「薫さん、今度一緒に画材屋さんにいかない?」
曇り空の下で薫と舞は学校から伸びる坂道を下っていた。
美術部の活動が終わり、下校の途中だ。
咲や満は先に帰ってしまったので今はいない。二人が吐く息は白く染まっている。
「画材屋さん?」
「ええ。この前薫さん、青い絵の具がなくなったって」
「ああ」
空や海の絵を描いていることが多いからか、薫は青い絵の具をよく使う。
どれだけチューブを絞ってみてももう絵の具は少しも出ないという状態に
この前なってしまった。仕方がないから舞が持っている青色を貸してもらったのだが、
「色の雰囲気が違うなんて思わなかったわ。同じ『青』なのに」
「メーカーが違うとそういうこともたまにあるのよね。気にならないことも
 あるんだけど……」
薫は「難しいものね」と答える。
薫が持っていた青色と舞が持っていた青色はぼんやり見ていれば区別は
つかなかっただろうが、一枚の絵に使ってみるとその違いは明瞭だった。
薫は結局これまで塗った青の上からさらに色を塗りなおすことで
全体のイメージを統一したのだが、最初に思い描いていた絵よりも
雰囲気が良くなったような気がしたのは不思議だ。
「それでね、前は文房具屋さんで絵の具を買ったけど、今度は画材屋さんに
 行ってみたらどうかと思うの」
「そこは何か違うの?」
「専門店だから絵の具一つとってもいろいろな種類があるし……、
 他の画材も、見ているだけで結構面白いのよ」
「へえ……」
曖昧に薫は答える。舞が教えてくれることはいつも新鮮だ。
「今度の日曜日、どう?」
「ええ。行くわ」
そう答えて薫はふと空を見上げる。灰色の雲がかかった空からちらちらと白いものが
落ちてきていた。
「雪ね……」
舞は首に巻いていたマフラーを少し締めると手を伸ばしながら空を見上げた。
「ええ」
薫も手を広げて落ちてくる雪を受け止める。手のひらに落ちた雪はすぐに溶けて消えた。
道に落ちた雪もすぐに消えてしまっている。このままでは積もることはなさそうだ。
舞と薫は二人並んで家に帰った。

「ただいま」
きっと家の中は寒いだろうと思っていたが、玄関に入った途端暖かい空気が
流れこんできたので舞は少し驚いた。
「お帰り。舞」
舞を出迎えたのはリビングから聞こえてくる和也の声だ。
「お兄ちゃん、帰ってたの?」
「ああ。舞、今日は遅かったんだな」
「部活があったから」
和也はソファでくつろいで本を読んでいる。エアコンをつけた部屋の空気は暖かい。
「ねえお兄ちゃん、エアコンつけるならドア閉めないと玄関まで暖めてるわよ」
「あ、そっか」
もう、と言いながら舞はぱたんとドアを閉めた。
「ここで本読んでるの?」
「部屋は寒そうだからね」
和也は本から目を上げずに答える。部屋の中に入って舞が見ると、ソファのそばには
清海高校の鞄やコートが置いてあった。制服もそのままで、どうやら帰ってきてから
ずっとこの部屋で本を読んでいたようだ。変なところでだらしないんだからと
舞は思った。
コートとマフラーを脱いでソファの背にかけ、窓の外を見ると雪は相変わらず
降り続いている。心なしか気温も下がってしまったように感じられた。
「お兄ちゃん、ホットミルク作ったら飲む?」
「もらう」
本に集中してきたのか、和也の返事は短い。舞は冷蔵庫から牛乳を出すと
片手鍋に入れてコトコトと温める。自分の部屋に戻るにしてもいかにも寒そうだ。
身体の内側からよく温めておきたい。
「お兄ちゃん、できたわよ」
「ん? ……お、ありがとう」
コップを目の前のテーブルに置くとさすがに和也も本から目を離した。
舞もソファに座り、二人はゆっくりとホットミルクを飲む。
「そういえば、舞」
「どうしたの?」
「帰りに夕食の材料買ってきたんだ。時間があるなら、後で一緒に作ってくれ」
「今日、お母さん遅くなる日だった?」
確か今夜の夕食は作ると朝言っていたような、と舞は首をかしげた。
「うん、帰るって言ってたんだけどさ。どうも母さん、昨日発掘現場で面白いものを
 見つけたらしいんだ」
「えっ。そうだったの」
「うん、だから今日はその内『遅くなりそうだから先に何か作って食べてて』っていう
 電話がかかってくるんじゃないかと思うんだ」
親子としての付き合いは長い。もう十七歳にもなれば、親の行動パターンは読めて
くるものである。
「そうね、そうなりそう」
舞と和也は顔を見合わせると苦笑した。
「だろう? だから先回りして買ってきておいたんだ」
「時間になったら手伝うわ」
舞も、母はきっと遅くなると思った。ホットミルクを飲み干してコップを洗うと
自室に向かう。
――やっぱり、寒いわね……。
舞は一番暖かい部屋着をごそごそと探しだした。

 * * *

「薫さん、こっちこっち」
画材屋さんは夕凪町から電車で三駅ほど行った先にある商業ビルの中に入っている。
「ここなの?」
1階は書店というビルのたたずまいに薫が不思議そうな顔をすると、
「ええ、そうよ。ここの3階なの」
と舞はビルの横に掲げられた看板を指した。
「画材専門店」という言葉とともに店の名前が書いてある。
「ああ、なるほど……」
「こっちにエレベーターがあるの」
5人くらい乗ったらぎゅうぎゅうになってしまいそうな小さなエレベーターに
乗って舞と薫は3階を目指した。
エレベーターの扉が開いたとたんに飛び込んできたカラフルな光景に
薫は目を奪われる。ビルの中は外から想像していたよりも広く、天井から
ぶら下げられたプレートで「絵筆」「イーゼル」といった分類が示されている。
――ええっと……。
さすがに、専門店である。右を見ても左を見ても絵に関係する商品ばかりで
それ以外のものは見当たらない。
戸惑っている薫に、
「絵の具はこっちよ」と舞が手を取って水彩絵の具のコーナーに連れて行く。
通路の途中にあった油絵用のパレットナイフの輝きに気を取られながらも
薫は絵の具のコーナーにたどり着いた。
いくつかのメーカーが出している絵の具を取り揃えているので、青の絵の具と言っても
何種類かある。
選びやすいようにという配慮だろうか、各メーカーの絵の具の特性を説明してくれている
パネルが置いてあるので薫はそれをよく読んだ。
読んだうえで、うーんと悩む。これまでの絵の具をそのまま買うのがいいのか、
思い切ってメーカーを変えてみるのがいいのか。
――少し時間かかりそうかな……?
舞は薫が真剣な表情をしていくつかの絵の具を選んでいるのを見て舞はそう思った。
薫から少し離れ、それでも姿の見えるところで舞は別の商品を見てみる。
今日は特に買い物をする予定はないので、単なる見物だ。
「あ」
スケッチブックのコーナーで舞の口から言葉が漏れた。
いくつか並んでいるスケッチブックの中で、一回り小さいものに手が伸びる。
懐かしい思いが舞の中に甦ってきた。

「……舞、」
舞の背中にぽんと触れた。はっと舞が我に返る。
「あ、薫さん。決まったの?」
「いいえ、まだなんだけど。……舞はそのスケッチブックを買うの?」
と薫が舞の持っているスケッチブックを指す。
「う、ううん。そういうわけじゃないんだけど」
舞は慌ててそれを元の場所に戻した。
「これね、私が初めて買ってもらったスケッチブックと同じものなの。それまでは
 ずっと広告の裏とか、お父さんたちが大学で使った紙の裏に描いていたんだけど」
「……へえ」
「まだ小さいころだったから、このくらい小さい方が使いやすいだろうって
 お父さんが思ったのね、きっと。すごく寒い日だったんだけど、お父さんと
 お母さんがプレゼントを買ってきてくれるっていうから私、ずっと待ってたの」

 * * *

その日は雪が降っていた。舞はずっと窓に張り付くようにして外を見ていた。
「舞?」
小学生の和也が見かねたように舞に声をかける。
「なあに、お兄ちゃん?」
「舞はもう寝た方がいいよ。僕が起きてるから。父さんと母さん、きっと
 まだ帰ってこないよ」
「だって今日、スケッチブックを買ってきてくれるって約束なんだもの」
舞は窓の外を見たままで答える。白い雪が部屋からの明かりに照らされてよく見える。
窓ガラスは曇っているので、舞は自分の顔の前のガラスを手で拭いては外を見ていた。
「寝てたって大丈夫だって。父さんたちちゃんと買ってくるよ」
「でも……」
舞は口ごもると、曇った窓ガラスに線を引き始めた。これで絵を描けることに
気が付いて、舞はお父さんやお母さんの顔、和也の顔や自分の顔、いくつもの
家族の顔を描き始めた。舞が絵を描いているのに気が付くと諦めたように
和也は黙った。

 * * *

「それで、どうなったの?」
薫が舞に話の続きを尋ねる。
「私、結局寝ちゃったみたいなの。窓のすぐそばで」
少し恥ずかしそうに舞は答える。
「朝起きたら自分の布団に寝てたんだけど、お父さんたちが運んでくれたみたい。
 それで、枕元にこのスケッチブックが置いてあったの」
「窓に描いた絵はどうなったの?」
「消えちゃったわ」
当然、というように舞は答える。薫がわずかに眉を顰めると、
「その絵じゃなくても、他のいろいろな紙に描いた絵も結構いつの間にかなくなってるの。
 うちは引っ越しも多かったから」
「……なんだか、残念ね」
「でも、その絵を描いた時の気持ちは残ってるから」
「……」
舞は穏やかな笑みを浮かべた。そういうものかと薫は思った。
「それで、薫さん。絵の具は?」
「あ。……ああ、うん」
薫は考えを絵の具のことに戻す。
「まだ決められなくて……どうしたらいいかと思ってて」
「そうなの」
舞と薫は並んで再び絵の具コーナーに戻る。
「薫さんが次に描く絵のイメージがはっきりしていたらそれに合ったのが
 いいと思うけど……」
「そうね……」
次に描く絵。薫はイメージを浮かべた。
さっきのような舞の表情を描いてみたい。薫はそう思って、もう一度選びなおして
みることにした。

-完-

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