薫は海岸で一人、ほどよい岩にこしかけてひょうたん岩をスケッチしていた。
今日の海は少し荒れ模様だ。風が強く吹き、波を大きく動かしている。
薫が描く線も太いものになった。

薫の膝の上にはフープがちょこんと座ってたまに海を眺め、
薫が描いた海と本物の海を見比べている。

「薫ー」
「ん?」
手を止めないままで薫はフープに聞き返した。
「薫はいつの海を描いてるププ?」
「どういう意味?」
鉛筆の線が何本もひょうたん岩の上に重ねられて行く。フープは鉛筆の動きに合わせて
何度も視線を上下に動かした。
「海はいつも動いているププ。あの水もあの泡もずっと動いていて止まらないププ」
「そうね……」
「でも、薫の絵は止まってるププ。いつの海を描いてるププ?」
「いつでもないわ」
「ププ?」
「そういう瞬間瞬間じゃなくて……全体のイメージを描いているって言ったらいいのかしら」
「ププ? 絵って、止まっているものをモデルに描くんじゃないププ?」
「ああ、そうね……この前フープたちにモデルになってもらったときはそうやって描いたわ」
波を描く線を何本か足し、とりあえずのスケッチに満足すると薫はスケッチブックの前の
方の頁を開いた。この前、ムープとフープにモデルになってもらって
描いた絵だ。
ムープとフープがちょこんとトネリコの森の木の枝の上に並んでいる絵は
薫のお気に入りでもある。何かと落ち着きのないムープとフープにじっとしていて
もらうのは大変だった。

「ププ」
フープもその絵を見て嬉しそうにしている。絵の中のムープとフープはぴったりと
寄り添っていていかにも仲が良さそうに見えた。
「この時は、動かないようにムープと二人で頑張ったププ」
「そうね、ありがとう」
「それで、今の海の絵はどうやって描いてるププ?」
「舞が教えてくれたんだけど、」
薫はまた海を眺めた。海の色はさっきとも少し変わって、若干灰色味が増している。

「動いている物を描く時は全体の流れを見て、そのイメージを絵にするのがいいって。
 舞は本当に一瞬の出来事を写真みたいに捉えて絵にすることもできるんだけど、
 私にはまだできないから」
「ププ……フープたちのことも、流れで描くことはできるププ?」
「……たぶん。できると思うけど」
「やってみてププ!」
フープは薫の膝の上から飛び立ち辺りをぶんぶん飛び回る。
薫は新しい頁を開くと、必死に鉛筆を走らせてみた。

「……どうププ?」
「……」
しばらくしてフープが降りてくる。薫はぱたんとスケッチブックを閉じる。
え? とがっかりしたような表情を浮かべるフープに
「ちょっとあんまりなできになったわ」
と薫は答えた。
「難しかったププ?」
「そうね……」
薄くスケッチブックを開けて薫は今描いたばかりの絵を見た。
フープというよりつぶれた餅に見える。

「この前満を描いたけど、やっぱり難しかったわね」
「満ププ? 見てもいいププ?」
「いいわよ」
薫はフープを前のように膝の上に乗せるとスケッチブックを開く。
フープの目に入ったものは体育着を着た満だ。
「この前あったバスケット大会のときの絵なんだけど……」
「大会ププ?」
「そう、クラス対抗の」
「薫は出なかったププ?」
「私も出たわ。でも、各クラス2チームずつで満とはチームが別だったから」
今見ている絵は試合前といった様子で、満と相手の選手がラインを挟んで
向かい合っている。
「ここはまだいいんだけど……この辺の試合中のは……」
薫が次のページを開けた。満がドリブルで相手のディフェンスを突破しているようだ。
「ププ? そこまでひどいププ?」
絵を見たフープは首をかしげた。
確かに線は前の絵と比べて乱れているが、薫が言うほどひどい絵であるとは思えない――、

「へえ。フープには見せるんだ」
背後から声がして、薫はぱたんとスケッチブックを閉じた。
後ろを向くと、ムープを肩に乗せた満が腕組みをして立っている。
その表情はいかにも不服そうだ。
「満には見せてないププ?」
フープが薫を見上げる。薫が答えるよりも早く、
「見せてくれないわよね、薫」
と満が薫の前に回りこんだ。薫はふいっと満から視線を逸らす。
「見せるようなものじゃないわ」
「そうかしら。見せてくれないとそれも判断できないんだけど」
「見せた後で『見せるようなものじゃなかった』ってわかっても遅いじゃない」
満と薫が言いあっているそばでフープは
「見せてもいいと思うププ!」
と声を張り上げた。
「え……」
薫は困ったように眉を顰めた。
「薫はひどいって言ってるけど、そんなにひどい絵じゃないと思うププ!」
「ほらほら」
満は勝ち誇ったように手をひらひらさせた。
「……」
薫は黙ったまま、スケッチブックをぎゅっと握っている。
満はさらに追い討ちをかけた。
「大体ね、薫。モデルに作品を見せないってどういうつもりよ。
 そんなんだったら次からもう薫のモデルにならないわよ」
「えっ」
それは――困る。薫の表情にありありと困惑が浮かんだ。
「ほら、だから見せなさい」
もう一度手を伸ばすと、薫は諦めたような表情でスケッチブックを渡した。
フープ、ムープと一緒にスケッチブックを開く――と。
「え?」
予想外だという声が満の口から飛び出した。
「何よ、そんなにひどくないじゃない」
スケッチブックの自分の絵を見て、それから岩の上に力なく座る薫を見る。
「あんなに見せたがらないから、どんなにひどい絵かと思ってたのに」
ぱらぱらぱら……と、何枚かの自分の絵を見るが、どれもそれほど
ひどい物ではない。いつもよりは確かに荒いスケッチだったが。

「どうして薫は満に見せたくなかったムプ? 舞だったらいっつも自分の
 描いた絵を見せてくれるムプ」
「そうププそうププ! それに、絵を描くのに一番大事なのは描くもののことが
 大好きだって言う気持ちだって舞が言ってたププ!
 薫は満のことが大好きププ、だから薫が描く満の絵はいい絵ププ!」
ムープとフープが口々に言う。その言葉は、満に絵を見せようとしなかった
薫に抗議しているようでもあった。
「そうよ、何で? 『見せるような物じゃない』ような絵じゃないじゃない」
「……それはまだ満じゃない」
諦めたように薫が目を上げて満を見た。

「どういう意味?」
満の手から薫はスケッチブックを取り上げて一枚の絵を示した。
満がドリブルをしている絵だ。
「例えばこれだけど」
「うん」
「満がコートの端から端ま走ったときの絵よ」
「そうね」
「もっとこう……速かったし、走り方もしなやかだったわ」
「……」
満は絵を見直してみた。確かに薫の描いている満は動作が固いような気がするが。
「だからこれは、まだ私じゃないって言うの?」
「そうよ。満はもっと……」
「もっと?」
「もっと、光って見えたわ」
「ふうん?」
くすりと満はそれを聞いて笑った。薫の手に自分の手を重ねると
スケッチブックをぱたんと閉じさせる。
「それでまだ納得いってなかったわけ?」
「そう」
当然、というように薫は答えた。
「ふーん……じゃあ、いつになったら薫が納得するような私の絵が描けるのかしら?」
「それは……分からないわ。ずっと描けないかもしれないし」
「そしたら、ずっと私は見せてもらえないのかしら? 薫の絵」
「それは……」
理屈では確かにそういうことになる。どう答えたものか薫は悩んだ。
黙った薫の右手を満が取った。
「?」
と薫が不思議そうな表情を浮かべる。
「今日の絵描く時も、力入れて鉛筆持ってたんでしょ」
満が見ていたのは薫の右手の中指にある小さなタコだ。先ほどまで絵を描いていたので、
少し赤くなっている。
「そうね……つい」
舞によれば、絵を描く時には手にあまり力を入れないほうがいいそうだ。
リラックスした状態で描いた方が線が自由に描けるらしい。
だが薫はまだ、中々力を抜くことができないでいた。

「私の絵を描くときも力入ってたの?」
「そうね」
満は薫の中指のタコを撫で始めた。少し痛いようなくすぐったいような
感触が薫に走った。
「薫、これからも見せてくれない? 薫が中々力抜けないで描いた私の絵」
「それは……」
満は薫に躊躇する隙を与えないように畳み掛けた。
「だってそうしないと、薫の絵がうまくなっていく過程が分からないじゃない?」
「……そうね……」
それは確かにそうだ。その点は薫も納得できた。
「だから見せて」
駄目押しに一言言うと、こくんと薫は頷いた。満は内心でガッツポーズを作る。

「ところでね、薫。今日ムープとフープが緑の郷に来た理由はなんだか覚えてる?」
「あ。――食事を一緒にしたいってことだったわね」
薫が思い出して岩からすっと立ち上がった。
「そう。で、そのためにはまず買い物でしょ?」
ほら商店街に行くわよ。そう言って満はムープを鞄の中に入れる。
薫もスケッチブックを鞄に入れ、フープを鞄の一番上に入れた。
フープのために鞄は少しだけ開けておく。

「お肉屋さんで今日はセールだって」
言いながら満は薫の手を取った。もう一度タコを撫でてみる。
「だからお肉屋さんから行きましょ」
右手を気にしているらしい薫に構わずに、満はさっさと薫の手を引いて歩き始めた。

-完-

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