スケッチブックをぱたんと閉じて、舞はほうっと息をつく。

「舞、描き終わったの?」
地面に座って絵を描いていた舞の背中にもたれるようにして座っていた咲が
舞の様子に気づいて声をかける。

「うん、描き終わったわ。ごめんね咲、また待たせちゃって」
舞が絵を描いている間咲が待っているのはいつものことである。
今日みたいに大人しく座って待っていることもあれば、
舞の周りで適当に運動しながら待っていることもある。
咲がどんな風にして待っていても舞の集中力を乱すことはないのであまり
問題はなかった。

「わあ、もうこんな時間……」
遠くに見える時計に舞が驚いて声を上げた。日も長くなってきたので
ついつい長い時間絵を描き続けてしまう。

「ねえねえ、前から聞きたかったんだけど」
家路へと向いながら咲は舞に尋ねた。
そろそろ日の光はオレンジ色を帯びてきている。
「なあに?」
「舞が絵を描いてるときってすごく集中してるでしょ? 誰かが話しかけても聞こえ
 ないくらい」
「そうね……ごめんなさい」
舞が申し訳なさそうに言うので咲は慌てて、ううん、それは全然構わないんだよと言ってから、
「そういう時って、すごく短く感じるの?」
「え?」
「絵を描き終わって周りの人の声とか聞こえるようになったとき、絵を描いてた時間って
 ――今日だったら多分3時間くらいだと思うんだけど、何時間くらいに感じるの?」
「そうねえ……」

舞はしばらく考えてから、
「今日だったら、2、3分しかかかってないような気がするわ。
 時計を見たから、こんなに長い間描いてたんだって思うだけで」
「へえ〜」
咲は素直に感心する。

「やっぱり舞の集中力は凄いね」
「そんなことないわ。描きたいものを一生懸命見てたらそうなっちゃうだけだから」

そういうのを集中力って言うんだよ、と咲は思った。

「でも私だと、そんな風にはなれないなあ……」
「ならない方がいいんじゃないかしら。声かけられても気づかないと、周りの人に
 失礼だったりすることもあるし……咲なら分かってくれるけど」
「でも、例えば宿題が沢山ある時とかそんな風に集中できたらきっとはかどるよね!」
「そうね、宿題のときに集中できたらいいのにね」
咲の言葉に舞は笑う。釣られて咲も笑い、

「でも無理かあ、私じゃあ……」
「そんなことないわ、咲が本気になればきっと勉強のとき集中できるわよ!」
「そうかなあ」
「咲が本気になったときは凄いもの。今日でた英語の100問プリントも
 きっとすぐにできるわよ」
「え!? そんな宿題あったっけ!?」
咲が本当に慌てているので、舞はきょとんとした表情で鞄からプリントを出して咲に
見せた。

「そういえば、こんなの配られたね……すっかり忘れてたよ……」
「大丈夫よ、咲。期限までまだ一週間あるから」
咲から返してもらったプリントをしまいながら舞はにっこりと微笑んだ。


「ねえ薫お姉さん、もう一回〜」
「もうそろそろ、止めた方がいいんじゃない」
「だから、あと一回だけ。それで終わりにするから」
咲と舞がPANPAKAパンに戻ってくると、庭で薫とみのりがキャッチボールをしていた。
みのりはまだ新しいグローブを嵌め、薫は素手のままでボールを投げ合っている。

「最後の一回」は、これでもう4度目か5度目だ。薫から受け取ったボールをみのりは
ゆっくりと握ってから大きく振りかぶり、
「えいっ」と声を上げて薫に投げた。真っ直ぐにきたボールを左手で薫はキャッチする。

「はい。今日はこれで終わりよ」
「みのり〜、ただいま」
少し不満そうな顔をしているみのりのそばに咲は近づいた。
「あ、お姉ちゃんお帰りなさい! 舞お姉ちゃんも」
「薫にキャッチボールしてもらってたの?」
「うん、薫お姉さんすごく上手なんだよ」
「薫さん、手大丈夫?」
舞が気にして尋ねた。大丈夫よ、と薫は答える。

「みのりちゃんのボールだから」
舞に見せた右手は大分赤くなっていたが、左手はそれほどでもない。
薫の話によると、最初は右手で取って右手で投げていたのだが、
少し痛くなってきたので途中で左手で受け取るように変えたそうである。

「薫、私のグローブ使ってよかったのに。今日は部活ないんだし。
 みのりも、こういう時は私のグローブ出して……」
「みのりちゃんもそう言ってくれたんだけど、私が断ったのよ。
 咲の知らないうちに勝手に使うのもどうかと思って」
「ごめんね〜、薫。次は使って」
そうさせてもらうわと薫は答える。表の様子が気になったのか、
PANPAKAパンから満も出てきた。

「じゃあね、みのりちゃん。またね」
薫はみのりの頭を軽く撫でると満と一緒に家路につこうとする。
舞もしばらく咲と話をしていたが、やがて自分の家へと帰っていった。
みのりと咲も家の中に入っていったので、賑やかだった庭先は急にひっそりと静まり返る。
やがて夜の闇が庭を覆っていく。


「それでね、今日も舞がすごく素敵な絵を描いててね……」
「薫お姉さんとね、キャッチボールしたんだよ!」
日向家の夕食はいつも、咲とみのりの話が中心になる。

「薫ちゃんならきっとボール投げるのも上手でしょう?」
「うん、あのね、一度だけ壁に向って投げてもらったらすごく速かったんだよ!」
母の問いに、みのりは嬉しげに自慢するように答えた。

「もっとキャッチボールしてもらいたかったな……」
「明日でも明後日でも、来週でもまた頼んでみたら? 薫ならきっとしてくれると
 思うよ」
「うん、でもすぐ終わっちゃうから……」
「どういうこと?」
みのりの言っていることが良く分からずに咲が聞くと、みのりは
一杯キャッチボールしてもらったんだけど、何かちょっとしか時間が経ってないような
気がするの、と答える。

「今日だって薫お姉さんが来てからすぐ始めたのに、すぐ夕方になっちゃった
 ような気がして……」
「楽しいことはすぐおわっちゃうからな」
「そうなの、お父さん。だからなんかね、もっと一杯キャッチボールしてみたいのに」
「そう言えば舞が……」
絵を描いているときはすぐに時間が経っちゃうって言ってた、と咲は今日の舞の話をする。

「舞お姉ちゃんも?」
「舞ちゃんは絵を描いているときが本当に楽しいのね」
「うん、きっとそうなんだよね。すごく集中してるし」
「ねえ、楽しいことってみんなすぐ終わっちゃうの?」
そうだよ、と咲が答えると、詰まんないなあとみのりは茶碗に手を伸ばす。

「楽しい事をしてる時間が長くなればいいのに」
そうだねと咲も呟いた。


絵を描き上げて、舞はふーっと息をつく。
今日は舞のすぐそばにみのりが居る。咲もさっきまで舞の横に居たのだが、
少しその辺りを走りに行ってしまった。

「ねえ、舞お姉ちゃん」
「待たせちゃってごめんね、みのりちゃん」
「ううん、あのね、舞お姉ちゃんに聞きたいことがあるの」
「どうしたの?」
舞は優しくみのりを見つめる。
「舞お姉ちゃんもね、楽しいことがすぐ終わっちゃうんでしょ?」
「そうね、すぐに時間が過ぎちゃうわ」
「そういうのって詰まんない気がするの」
「う〜ん、と」

舞はどういうことを言おうか少し考えてから、

「楽しい事をしてるときって時間がすぐに過ぎるけど、でもゆっくり
 過ぎてるんだと思うわ」
「どういうこと?」
みのりは舞の言葉に懸命に耳を傾ける。

「昨日何か楽しいことあった?」
「薫お姉さんにキャッチボールしてもらったの」
「そう。その時の薫さんのこと、沢山覚えてる?」
「うん! 薫お姉さんね、すごくキャッチボール上手でね、みのりが全然
 違うところに投げちゃってもジャンプして取ってくれてね……」

舞はみのりが話を一段落させるまでうんうんと頷いて聞いていた。

「それじゃあ、みのりちゃん。詰まらない時のことは、そんなに沢山覚えてる?」
舞の問いにみのりは目をぱちくりさせる。
「詰まらない時のこと? あんまり覚えてないよ」
「そうでしょう? みのりちゃんの思い出の中では、楽しかった時の事のほうが
 ずっと色々な事を覚えているんじゃない?」
「う――うん」
みのりが頷く。

「だからね、私、楽しい時の方がゆっくり時間が流れていると思うの。
 色々な事を沢山覚えていられるから」
「……うん!」
舞の言葉を聞いてみのりはしばらくの間考え込むようにしていたが、
やがて納得したように大きく頷いた。
そんなみのりの顔を見て舞はふふ、と笑う。

「あれ、舞? もう終わってたんだ」
辺りをぐるりと一周してきた咲が戻ってきた。額には汗をかいている。

「みのりも、舞に聞きたいこと終わったの?」
「うん! いいこと教えてもらっちゃった!」
「いいこと? なになに?」
せがむ咲を見て、みのりは舞と目を合わせるとにんまりと笑う。

「お姉ちゃんには内緒だもん」
「ちょっとみのり、何でよ」
「舞お姉ちゃんとみのりの秘密〜!」
「こらみのり、待ちなさい!」
駆け出したみのりを咲が追いかける。

舞はそんな二人を見て笑っていたが、何かを思ったようにまたスケッチブックを
開いて鉛筆を取り出した。


-完-

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