「おはよう、舞」
「おはよう」
舞が家から出てくるのを薫は道で待っていた。待たせちゃって
ごめんなさい、と言いながら舞はぱたぱたと走って出てきた。
制服のリボンが少し緩んでいるのに気づいてすぐに直す。

「薫さん、早いわね」
「なんだか早く目が覚めたから……」
この時間、まだ少し風は冷たい。吹いてきた風に舞は少し身を縮める。
「満さんは?」
「まだ寝てたわ。一応声はかけてきたけど、私が出た後また寝てると思う」
日曜は朝寝するみたいだからと薫は笑った。

舞と薫は、電車に乗って数駅いったところにある市民センターを目指している。
北欧の画家の展覧会が現在開かれているのだ。
夕凪町の近くでそんな企画が開かれることは珍しい。
夕凪中では折角の機会だからということで希望者を募り、今日見学に行くことにした。
舞と薫は――主に舞が見てみたいと言ったので――参加することにしたのである。
現地集合なので二人は間に合うように家を出た。

「今日見に行く人の絵を舞は好きなの?」
電車の中、窓の外を見ながら薫が尋ねる。
舞は少し考えてから、
「そうね……何ともいえないわ。凄く不思議な絵を描く人だから……」
「ふうん?」
興味深そうに薫は答えた。これから見に行く絵に興味が高まる。

市民センターの最寄り駅は大きく、日曜であっても人は多い。電車からホームに降りた舞は
人の流れの中に飲み込まれて溺れそうになる。

「舞」
人に押し流されそうになった舞を薫の手が掴まえた。
「改札はあっちでしょう?」
天井から下がっている掲示を指差す。「市民センター方面」の文字を確認してうんと
舞は頷いたが、

「でもみんな、反対側の改札に行こうとしているみたい」
「押し切っていくほかないようね」
ぎゅっと薫の手に力が篭った。

――まさか薫さん、こんなところで飛ぶつもりじゃ……

慌てて止めようとする舞に気づかず、薫は「すみません」と声を上げると
人々の間を掻き分けるようにして進んでいく。ほっと安心して舞は薫に
手を引かれるままについていった。
たまに心配になるらしく薫はちらりと舞を振り返る。舞はその度、
薫に大丈夫というように頷いて見せた。

改札を越えると、突然人が減り――といっても夕凪町にいるときよりは
混んでいるが――普通に歩けるようになる。
ふーっと薫は息をついた。繋いだままだった手を柔らかく話す。

「やっと抜けられたわね」
「うん。凄かった……」
「こんなに沢山人がいるってことが不思議な気がするわ」
「そうね……夕凪町の人が全員集まってもさっきみたいなことには
 なりそうにないのに」
舞の言葉に薫はふふっと笑う。
「そうね。確かに」
「でもあの人たち、どこに行くのかしら……?」
「さあ?」
どうでもいいわ。と言いそうな雰囲気の薫に舞はそっと横に並んだ。

市民センター前は小さな広場になっていて、集合場所はそこの噴水だ。
集合時間には20分ほどの間がある。
夕凪中の生徒はまだ誰も来ていない。

時間があるからということで二人は市民センターの周りを少しぶらぶらすることにした。
噴水を離れ、センターの無機質な建物の裏に行って見る。
建物の裏側は空調か何かの大きな装置が並んで唸り声を上げていて
あまり二人の心を引くものではなかった。

と、舞が「あ」と声を上げてしゃがむ。
「?」と薫も同じようにしゃがんだ。機械とコンクリートの地面との間に、
どこからどうやって入ったのかトカゲが一匹挟まってしまっている。
薫は素早く手を差し入れるとトカゲを引きずり出した。手足をじたばたさせていた
トカゲはコンクリートの上に置かれるとぱっと身を翻して逃げる。

「……」
無言で薫は立ち上がった。舞はそんな薫に「ありがとう」と言う。
「ありがとう? どうして?」
「今のトカゲ、助けてくれたから」
「舞だって助けてたでしょ」
「私だったらあんな風にすっと助けられないで色々なところに
 傷つけちゃったかもしれないわ」
「……そう? あんまりそうは思えないけど」
舞に渡されたハンカチで薫は手を拭いて「洗って返すわ」と言う。
「そんな、洗濯なんて」
笑ってハンカチを受け取ろうとした舞に、いや、と薫は答えた。
「最近は洗濯もするようになったから」
――? それってどういう意味? 今までは?

舞が首をかしげていると、「あ、人が大分集まってきてるわ」と薫が
噴水の方を指す。
時間を見ると集合時間に5分前、丁度良い頃合だ。舞と薫は小走りに噴水前に行き
みんなと合流した。

引率の先生が集合した人数を確認し予め手配してあった団体券を
一人一人に渡す。
「みんな、この中は絵を見る場所だから走り回ったりしないで静かに見るように」
小学生にするような注意にみんな「は〜い」とやる気なさそうに答えた。

「まずみんな揃って団体通路から中に入ります。係りの人にこの券を渡すこと。
 中に入ったら、見学は各自で。
 集合時間になったら、またここに集まること。分かりましたね」
またやる気のなさそうな返事が沸き起こり、先生の後ろに一列になってみんなは
ぞろぞろと市民ホールに向った。

いつもは無機質な――詰まらないと言ってもいい――市民ホールだが、今日は
展覧会ということでなのかいくつかに部屋が仕切られ展示も凝っているようだ。
一応順路も書いてあるが、それに従わなくても構わないらしい。
人もそんなに多くはなく、順路以外の回り方をしてもそんなに迷惑ではなさそうだ。

舞と薫はみんなの列から少し外れて、まず小さく仕切られた部屋を除いてみることにした。
「彫刻の軌跡」と壁に説明が貼ってあるとおり、画家が生涯で遺したわずかな
彫刻が展示されているようだ。

「手?」
「……みたいだ、けど」
展示物に振ってあるのは「作品NO.○○」というタイトルのみ。
画家自身も発表するつもりではいなかったらしく、研究者が割り振った番号だけが
10点ほどの彫刻の名前になっている。
中央に展示されているのは手――のように見える、5本の指らしきものが何かを
掴もうとしている彫刻だ。

作品解説によると画家の人生の中で最も陰鬱に沈んでいた時期に製作されたものらしい。
その手がまるで助けを求めているようで、自分に向ってきそうで薫は何故か不安を覚えた。
ぐるりと見回して壁際に並べられている作品群――動物をモチーフにしたものが多い――、
もどこか痩せぎすで睨みつけているようで、薫はどうも苦手だった。

「薫さん?」
舞は自分の手が薫の手に握られたのを感じて彫刻から目を放し薫を見上げた。
「いや……なんでもないわ」
薫は低く答えて舞の手を放した。


メインになっている部屋の展示はやはり絵だ。
絵を痛めないようにということか、照明は少し暗めである。絵の横にはタイトルと制作年代、
絵の見所が書いたパネルが貼ってある。

だが薫にはそんなものを見ているゆとりはなかった。
絵の強烈な色彩が襲い掛かってくる。鮮やかだというのではない、
どんよりと暗く沈んだ色合いでこれを描いたときの画家の気持ちだけが
恐ろしいほどの切迫感を持って伝わってくる。
背中に汗がにじみ出るのを感じながらそれでも薫は冷静な様子を保っていた。
舞もどこか不安そうな表情で絵を見ている。

画家の代表作だという絵の前に着いた時、薫は半ば叫びだしそうになった。
陰鬱――では足りない。画家の中に巧妙に隠れていた狂気が隠しきれなくなって
一気に表出してきたような――

「薫さん!?」
なりふり構わず薫は舞の手を繋ぐと強引とも言える足取りで部屋の外に出た。
大きな窓から暖かく日の光が入ってくる。緊張していた身体がほぐれるのを
薫は感じた。

「どうしたの?」
舞は手をつながれたまま、心配そうに薫を見上げる。
ごめんなさい、と薫は答えた。

「何だか、絵を見ていたら怖くなって……」
「怖く?」
座りましょうと言うように舞は窓の近くにおいてあるベンチを指し
二人で静かに腰掛ける。

「あの絵を描いた人の気持ちが直接響いてくるようで……でも、
 その気持ちが、よく分からないけど恐ろしいもののような……」
自分でも何を言っているのかよく分からないと薫は感じた。
舞もこんなことを言われても全然分からないだろう――と
不安げに舞の顔を見ると、舞はうんと頷いて、

「そうね――、私も、あの絵怖いと思ったわ。
 前からよく本で見てたから予想はしてたけど、本物があんな風に――こう、
 あんなに、見ていて鳥肌が立つような絵だとは思わなかったわ」
「……ええ」
舞も似たようなことを感じていたのを知り、薫はちょっと安心した。
繋いだままになっていた手を恥ずかしそうに放す。

「でも、どうして……あんな絵を描いたのかしら、あの人は」
「きっと……自分の気持ちを伝えようとしたらあんな形に
 なったんだと思うわ」
「……舞」
薫は床に目を向けてから思い切ったように顔を上げた。

「舞も、あんな絵を描くことはあるの?」
「え?」
舞は本当に予想外の質問だったようにきょとんと止まった後、
「ないわ」と答える。
「これからも?」薫は執拗なまでに尋ねた。

「ええ……たぶん」
やや曖昧さを残した答えに薫は両腕をぐっと舞の肩に掛ける。
舞と薫の視線は正面からぶつかり合った。

「舞には絶対、あんな絵は描かせない。――あんな気持ちには、させないわ」
「う、うん……」
真剣に言われて舞はたじたじとしながらも、薫がまだ何かを
恐れているように感じた。

――考えてみたら、薫さんは今までこういうタイプの絵を見たことがないから、
  刺激が強かったのかもしれないわ……

舞が薫に画集を見せる事があっても、大抵は綺麗な風景画や人物画だ。
あまりこういったどろどろとしたものは見せていなかったかもしれない。

ここに来て実物を見せる前に、少しでも今回の画家の絵を見せておけば
良かったかもしれないと反省しながら、舞は自分の両肩に乗っている
薫の手を両手で握った。

「舞?」
「大丈夫よ、薫さん。私、薫さんたちといっしょにいたらきっと、
 あんな絵を描くような気持ちにはならないから――」
「……」
繋いだ両手が二人の真ん中に降りてきた。窓の内側、
陽だまりになっているベンチはもうぽかぽかだ。

「それにね……あの人だってああいう絵ばかり描いてたんじゃないの」
舞に促されて薫は立ち上がった。先ほどの部屋には入らず、
「晩年の世界」とパネルのある部屋に入る。
その奥に飾られている絵を見たとき薫の頭はくらくらとした。

海に上る太陽が強烈な輝きを放ち絵の中央にどっしりと鎮座している。
岩が白く照らされ、空は深い青だ。

――これ、本当にさっきと同じ人が描いたのかしら……

別人の描いた絵のようだと薫は思った。まるで太陽の泉を現そうとしているような
生命力に溢れた絵だ。

「ね? 全然違うでしょう?」
舞に言われて薫はええと頷いた。
「すごく……暖かいわ」
「さっきの絵とこの絵の間には10年くらい、何も描かなかった時代が
 あったんだって」
舞がそばにある説明パネルを要約する。
その10年の間に何があったのか――、

「人間って不思議ね」
薫は呟いた。こんなにも変化を起こせるということが不思議だ。

「ね、薫さん」
舞が周りの人には聞かれないようにそっと薫に囁きかける。
「?」
「私も、薫さんにはずっと暖かい絵を描いてもらいたいわ。
 あまり辛い絵を描くような気持ちにはなってほしくないの。
 もしそんな絵を描きたくなったら私が――」
力になるからと言われ、薫はふっと笑った。

「そうね、舞のそばにいたらあんな絵を描く気持ちにはならないかもしれない」
先程の舞と同じことを言ってしまったことに気づく。
舞もそれに気づいたようで、顔を見合わせて笑い合うと
再び手を握り合って会場の外に出た。

-完-

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