ、薫の頬の柔らかさについて調べてみたっていいじゃない。
 自由研究よ、私の」
「どうでもいい」
薫はそう言い捨てると満の手を下ろしてまたスケッチブックに目を向ける。

――これ以上やったら、流石に怒られそうね。
そう判断した満は、
「ふ〜ん」
と答えると「おやすみ」と言って再び布団にもぐる。今度は本当に寝ようと思った。



満が「おやすみ」と言っても、薫は油断してはいなかった。またいつ起きてきて
余計なことをするかもしれないと、手を動かしながらも警戒していた。
だから、隣から満の規則正しい寝息が聞こえてきてやっと薫は安心した。

鉛筆を置いて横を見て、満の寝顔を眺める。
すやすやと寝ている満の表情は穏やかだ。さっきの仕返しに満の頬を突こうかと
薫は思ったが、満が目を覚ましたら自分のしたことを棚に上げて
食ってかかってきそうなのでそれはやめておくことにした。

――パンの匂いがする。
満の顔に少しだけ顔を近づけて、薫はそう思った。
寝る前に入浴しているのだからパンの匂いが残っているはずはないのだが、
満からは確かにパンの匂いがするような気がする。

夏休みに入ってからというものほとんど毎日のようにPANPAKAパンで
パン作りをしているからに違いないと薫は思った。
ここのところの朝食はいつも、満が前日に作ってきたパンである。

薫が食べていると「おいしい? おいしい?」と満が何度も確認してくるのは
薫にとってはほほえましかった。

――明日の朝も、きっと……
きっと、満は今日作ったパンを薫に食べさせて最初は少し心配そうな顔で、
薫が一度「おいしい」と言うともう一度言わせようと何度も「おいしい?」と
聞いてくるだろう。
その様子を思い描くと薫の口元は自然にほころんだ。

満が起きている時には、絶対に満にはしない表情。
みのりを見ている時のような優しい表情がそこにあった。
薫自身も、満が起きている時にこの表情をしていないことには気づいていない。
ただ満が目を覚ましている時は薫に対して余計なことをしたり言ったりすることが
多いので、不機嫌になったり言い返したりしているとこんな表情で
満を見る余裕がない。
そんなわけでこの表情は、満が自分に向けられているとは気づかないものに
なっていた。

――後は明日にしようかしら。
まだ自分の思い描いている絵には程遠いが、薫はこの辺りで絵を描くのをやめることにした。
あまり自分が起きているとまた満が起きてくるかもしれない。
それよりはずっとこのまま、静かに眠らせておいてあげたかった。

スケッチブックを静かに閉じ、ベッドの脇にある机の上に鉛筆と一緒に置く。
月の光はまだ明るい。
薫は満を起こさないようにそっとベッドから降りると、窓のカーテンを閉めに行った。
カーテンを半分くらい閉じかけて、そこで残す。
細くなった月の光はまだ部屋の中に入り込み、ちょうど満の
髪の毛を照らしていた。

満の髪は月光に照らされている時の色が一番綺麗だと薫は思いながら、
満の隣に戻って眠ることにした。


-完-

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