春の風は気持ちいい。
冬の間の冷たい北風を浴び続けた後に吹いてい来る暖かい南風は、
縮こまった身体を伸ばしてくれるような気がする。

春真っ盛りの4月、昼休みに日直の仕事を終えて職員室から
戻ってきた薫は舞が3年B組の教室のベランダで一人佇んでいるのに気づいた。
咲はソフト部のミーティングがあるという話だし、満は薫と同じく日直で
先生についてプリントの印刷を手伝っている。薫は自分が渡された分の
プリントをとりあえず全員の席に配ると、そっとベランダに出た。

驚かしてみよう、なんていう悪戯心が珍しく薫の胸に浮かぶ。
音を立てないようそっとベランダに繋がるガラス戸を開け、
後ろから舞に近づく。

「……ま」
声をかけようとして薫は口を噤んだ。
舞の目じりに光るものがあった。

「?」
薫の気配に気づいて舞は振り返る。振り返りながら軽く目を拭うのも
忘れてはいなかった。

「どうしたの? 薫さん」
「い、いや……何でもないけど」
「大丈夫? 何だかいつもと雰囲気が違うけど」
「大丈夫よ」
舞の表情はいつもと同じだ――目尻に涙の後が微かに残っていることを除けば。
薫は舞と同じようにベランダにもたれ花壇の菜の花を見ながら、舞にどう事情を
聞こうかと考える。

――泣いているってことは、何か悲しいことがあったってことだから……

どうにかしないと。そう思った薫に以前貰ったアドバイスが蘇る。
『励ますラピ。こういうときは、さりげなく話をして相談に乗るのがいいラピ』
――そうだ、こういうときはとにかく『さりげなく』しないといけない。

「あの……」
声をかけようとすると舞はきょとんとした表情で薫を見る。

「えーと、その」
――駄目だ、「どうして泣いてたの?」なんて聞いたらちっとも「さりげなく」
  にならない……

「薫さん? 何かやっぱりいつもと違う気がするけど」
舞が困っている薫に心配そうに尋ねる。
「そんなことはないわ」薫は首を振り、「その、……ここからは花壇がよく見えるのね」
「この教室は素敵な場所よね、多分中3の教室の中でも一番菜の花が綺麗に見える教室だと
 思うわ」
「そうね……」
さりげなく話はできたようだ。しかしここからどうやって先ほどの涙の件に
話を持っていけばいいのか。

「あの、それで、舞」
薫が話しかけると、チャイムが鳴り昼休みが終わってしまった。


――どうしよう。
5時間目の間、ちらちらと薫は横目を使って舞の様子を見ていた。
別に普段と取り立てて変わったところはなく、落ち着いて授業に参加している。
――でも、さっきのは確かに涙だった……

やはり、確認しておかなければならないだろう。
舞が人知れず何かに胸を痛めているとしたら――、何とかして力になりたい。
そのために自分ができることは何でもしたい。恐らく一番確実な方法は……、
薫は視線を教科書を立てて眠っている咲のほうに向け一つため息をついた。

「舞が泣いてた!?」
五時間目の終了後、舞がトイレに立つのを見た薫は舞の席に座って咲に
昼休みのことを話した。
驚いて大きな声を出す咲に薫が唇に手を当てて「静かにして」と言う。

「あ……ごめん」
「何か心当たりある?」
「うーん? 別に何も……」

「舞なら、朝もお昼食べてる時も普通の感じだと思ったけど」
横で聞いていた満が口を挟んだ。

「そうだよね、私もそう思う」
「でも、さっき舞は確かに……」
「薫が見た涙が勘違いってことはないの? 光の反射の関係とか」
薫は真剣な顔で満に首を振って見せた。

「それはありえないわ。だって、私が声をかけたとき舞は手で
 その涙を拭ったのよ。泣いてなかったらそんなことする必要ないじゃない」
「う〜ん、確かにねえ……」
咲は腕組みをする。
「でも、舞全然いつもと違うように見えないんだけど……」

「どうしたの? みんなで」
舞がトイレから戻ってきた。薫は慌てて席から立ち上がり舞に譲る。

「うーんと、あのさ、舞」咲が様子を窺うように舞に話しかける。
「?」
「あの、昼休み泣いてたって薫が言ってるんだけど本当? 何かあった?」
聞いていて薫は驚いた。ちっとも「さりげなく」ない。ストレート、単刀直入な
物言いだ。どきどきしながら舞の顔を見守る。と、舞は
「気がつかれちゃってたんだ」
と恥ずかしそうな表情を浮かべた。

「……それで、何かあったの?」
改めて薫が舞に尋ねる。舞の顔が赤みを増した。

「本当に、何でもないのよ。ただ、昨日読んだ小説のストーリーを
 思い出したら泣けてきちゃったの」
「あ、そうなんだ、良かった」
咲は納得したように笑顔を浮かべる。

「じゃあ舞に何かあったわけじゃないんだね」
「そうよ」
舞は机の横にかけてある鞄を探って文庫本を一冊取り出した。

「これなんだけど……」
咲も名前をしっているような有名な小説家の本だ。舞は三人の顔を見回して、
「薫さんも読んでみる?」
と手渡した。

「どうして、私に?」
「なんとなく興味がありそうだったから」
ごく自然に舞は答えた。舞に言われるままに薫はその本を受け取る。
十分休みは短い。もうチャイムが鳴ってしまった。


「ねえ薫〜」
二人で住む家で満は不満そうな声を漏らした。
学校から帰ってきてからと言うもの薫はずっと舞に借りた本を読んでいて、
満とまともに話そうとしない。
普段から薫は無口だが、こうも露骨に無視されると却って
邪魔したくもなるというものだ。

「そんなに面白い?」
床に座り、ベッドにもたれるようにして本を読んでいる薫に
満が尋ねる。反応がない。
満は薫と本の間に自分の顔を差し込むようにして、
「そんなに面白い?」
と再度尋ねる。
さすがに薫は満に目を向けた。

「この本自体が面白いと言うより――」
ゆっくりと薫は答える。
「この本のどこを読んで舞が泣いたのか、そっちの方が興味あるわ」
「へえ?」
満は意外そうに笑って目を細めた。

「まさか今になってまた『キュアイーグレット』の弱点を探ろうとでもいうの?」
頭を引いて姿勢を立て直しからかうと薫はむっとした表情で、
「そんなことではないわ」
「まあ、そうでしょうね……今になって薫にそんなこと始められても私が困るわ」
満は軽く笑った。薫はふんと口を結ぶとまた本に目を落とす。

「ところで、今日の食事は薫が作る番なんだけど? どうしてもって言うなら
 代わりに作ってもいいけど」
「……頼むわ」
本から目を上げずに答える薫の返事を聞いて満ははいはいと立ち上がる。

――ま、今日は何言っても駄目みたいだから。明日と明後日は薫に私の
  好きなものだけ作ってもらおう……

満がそんなことを思っているのに気づかずに薫は本を読み続けている。


翌日、学校に着くと薫は真っ直ぐに舞の席に向った。
舞は一足先に学校についていたらしく机の上に一時間目に使う教科書を並べている。

「舞、おはよう。これ」
昨日借りた本を返す。
「おはよう、早いわね。さすが薫さん」
舞は本を受け取ってから薫の顔を見て、
「薫さん?」
と不思議そうにする。薫の表情はどこか浮かない。

「どうかしたの?」
「その……」
言いよどみ視線を舞から外す。
「薫さん?」
何でも言って――そう伝えてくる舞の目に勇気付けられるように薫は口を開いた。

「良く、分からなかったわ」
「分からなかった? 何が?」
「舞がどうしてこの話を読んで泣いたのか」
「……?」
薫は更に説明を続ける。

「この話に出てくる人は、不幸な人生だとは思ったわ。
 それを乗り越えようとした努力は立派だと思う。でも、
 ……私はこの話で泣く気にはなれない」
「……それでいいんじゃない?」
深刻そうな薫の話を聞いた舞だったが、きょとんとした顔で
言葉を返す。

「私はこれを読んで泣きたくなったけど、受け止め方は人それぞれだもの」
「ちょっと……」
薫はベランダの方を指した。
あまり人に聞かれたくない話だから外に出ようと言うことだと舞は了解した。

「時々、自分がこの世界にまだ全然合っていないような気になることがあるの」
菜の花を見ながら薫は呟いた。
「合っていない? どういうこと?」
「満は――、満は、最初に緑の郷に来た時から他の人間たちとそれなりに
 上手くやってた。でも、私にそれはできなかった」
「う、うん」
実際のところ満もあまり人付き合いが上手とは思えなかったが……、
薫さんに比べれば上手かったかもしれないと舞は思いなおす。

「今でも、私には人間の感情や感覚が分かってないんじゃないかと思うことがある。
 『さりげなく』行動するとか、そういう曖昧な、感覚的な指示は苦手なの。
 でも人間だったらそういう曖昧な言葉で何となく大体のことを察して
 行動することができるんだと思うんだけど」
「うん」
「舞はあの本を読んで泣いたっていうけど……普通の人間だったら泣くものなの?」
真剣な顔で問い詰められ舞はちょっと考え込んだ上で
「そんなこと、ないと思う」
と答える。

「泣く人もいるし、泣かない人もいると思うわ。
 感じ方は人それぞれで、それでいいのよ」
「……そういうもの?」
「そういうものよ。絵だって、色々な絵があってみんなそれぞれ好きなものが違うもの。
 小説だって同じよ」
「ふうん……」
「それに、『さりげなく』が難しいのは薫さんだけじゃないわ。
 私だって良く分からないもの」
薫は安心したように息をつくとまたベランダにもたれて花壇に目を向けた。

「それに……薫さんの絵を見ていると、薫さんの感覚って素敵だと思うの。
 だから、そんなに気にすることないと思うわ」
聞いていた薫の顔に赤みが差す。この前舞と一緒に初めて絵を描いたばかりなのだ。

「またスケッチに行きましょう」
軽く背中に触れると、薫はまだ恥ずかしそうな表情のまま固まってしまっている。

「舞、薫、おっはよー!」
大分遅れて学校に着いた咲がベランダに飛び込んできた。

-完-

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