薫が熱中しているようなので舞はそのまま立ち去ろうと思った。
足音を立てないように後ろを向いたとき、「何か用?」と薫の声がした。

「ごめんなさい、邪魔しちゃって」
「別に邪魔じゃないわ」
薫は膝に乗せていたスケッチブックをひっくり返す。
学校の屋上に薫が一人で居るのは珍しかった。

「満さんは?」
「さっき、咲に呼ばれてどこかに行ったわ」
「そうなの」
「満に何か用事でもあるの」
「ううん、薫さんに」
「そう。それで、その用事っていうのは?」
「あの、薫さんがこの前見てみたいって言ってた画集、お母さんの部屋で
 やっと見つけたから――」
「あ……あの話」
「今日の放課後でも、良かったら」
「そうね、行かせてもらうわ」

話は数日前に遡る。
いつものようにPANPAKAパンで写生をしている舞が、一区切り終えるのを薫はじっと
待っていた。聞きたいことがあったのだ。

テーブルの上で熟睡しているコロネを描き終えたらしくふう、と息を吐いた舞に
薫は今、と思って話しかけた。

「聞きたいことがあるんだけど」
「あ、薫さん? なあに?」
薫がそこに居るとは知らなかった――というような表情を舞は浮かべる訳である。
舞がコロネの大体の形を描き終えた辺りから薫は舞の傍でじっと待っていたのだが。
話しかけても無駄なことが分かっていたから話しかけなかっただけである。

「この前も、この猫の絵を描いてたわよね」
「そうね」
舞はぱらぱらとスケッチブックをめくる。
もはや日記のようにスケッチブックには日々描いた絵が並んでいる。

「この前描いたのは、これね」
この時のコロネもやっぱり眠っている。キントレスキーが現れたときの怒っているような
コロネの姿を、舞はあれ以降、見たことがない。

「どうして同じものを何度も描くの」
「どうしてって?」
「この前も、昔のスケッチを見せてもらったような気がするけど。
 何枚も何枚も咲が描いてあったわよね……昨日も描いてたけど、咲の練習中」
「……見てたの」
「まあ、ねえ……すぐ後ろに立ってても全然気がつかないんだから」
「……えーと、その、それで聞きたいことって」
やや顔を赤らめ、舞は話を元に戻した。
「今聞いたじゃない。どうして同じものを何度も描くの?」

「えーっと、どうしてって……その」
「一度描いたら、後は同じじゃないの? そのもの自体は変わらないんだから。
 植物が成長していく様子を時間を追って記録する、とかそういうことなら分かるけど、 この猫にしろ、」
薫はまだぐっすりと眠っているコロネを指差した。

「咲にしろ、そんなに変化するものでもないでしょ。
 そのものを良く見て描いたのなら尚更、何枚も絵を描かなくてもいいんじゃない?」
「ええと……」
舞は持っていた鉛筆をくるくると動かした。薫は舞が言葉を考え出すのを辛抱強く待っている。

「その、コロネでも咲でも、変わると思うの。毎日」
「毎日? ……でも今日の咲も昨日と一緒で……」
咲はPANPAKAパンの庭に落ちた枯葉を集めている。この日は満も手伝っていた。
咲が抑えているちりとりに満が集めた枯葉を掃き入れる。ふと思いついたように、
「みーちーる!」
ちりとりに入れた葉を満の頭の上からかける。赤や黄色に染まった葉が満の上に舞い落ちた。

「もう、折角集めたのに!」
「あはは、ごめんごめん、でも何かきれいだよ、満」
「もうっ。次はちゃんとやってよね」

「相変わらずじゃない。多分、数ヶ月前と比較しても大して変わってないじゃない」
薫は冷静に咲を評した。
「うーん、そうかなあ? 私には、咲は毎日全然違って見えるけど」
「ふうん?」
良く分からない。そう思いながら薫は舞の話を聞く。

「同じものでも、日によって全然違って見えると思うの。
 それに、それをどう表現するかってことも人によって日によって、全然違うし」
「そういうものかしら?」
「うん、そうだと思うの。昔の有名な画家が書いた作品の中にも、風景や人物を描いているらしいんだけど、
 全然写実的ではないものもあるんだけど」
「写実的じゃない絵?」
「そう」
「例えばどんな?」
「えーっと、前画集を持ってたんだけどお母さんが持っていってまだ返して貰ってないから
 ――返してもらったら、薫さんに見せるわ」

「そう。ありがとう」
この約束を、今日実現しようと言うのである。


放課後、薫――と、満、咲は舞の家に寄った。舞が自分の部屋の本棚から一冊の分厚い本を
引っ張り出す。

「昔、親戚の伯父さんから貰ったの。私が絵を好きだって聞いたからって」
本は少し古いものだった。本来白かっただろう表紙がやや黄色がかっている。
「これはひょっとして、随分昔に買ったものなの?」
「伯父さんが学生の頃よく観てたんだって……」

西洋の絵画を中心とする芸術作品のうち、特に有名なものをピックアップした画集であるらしい。
壁画から始まり、エジプトの美術、ローマ時代の彫刻などがカラー写真で紹介されている。
中世に描かれた宗教画。ルネサンス。この頃までは人は人らしく、ものはものらしく描かれている。

怪しくなってくるのは近現代に入ってからである。たとえばマチス。たとえばピカソ。
モチーフとなっているのは具体的なものでありながら、絵に表現された形は少しも写実的でない。
この画集の編集者はピカソが好きであるらしく、ピカソだけは時代ごとの変遷も追っていた。

薫は黙って画集を見ていた。
「どうして、こんな風に描いたんだろうね」
咲が呟く。「こんな風に見えてたとか? まさかね」満が冗談めかして答えた。
「こんな風に、ひょっとしたら見えてたのかもしれないわ。
 あるいはこういう風に描いた方が自分の気持ちがより良く伝わると思ったか」
「ふうん……」
黙ってみていた薫がため息とも何ともつかない息を漏らした。
「こんな絵も、あるのね」
「そうね」舞が答える。
「絵の描き方に決まりなんてないって、前言ってたけど。本当みたいね」
「ええ、そう。見たまま感じたままを描きたいように描けばいいと思うの。
 そしてどんな風に見えるか、感じるかっていうのは日によって違うから――」
「だから舞は咲の絵を何枚も描くってことね」
「え? 何のこと?」
薫の言葉に咲は目を丸くした。咲は舞が今でもずっと自分の絵を描き続けている
ことを知らないのである。
「ええっと、その、あの、」
「なんでもないわ」
舞の代わりに薫が誤魔化す。満は写実的な絵の方が好きらしく、どんどんとページを戻し
絵を見ていた。


昼休み、薫は屋上に水彩の道具を持ち込んだ。描きたいのは空である。
緑の郷に広がる美しい空である。季節がいいこともあり、空はどこまでも高く見えた。
空の泉に広がっていた、どんよりと雲が垂れ込め二人を泉に押し込めているようにも見えた
空とは対照的である。薫はパレットの上で青い絵の具を混ぜ合わせた。

描きたいものを良く見る。そして、描きたいように描く。青、水色、黄色、白。
薫のパレットの上で何色もの色が踊った。
白いスケッチブックが青色に染まっていく。なかなか思ったような色にならない。
薫は首を捻り、色を何度も混ぜ直す。
お手本がほしい、とも思った。どうしたら上手く絵が描けるのか。
しかし舞は「自分の描きたいように」とだけ、いつも言う。
チャイムが鳴った。薫は気づかなかった。次は英語だ。そんなことも忘れていた。

満が薫を呼びにきた。
「薫、授業始まるわよ」
「ん……ああ……」
生返事。聞いているんだか、と思いながら満は薫に近寄った。
「きれいな空ね」
「うわ満っ!?」
薫は絵を隠そうとした。「隠すことないのに」満が言うと、「そうかもしれないけど」と
薫はぼそぼそと答える。

「それはいいけど、授業だから。篠原先生もう来てるわ」
「チャイム、鳴ってたのね」
どうしようこれ、と薫は自分の周りを見渡す。
「授業終わってから片付けに来れば?」「そうね」
薫はスケッチブックだけを教室に持って帰ることにした。
まだ乾いていないので服や壁を汚さないようにしながら。

「見せて」満が薫の前に手を差し出す。
「何を」
「絵よ」
薫は黙ってスケッチブックを渡した。満は描きかけの絵をしげしげと眺める。

「私好きよ、この空」
「……そう」
冷静さを装いながら、薫は嬉しかった。
「霧生、二人とも! チャイムが鳴ったらさっさと席に着く!」
B組の扉ががらりと開いて顔を出した篠原先生が階段を降りる二人に向かって
大声で怒鳴る。

「はいはーい!」
満は答え、薫の手を引いて階段を駆け下りた。

-完-

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