夜遅く、みのりはトイレに行きたくなって目を覚ました。
咲が隣のベッドから半分脚を出して寝ているのを見て
もう、お姉ちゃんてば……と思いながらそろそろと部屋を出る。

日向家の両親は朝早くから働くこともあって、夜も早く寝ることが多い。
それは翌日が定休日でもあまり変わらない。
こんな時間じゃお父さんとお母さんもきっと寝てるだろうな、と思いながら
みのりは階段をそっと降りる。
と、両親の部屋からは電気の明かりが漏れていた。珍しいと思いながら
トイレをすませ、また部屋に戻ろうとあくびをしながら廊下を歩く。

「三人目になるんだけど……大丈夫かしら」
「大丈夫だろ。そんな心配することないよ」
お母さんとお父さんがぼそぼそと話している声が部屋の中から漏れ聞こえてくる。
何の話だろうとみのりは思った。

「でも、みのりもこれでお姉ちゃんだな」
「ええ、そうね」
思わずみのりは足を止めた。
――お姉ちゃん……!?
どういう意味だろう。妙に心臓がどきどきとしてきた。
足音を立てないように注意しながら階段を上る。

三人目。みのりがお姉ちゃん。

答えは、一つしかない。みのりはごそごそと布団にもぐりこんだ。
――お母さんに赤ちゃんができたのかな……。
そうしたら、どうなるんだろう。みのりはその子――弟か妹かわからないけれど――
のお姉ちゃんになる。それだけは確かなことだ。

――お姉ちゃん……
どこか甘美な響きがある。本当かな、本当かな、とみのりは
どきどきしているうちにいつの間にか寝入ってしまっていた。


翌朝、PANPAKAパンは定休日だった。起きてみるとお父さんとお母さんはいつものように
朝食の食卓についていた。咲はというと、部活だそうでみのりが
起きた時刻にはもう家を出ていたようだ。
「お父さんお母さん、おはよう」
「おはよう、みのり。ああ、これ食べてみるか?」
「どうしたの、これ?」
「お父さんが知り合いからもらったんだよ。自家製のいちごジャムだってさ」
「うん、パンにつけて食べる!」
みのりは食パンを焼きながら、

――お父さんいつもと同じだなあ……
と思っていた。これから重大な話をするぞ、という雰囲気はない。
いつもと同じ朝を迎えているように見える。
お母さんはというとみのりが起きてきたのを見てりんごを剥き始めている。

――なんで話してくれないんだろう。
焼きあがってきたパンにジャムを塗ってかじりながらみのりは考える。
お父さんもお母さんも新聞に載っていた何かの事件の話をしていて――
この近所で、幼稚園くらいの子が足を滑らせて川に落ちたのだそうだ――、
「みのりも海や川に行くときは気をつけないとだめだぞ」
と突然言われ、
「うん、大丈夫」
と答える。
お父さんとお母さんの話はその後、今年は粉の価格が高いので
少し工夫しないとパンの値段を維持できないとかそういった
みのりには難しい話になっていった。

みのりは退屈そうな表情で二人の話を聞きながら、
――なんで話してくれないんだろう。
と考え続けていた。ひょっとして昨日聞いた話は夢か何かではないのだろうか、
とそんな気もしてくる。
――ううん、そんなことない。
昨日、みのりは確かに聞いた。それはよく覚えている。夢なんかじゃない。
だとしたら、お父さんやお母さんはまだみのりに話すつもりが
ないということなのだろう。なんで? とみのりは考え続けた。
考えている間に食パンを全部食べ終わってしまったので皿を片づけて部屋に戻る。

――じゃあお姉ちゃんも知らないのかな、このこと。
自分だけが知っていると思うと少し優越感だが、それにしてもお母さんたちが
話してくれない理由がわからない。赤ちゃんのことなんてすごく大事なことなのに……、
あ、とみのりは思った。

――大事なことだから、みのりとお姉ちゃんと一緒にいるときに話してくれる
  つもりなのかも。

考えてみれば、みのりもお姉ちゃんになるのだが咲もその子のお姉ちゃんになるのだ。
咲だけに最初に話すのでもなく、みのりだけに最初に話すのでもなく、
二人に同時に話すことにしているのかもしれない。

――じゃあ、夜まで待とうっと。
そう決めるとみのりの気は軽くなった。それにしても気になるのは
赤ちゃんが生まれた後のことだ。
――お姉ちゃんになったら……妹か弟の面倒いっぱい見て……、
と思ったところでみのりの想像は突然途切れた。あれ? と思って考え直す。
「面倒をいっぱい見る」の具体的なイメージが思い浮かんでこない。
お姉ちゃんはどんなことをしてくれたんだっけ、と考えようとしても
何しろその時自分は赤ちゃんだったものだから覚えていない。

――ん〜、と……
みのりは急に不安になった。誰かに相談したくなって、ぱたぱたと
階段を下りて「ちょっと出かけてくるー!」とお父さんとお母さんに
言い残すとまっしぐらに薫のところを目指した。

家に行っても薫はいなかったので、大空の樹の方に行ってみるとそこに薫はいた。
大空の樹の根元に座り、目を閉じて背中を樹に預けている。

「薫お姉さん」
眠ってるのかな、と思いながらみのりはそっと声をかけた。薫は静かに
目を開く。
「起こしちゃった?」
「そんなことないわ」
薫の答えに安心して、みのりも薫の隣にぺたんと座った。

「……どうかしたの?」
「うん……、あのね」
小さな声でみのりは話し始める。
「あのね、まだ誰にも内緒なんだけど」
「うん」
「お母さんに赤ちゃんができたみたいなの」
「えっ。……そうなの」
薫はみのりの言葉に素直に驚いていた。赤ちゃんが生まれるという話を聞くのは
初めてだ。

「うん、でも昨日の夜みのりがたまたま聞いちゃっただけだから
 まだ内緒なんだと思うんだ。……あ、だからお姉ちゃんにも内緒にしててね」
「ええ。……それで?」
「うん。そうしたらみのり、その子のお姉さんになるんだけど……『お姉さん』って、
 どんなことすればいいのかなあ?」
ええと、と薫は思った。とりあえず身近なお姉さんの例を挙げてみる。
「咲みたいなこと……かしら?」
「うん、でも赤ちゃんに何をしたらいいのかよく分からなくて……薫お姉さんは、分かる?」
「……」
薫は少しの間黙って考えていたが、やがて、
「分からないわ」
と答えた。

「私には年の離れた妹はいないし……満とは、昔からずっと一緒にいたから」
――満の方がずっとしっかりしているところも多いし。
と思いながら薫がつぶやくと、
「そうだよね」
とみのりは俯く。薫は自分がみのりの力になれないことを歯がゆく思った。
「みのり、大丈夫かなあ……『お姉ちゃん』になって」
「大丈夫よ。……きっと」
薫の言葉にはあまり根拠はない。ただ、みのりちゃんだから大丈夫という
それだけだ。それは信頼でもあるのだが、今のみのりにはあまり
実感のある言葉としては聞こえなかったらしく、ふうと彼女は息をついた。

「あ〜ら、あんた達」
俯きがちだった薫とみのりの上から声が降ってくる。二人が視線を上げると、
そこにはキントレスキーとミズ・シタターレが立っていた。

「……何?」
薫が訝しげに尋ねると、
「そこはあんた達の特等席ってわけじゃないのよ」
とミズ・シタターレは答える。
「どういう意味?」
「ちょっと待っててあげたんだからいい加減どきなさいって言うの。
 これから私とキンちゃんがここでデートするんだから」
「デート?」
「そ、だからお子ちゃまはあっちに行ってなさい。人生相談ならよそだって
 できるでしょ」
さあ行った行った――といわんばかりに、ミズ・シタターレは二人に向かって手を
振って見せる。
「聞いてたの」
薫はみのりの手を引いて立ち上がった。
「聞いてたっていうか、聞こえたのよね〜。私たち耳いいから」
「あ、あのっ! お姉ちゃんには言わないでねっ!」
みのりが懸命につま先立ちしながらシタターレに言うと、
「分かってるわよ、別に言ったって面白いことにはなりそうにないし」
という答えが返ってくる。安心したようにみのりはかかとを地面につけた。

「まあ、しかしだな」
キントレスキーは顎を撫でながら薫を見下ろした。
「ご主人に子供が生まれるのであればその時には我々も何か祝いの品を
 届けなければなるまい」
「それはまた後のことよ」
薫が答えると、うむ、とキントレスキーはうなずいた。
「それはそうと」
とキントレスキーはしゃがみこみ、みのりと目の高さを合わせる。
みのりは思わず尻込みした。
「『案ずるより産むが易し』、という言葉もあるぞ。
 今からいろいろ心配したって仕方あるまい。今は『お姉ちゃん』になることより、
 ご主人たちを気遣ってやれ」
「あ……」
みのりはぽかんと口を開けた。そういえば、お父さんとお母さんのことは
全然考えていなかった。

「そっか……」
とつぶやくと、みのりは
「薫お姉さん、みのりちょっと家に戻ってくる!」と駆け出す。目指すのは一路、
自分の家だ。


「お父さんお母さん、ただいま」
「あら、お帰りみのり。咲も今帰ってきたところよ」
――お姉ちゃんが!? じゃあ……
いよいよ、あの話が自分たちの前に出てくるのかとみのりは思った。
咲はというと何も知らない様子で、お腹がすいたらしくパンを
ぱくついている。

「ちょうどよかった。二人が揃ったから、ちょっと大事な話があるの」
お父さんとお母さんが食卓のテーブルにつく。みのりは緊張の面持ちで、
食卓についた。咲は、
「ん、どうしたの?」
と、きょとんとした表情を浮かべている。

「明美おばさんのところで、今度三人目の赤ちゃんが産まれるんだって」
「……え?」
みのりは思わず聞き返してしまった。
「明美おばさんよ、ほら。みのりまさか覚えてないの?」
「う、ううん、覚えてるよもちろん」
――赤ちゃんってひょっとして明美おばさんのところの話だったのかな……

「えー、でも随分離れてるよね。明美おばさんのところって、私たちより
 年上の……」
咲はみのりが内心もやもやしていることを知らずにお母さんに言葉を返す。
「そうそう、15歳くらい年の離れた兄弟になるんじゃないかしら。
 まあそれはいいんだけど、久しぶりってこともあっておばさんが少し
 体調を崩しているらしいから」
え、と咲とみのりが顔を上げる。
「今度の週末にお母さん、おばさんのところにお見舞いに行ってくるから
 留守はよろしくね」
はーい、と咲とみのりが声を合わせて答える。うんうん、とお父さんは
頷いてその光景を見ていた。

「みのり。みのりはいとこの中でも一番小さかったけど、その子が
 産まれたら今度はお姉ちゃんになるんだからな。親戚の集まりなんかで
 ちゃんとお姉ちゃんらしくしてあげるんだぞ」
「あ、うん。はーい」
みのりがお姉ちゃんってそういうことかあ、とみのりは思った。
がっかりしたような、内心ちょっと安心したような。
咲はみのりがなんだか複雑な表情をしているのを不思議そうに見ていた。


-完-

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