ずいぶん時間が遅くなった。日中の暑さはまだ空気の中に残っているが、
空に輝く満月はもうだいぶ高くなっている。夕凪町から見える海に浮かぶ
ひょうたん岩はその月明かりを浴びて静かに輝いていた。

薫が職場から家へと自転車を走らせる海岸沿いの道からはひょうたん岩が良く見える。
ちょうどひょうたん岩の真上に月が見えるような形になって、
薫は思わず自転車を停めてその姿に見入った。
前かごに入れてある鞄から鉛筆とノートを取り出すと、その様子のスケッチをとり始めた。

ひょうたん岩は夏休みの初めに気の早い台風がやって来た時に何かがぶつかったらしく、
先端のとがっていた部分が少し欠けている。何がぶつかったのかは未だに分からないが、
「怪我人が出たり船が壊れるようなことにならなくて良かったよ」
というのが夕凪町民の一般的な評価である。
「本っ当に、うちの船にぶつかって壊れてでもいたら商売あがったりだもんな」
と、星野健太は台風が去って二、三日の間あちこちで言っていた。
この件を元に何かネタ作りをするとも言っていたような気がするが、少なくとも薫はその
新ネタをまだ聞いていない。

健太は夕凪町の町内会や海の家組合の次代を担う有望な若手――と周りに期待されているが、
本人はまだまだお笑い芸人としてのデビューの夢を捨てていないので、
時間を見つけては宮迫を誘って漫才の練習をしている。
ボランティアと称して薫の職場にやって来ることも多い。受けているかどうかは別にして。
「健太はおじさんみたいに、釣り船の上で駄洒落言ってんのが一番合ってるんじゃないの?」
というのは咲の評だが、本人はまだまだ、そこで収まるつもりはないのだ。

――うまく描けたら、舞に送ろうかしら。
高校で美術の教師をしている舞は、夏休みに入るとすぐに美術部の合宿の引率へと
出かけて行ったので今は夕凪町にいないのである。芸術方面に力を入れている学校なので
合宿期間も長い。舞はひょうたん岩が今どうなっているかまだ知らないのだ。

――送るよりはさすがに、舞が帰ってくる方が早いかしらね。
そんなことを考えながら、薫は欠けている部分を丁寧に描こうとそこだけは少しゆっくり
と鉛筆を動かした。手を動かしていると、ふと、十年ほど前の会話が記憶の淵から甦ってきた。

 * * *

「ねえねえ薫お姉さん。『十年一昔』って言葉知ってる?」
咲と舞、満と薫がダークフォールとの戦いに勝って少しした頃。薫はPANPAKAパンの庭のテーブルでみのりの宿題を見ていたが、一段落した頃突然みのりがこんなことを言い始めた。
「えっ?」
唐突な質問に薫がきょとんとした表情を浮かべると、
「この前国語の教科書でそういう言葉が出てきたんだよ。みのり授業で習う前に
そのお話読んでたんだけど、言葉の意味が分からなかったからお父さんに聞いたの。
『十年も前だと、色々なことが変わっている』っていう意味なんだって。
この前授業でそのお話読んだとき、みのりだけがその意味知ってたんだよ!」
えっへん、とみのりは言いたげだ。
「へえ。すごいわね」
と薫は目を細めた。えへへ、とみのりは照れ笑いを浮かべると、
「でも薫お姉さん。薫お姉さんは十年前のことって覚えてる?」
とそんな質問をしてきた。
「え? え……え」
薫は咲たちと同じ十四歳ということになっているから、十年前のことは覚えていないと
おかしい。しかし現実的にはダークフォールで生み出されているので――
ダークフォールでの時間の流れは緑の郷と一致しているかどうか分からないし、
緑の郷で言うところの十年前に自分が存在していたのかどうか、そこからまずよく分からなかった。

「あのね、みのりは十年前ってまだ生まれていないから十年前ってよく分からないんだ」
ああ、と薫は頷いた。みのりはまだ八歳だ。自分が覚えていない頃、
ましてや自分が生まれていない頃なんて実感がなくても不思議はない。

「でも、お父さんやお母さんは十年て本当に色々なことが変わるって言うんだよね。
 うちのお店を開いた時からも、お姉ちゃんが生まれた時からも、色んなことが起きた気がするって」
「へえ……」
そうなの、と薫は答える。
「お姉ちゃんもね、みのりが生まれてから今まで色々なことがあっという間に起きたって
 気がするって言うんだよね。みのりが生まれた頃なんて、みのり覚えてないのに」
薫はその言葉を少し頭の中で反芻すると、
「みのりちゃんはいつ頃のことから覚えているの?」
「んー?」
みのりは少し考えて、
「三歳ぐらい……かなあ。あっ! コロネが来た時のことは覚えてるよ!」
と元気よく答える。
「それからはいろんなことが起きたって気がする?」
薫の質問に、ううんとみのりは唸った。
「起きた……かなあ……なんかね、その頃と今は違うんだけど、お母さんたちが
 言うみたいにいろんなことがぱたぱた変ったっていう気はしないんだよね」
「そうなの」
と薫は答える。薫は先ほどから、人間はどういう風に時間を感じているのかということに
ついて一生懸命学んでいるつもりだった。
「ねえ、薫お姉さんは? 十年前から今までって、色んなことが変わったって気がする?」
足をぶらぶらと揺らしながらみのりはぐいとテーブルの上で身を乗り出した。
「え、えっと……よく、分からないけれど……」
先述したとおり、薫が生きていた時間が緑の郷でどれだけにあたるのかは薫自身にもよく分からない。
ダークフォールに満と二人でいた頃には永遠とも思える長い時間を過ごしていたような気がする。
一方、緑の郷に来てからはそれこそばたばたと色々なことが変わったような気がする。

「そっかあ」
みのりは少し残念そうな声を出した。
「お姉ちゃんはね、『幼稚園のころと比べたら今って全然違うでしょ?』って言うんだよね」
「みのりちゃんはそう思うの?」
「変わってるんだけど、でもやっぱりそんなに色んなことが変わってるわけじゃない気が
 するんだけどなあ。この店だって、トネリコの森だって、
 ひょうたん岩だって何にも変わらないし」
 本当は一度、すべて消えているのだけれどと薫は思った、ひょうたん岩は上半分が切れたのを見たのだし、トネリコの森も枯れ果てた。大空の樹が枯れたとき、この店も無事ではなかったろう。
 すべてのものが元通りに戻って本当に良かったと薫はため息をついた。
「ねえ、薫お姉さん、どう思う?」
 みのりの言葉で薫は我に返った。
「そ、そうね……私も、まだよく分からないけれど。もう少し成長しないと、
 分からないかもしれないわ」
「薫お姉さんでも?」
分からないの? と聞くみのりに、
「ええ、私も。まだ、ね」
と薫は答えた。
「じゃあ、お父さんやお母さんが言っているみたいに、十年っていろんなことが起きるって
 感じたら教えてね」
みのりはそう言ってにっこり笑った。

 * * *

薫が十年も前のみのりとのそんな会話を思い出したのは、欠けているひょうたん岩の姿をスケッチしようと思ったからだろう。ダークフォールを倒してから十年。確かに、色々なことが起きた。

「薫!」
突然名前を呼ばれて薫が振り返ると、そこには自転車を停めた咲がいた。
咲は薫の姿を見つけて急いで自転車を走らせてきたらしく、少し汗をかいている。
咲の自転車のかごの中にはソフトボールの道具が一式入っていた。
「咲? こんな遅くまで練習してたの?」
「ナイター施設が使えるようになったから、たくさん練習できるようになったんだ」
咲はそう言ってにっと笑う。咲は地元のソフトボール部に所属しているのだが、
もうすぐ大会があるので仕事が終わるとすぐに練習という日々が最近は続いているのだ。
「でも、薫も遅いよね? 今日」
「お迎えが遅れた子が一人いたの。だから」
「ああ、そうだったんだ」
今、薫は保育園で働いているのだ。咲は納得したように頷くと、薫の手元のノートに
視線を落とした。

「スケッチしてたの?」
「ええ、舞に送ろうかと思ったんだけど。……舞が帰ってくる方が早いかしら?」
んー、と咲は少し考えると、
「ちょうど行き違いになっちゃうタイミングかも」
「やっぱりそうかしらね」
スケッチを一通り終えると薫はぱたんとノートを閉じて鉛筆と一緒に鞄にしまい、
咲と一緒に自転車を押して歩き始めた。
「舞、日焼けしてるのかなあ」
「合宿地は山よね。……でも、今の咲ほどじゃないと思うわ」
「舞は美白だもんね」
「……そうね」
そんな会話を交わしながら、咲と薫は家の方に向かって歩いて行った。家では満が待っている。
満がPANPAKAパンに正規に就職してからというもの、霧生家の主食はほとんどいつもパンである。今日もきっと、パンだろう。
まだ暑さを感じさせる風が薫と咲の頬を撫でていった。

-完-

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