薫は一人で海岸に座っていた。体育座りになり、膝の上にはスケッチブックを広げている。
少し暗くなり始めた空に、海もまた暗い色を見せ始めている。ひょうたん岩もどこか寂しげだ。
無心に鉛筆を走らせながら、薫はぴくりと意識を動かす。外から見ている分には
誰も気づくことはないだろうが、わずかに自分の後方へと注意を逸らした。

――誰かいるわ……危険はなさそうだけど。

鉛筆を持つ手の動きは止めない。だが、後ろの人物への注意も忘れない。ダークフォールの
戦士として磨かれた薫の勘は衰えてはいないのだ。

誰かが近づいてくる。薫はまだ振り返らないことにした。
――距離が一メートルになったら。
そうしたら、振り返る。
薫が設定したラインに相手がだんだん近づいてくる。あと三歩……二歩……一歩。
ぱっと立ち上がると後ろの人は驚いたように立ち止まった。

「やあ、ごめんね。びっくりさせちゃった?」
「あ、舞の……」
後ろに立っていたのは舞の兄、和也だ。学校帰りらしく、制服を着て鞄を背負ったままである。
片手にブリックパックの牛乳を持っているのはいつも通りだ。

「ごめんごめん、そんなに驚くと思わなくて」
無言のまま薫が立っているのを驚いていると理解したらしく和也はもう一度繰り返した。

「あ……いえ、別に」
薫はスケッチブックを持ち直した。
「今日は一人? 霧生さんの……えっと、満さんは一緒じゃないの?」
「ええ。今日は満は咲と」
「へえ」
和也が二、三歩さらに近づいてきた。薫を見てちょっと笑う。
「絵、描いてていいよ。僕のこと気にしなくても」
「はあ……」
曖昧な返事をして薫は元のように座った。何となく落ち着かない。
絵を見られるのが嫌というわけではないのだが、どこか……。
そんな薫の様子に気づいたように和也は、
「ああ、ごめんごめん」と笑う。

「いつも舞が絵を描くの見てるから、見られてても気にならないように思っちゃってて」
「舞を?」
そそくさと立ち去ろうとしたようにも見えたが、薫の言葉が和也をそこに引き止める。

「あ……うん、子供の頃から見てるからね、舞が絵を描くのは」
「……舞は昔からあんなに集中してたんですか」
薫が初めて和也の言葉に興味を覚えたらしいので和也は薫の隣にどさりと座った。

「うん、僕が見る限りはね。舞があんな風に絵を描き始めたのは四、五
歳の頃だったと
 思うけど、その時にはもうすごく集中してたんだ」
「へえ……」
――四、五歳の頃……今のみのりちゃんよりも小さいくらい……。
その頃の舞が絵を描いている姿を思い浮かべてみる。

「一緒に絵を描くこともあったけど、僕はすぐ飽きちゃってね。絵を描くよりは
 本を読んだり牛乳飲んだりしている方が好きだったから」
――その頃、舞のお兄さんは八歳くらい……みのりちゃんと同じくらい。
思わず薫は和也のことをまじまじと見た。八歳くらいの和也と今の和也の姿を
繋げるのは難しい――「ん?」と和也が不思議そうな顔をする。

「どうかした?」
「いえ……何でも」
「霧生さんの絵はダイナミックなんだね」
ちらりと和也が薫の手元のスケッチブックに視線を送る。波に洗われるひょうたん岩を
描いた図は、ダイナミックと言えばダイナミックかもしれない。

「舞が見たら喜びそうだな、この絵」
「……よく、分かりますね」
「兄妹だからね」
和也は当たり前みたいにそう言って笑った。
「霧生さんたちも、お互いのこと良く知ってるんじゃないかな。それと同じだよ」
――まあ、知っているといえば知っているけれど……。
内心で薫は呟く。自分と満はずっと一緒にいたのだからお互いの事を誰よりも
良く知っているとは言える。
とは言っても、分からないことが多い……いや、最近はダークフォールにいた時よりも
満のことが分からなくなっているような……。

「……どうかした?」
突然黙り込んだ薫に和也が尋ねる。その目はやや心配そうだ。

「あの……」
「ん?」
何かをいいかけた薫の言葉を優しく待っている和也の顔はどこか舞に似ている。

「満のこと、最近良く分からなくて」
「……え?」
和也はきょとんとした顔をした。
「最近、私が絵を描いているとよくちょっかいを出してきて……昔はあまりそんなことなかったから」
昔、つまりダークフォールにいた頃は確かにそんなことはなかった。もっとも、自分が
絵を描くこともなかったのだが。薫が何かしていても無視しているか、薄笑いを浮かべて
いるだけだった。

「ふうん……?」
和也はわずかに空を見つめて考える。
薫はその返事を待ちながら、どうして舞のお兄さんにこんなことを聞く気になったのだろうと
ふと思った。

「ちょっと寂しいのかもしれないね」
和也はそんな薫の様子には気づかずに答えてにっこりと笑う。
「寂しい?」
「うん。確か、霧生さんは最近になって絵を描き始めたんじゃなかったっけ?」
「ええ、舞に教えてもらって」
「絵、描いてる時ってさ。描いている本人はどうか分からないけど、
 そばにいる方は置いてきぼりみたいな気持ちになったりもするんだよ」
「……そうなんですか」
和也はうんと頷いて苦笑いした。

「僕も、小さい頃は……本当は、僕が舞に絵を描くことを教えたんだよ。
 でも舞の方がずっと長い時間絵を描いてるから、僕は退屈になっちゃってね。
 色々、悪戯したりもしたんだけど。でも、舞はすごく集中してるから
 何しても気づかなくてね。つまらなくなって、結局舞が絵を描き終わるまで
 待つことにしたんだけど」
「へえ……」
正直、意外だった。和也が舞に悪戯をするところが想像できない。
それに気づかず絵を描き続ける舞のほうは簡単に思い浮かべることができるが。

「霧生さんの……満さんのほうもそんな感じかもしれないよ」
「……そうですか」
「そういえば、舞は?」
初めて気がついたように和也はきょろきょろと辺りを見回す。
「舞は、今日は早く家に帰って夕食を作るって……」
「あ、まずい!」
和也は慌てて立ち上がった。
「今日は僕も夕食手伝う約束してたんだった。じゃあ、驚かせてごめんね」
手を振ると飲み終わった牛乳パックを握りつぶすようにして走り去る。
ありがとうございましたと言おうとしたが追いつかず薫はその後ろ姿を
黙って見送った。長身の和也の影が小さくなっていく。

――舞のお兄さんが、悪戯……。
舞の家でアルバムを見せてもらったことがある。小さな頃の舞と並んで和也も
写っていたが、やはりあまり悪戯などしそうにはなかった。だれでもついつい悪戯したく
なってしまうのだろうか。

考えるのを止めて、薫はまた無心に鉛筆を動かし始めた。海の表情が先ほどと大分
変わってきている。少し悩みながらも何とか一枚の絵に仕立てようと苦心する。
数分後、薫の耳が何かの物音を捉えた。

――近づいてきている。

海を黒く塗りつぶしながら薫は相手との距離を把握する。まだそれほど近くはない――
脅威ではない。相手が飛び道具を使う気がないとすれば、だが。

大気を震わせる気配が薫の身体に触れた。
はじかれたように薫は立ち上がると手近の石を真後ろの人物に投げつける。

「あら?」
拳ほどの大きさの石は後ろにいた満の手に吸い込まれるようにして止まった。
満は軽く笑ってその石を足元に投げ捨てる。

「随分な挨拶じゃない、薫」
「……満が何かしてきそうだったから」
ふふ、と満は薄笑いを浮かべる。軽く薫をからかおうと手に力を込めていたのは確かだ。
薫に先制攻撃をされたのは満には予想外だったけれど……。

「何か用かしら?」
「別に。ただ、通りがかったら薫がここにいたから」
「……ふうん」
興味なさそうに薫は呟くと、また絵に取り掛かろうとした。満の目が一瞬輝く――薫は
視界の端にそれを見逃さなかった。

「何かしら?」
「何が? どうかした?」
きょとんとした表情を浮かべ満はとぼけて見せている。
普段どおりを装っているが、その表情はどこか期待に満ちていて、何かをしたくて
うずうずしているようだ。

――やっぱり、寂しいというよりは……
自分をからかうのが純粋に楽しいだけのように見える。自分と満の関係は、舞と和也の
関係とは違うのかもしれない。薫はそんな風に思った。

「ほら、早く絵を描いた方がいいんじゃない? だんだん暗くなってくるわよ」
「……」
しぶしぶ、薫は満に背を向けて座った。と、背中に重みがかかる。
満が自分と背中合わせに座ったのだと分かった。

「……満?」
「久しぶりにこういうのもいいじゃない?」
満の声は柔らかい。
ダークフォールにいた時のように背中に満の気配だけを感じながら、薫は手を動かし続けた。
満はぽつ、ぽつと見えるようになった星を数えている。

-完-

 ←押していただけると嬉しいです。



短編SS置き場へ戻る
indexへ戻る