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雪はいまだに降り続いていた。
ほたるがちびうさとの映画の約束の日に雪の中に倒れてから約一週間。
あの日以降小学校も高校も休みになっているので、
ほたるもせつなもずっと家にいる。
はるかとみちるも仕事の打ち合わせで一度か二度出かけたことがあるが、
基本的には家にいる。

こうして家に籠っているのはこの四人だけではない。
十番の住人――いや、関東圏の大抵の住人はこうして家に籠っているだろう。

時期外れの大雪のせいで大抵の学校は休みになった。
電車は本数を減らしてまだ動いているが、道路を通る車もずいぶん減っている。

ほたるは結局ちびうさと映画を観に行くことはできず、ずっと家にいた。
時折ちびうさと電話で話すこともあるがあとは家の中で遊んでいる。

「……っ……」
先日亜美に教えてもらって買った、チェスを使った一人遊びの本――チェス・プロブレムという、
詰将棋のチェス版のようなもの――を開けて次々に問題を解いていたほたるだったが、
身体の奥から何かがせりあがってくるような感覚に思わず本を取り落して
胸を抑えた。

――身体が……何か……変……
昨日から予感はあったのだ。身体に何か異変が起きているような。
ミストレス9が巣食っていたあの時とはまた違う不快な感覚。
肺の奥からこみあげるような咳が出た。激しい咳がほたるの身体を立て続けに襲った。

ほたるの呼吸は咳で乱れてはあはあと荒くなる。少しの間咳は収まっていたが、
また激しく出始めた。
椅子に座っていられなくなり、ほたるは床に落ちて四つん這いになりながら
咳き込みつづけた。
咳の合間に息をする。またすぐに咳が出てきて息苦しくなる。

「あ……はあっ……」
「ほたる!? どうした!?」
隣の部屋の様子がおかしいのに気づいたのかはるかが駆け込んできた。
ほたるは涙目になって咳き込んでいるしかできない。
「みちる! せつな! ほたるの様子がおかしいんだ、すぐ来てくれ!」
はるかは他の二人を呼ぶとほたるの背中をさする。
だがほたるの咳は止まらない。

――何か……起きてる、身体の中で!
ただの病気ではないとほたるは確信していた。自分の身体に異変が起きている。
肺が、肺だけではない、身体の中が溶けはじめているような。
それは馬鹿げた錯覚だとほたるは思おうとした。
そんなことなどあるはずがない。

「ほたるっ!」「ほたる!?」
みちるとせつなが飛びこんできた。
「さっきからずっと咳が止まらないんだ」
せつなははるかと場所を代わってほたるの背中をさすり始め、額に手を当てる。
「みちる、はるか、病院に連れて行く支度を。保険証とか。はるかは車の準備を」
「分かった」「分かったわ」
はるかとみちるは即座に部屋を飛び出していった。みちるはリビングへ、はるかはガレージへ。
タイヤへのチェーンの装着を済ませておいてよかったとはるかは思っていた。

「ほたる」
ほたるが高熱を出しているのは身体に触れていれば分かる。
せつなは左手でほたるの背中をさすりながら右腕で彼女の身体を抱きかかえた。
涙目のほたるが突然せつなの顔を真っ直ぐに見据えたかと思うと、その手の指をせつなの
指に絡ませ彼女の右手を握りしめる。その力の強さにせつなは当惑した。
「ほた……る……?」
ぴたりと彼女の咳がやんだ。
「病院なんて無駄よ」
これまで苦しんでいたのが嘘のようにほたるはすっと立ち上がった。
左手でせつなの手を痛いくらいの強さで握ったまま。

――ほたる? 違う……
ほたるに引き上げられるようにして立ち上がって、せつなは確信した。
この眼はほたるの眼ではない。
サターンの眼、それも、今のほたるが変身するサターンではなく。

「あなたは、まさか……ファラオ90を消滅させたサターンですか?」
目の前の少女はふっと笑った。
「そうよ。セーラープルート。久しぶりね」

はるかとみちるは準備ができたことをせつなに告げようと部屋の前まで戻ってきていたが、
様子がおかしいことに気づいて部屋には入らずに開け放した扉の向こうから
二人のことを見ていた。

「あなたは、あの時異次元へと封印されたはずでは」
「そうね、あなたの冥空封印は完璧だった。心配しなくていいわ、封印に穴が開いたわけではないから。
 死んだ者の魂は時間軸の制限も空間軸の制限も受けない。あなたも知っているでしょう、 実体験として」
知ってはいる。せつなは頷いて、
「つまりあなたは、今は死んで……?」
「ほたるが転生した時点で死んでるわ。今さら驚くことでもない」
それは確かにその通りだ。
「ではあなたは、何故今、ここに?」
「あなた達に一つだけ教えようと思って。転生の時、この子の記憶から大事なことが
 一つ抜けたみたいだから。ネプチューン、ウラヌス。入ってきて」
サターンは扉の方にちらりと目を動かした。はるかとみちるが入ってくる。
「土星の守護を受ける戦士には運命がある」
サターンは静かに話し始めた。
「みんな短命だということよ。たとえ破滅の力を使わなくても。
 前のほたるのように不慮の事故に遭わなくても。
 子供のうちに死んでしまうことに変わりはないわ」
せつなとみちる、はるかが息を飲んだ。
「なぜ? なぜなの?」
サターンはみちるを見た。
「セーラーサターンはその内部に破滅の力を持っているものよ。
 サターンの身体は常に内部からその力に侵食されているけれど、
 高い再生能力ですぐに治癒させることで自分の身体を維持している」
三人には心当たりがあった。確かにほたるには高い再生能力がある。
簡単な怪我ならすぐに治ってしまう。

「でも、再生能力は年と共に衰えていく。そうなればサターンは自らの破滅の力によって
 内側から滅びていく。この子も、」
サターンは自分の――ほたるの――右手を見た。
「もう時間よ」
「なにか、なにか対策はないのか?」
「ないわ」
サターンははるかの問いを一蹴した。
「対策できるようなことなら運命なんて言い方はしない。
 私はあなたたちがあまりに人間臭くみっともなく狼狽えて
 無駄なことをしようとしているから教えに来ただけよ」
せつなの手を掴んでいたサターンの左手から力が抜けた。同時に、ほたるの身体ががくりと
床に倒れようとする。
「ほたる!」
はるかとせつなが慌ててほたるの身体を支えた。
ほたるが薄く眼を開く。ああ、ほたるの眼だ、と三人は思った。
彼女はまた激しく咳き込んだ。
三人は病院に連れて行こうという気をなくしていた。死んだサターンがわざわざ伝えに来たことに
間違いがあるとは思えない。

「ほたる。……ゆっくり休んでろ」
はるかはそれだけを言った。さきほどの会話をほたるが聞いていないといいと思いながら。
「私、もう、終わり、なのね」
咳の合間合間に、途切れ途切れにほたるは言った。聞いていたか、と三人は愕然とした。

「終わりじゃないわ」
みちるがそう答えていた。何かを考える前にそう答えていた。
せつながみちるにちらりと視線を送る。
「だって」
「いいから。とにかく、休んでろ」
はるかはほたるの身体を抱え上げるとそのままベッドへと運んで寝かせた。
「……咳止めと解熱剤をもってくるわ」
せつなはそう言って部屋から出る。対症療法にすぎなくても、ほたるが楽になるなら
それでよかった。

人間界の薬でも多少は効くのか、咳が止まって楽になったらしいほたるは
疲れていたのかうとうととし始めた。
三人はほたるの部屋を出ていつものようにリビングに集まる。
ソファに座るその顔は一様に沈み込んでいた。

「みちる」
口火を切ったのはせつな。
「さっき『終わりじゃない』と言ったのはなぜ? 気休め? それとも何か」
「……分からないわ」
みちるは頭を振る。
「そんな気がしたのよ。でも、ただの願望かも知れない。自分でも分からないの」
「……そう」
もしもみちるの勘が「終わりではない」と告げているならそれは希望が持てるという
ことではないかと思ったのだが、それは分からないようだ。

「せつな」
うつむいていたはるかが顔を上げた。
「たとえば、君の力で。ほたるからサターンの力だけ切り離して
 冥空封印することはできないかな?」
「え?」
「そうすればほたるは生きられる」
せつなは少し考えてみたものの、
「どう考えてもできないわ。そんな器用なこと」
「……それならプリンセスに頼んでほたるのセーラーサターンとしての使命を
 解いてもらう……とか……」
「それこそ、できるの?」
みちるが尋ねる。
「分からない。でも、ほたるとサターンを切り離すしか……」

「やめて!」
「ほたる!?」
突然のほたるの声に三人は驚いて扉の辺りを見た。いつの間にか扉を開けて
ほたるがそこに立っていた。
薬の効果が長くはないのか、熱っぽいうるんだ目をしてたまに咳をする。

「ほたる、起きてきて大丈夫なのか」
はるかが慌てて駆け寄るが、
「やめて」
とほたるに拒絶されて思わず立ち止まった。
「やめてって、何を」
「私からサターンを切り離すなんて考えないで!」
「でも、ほたる」
「いや! いやよ! 絶対いや!」
ほたるは半狂乱になって頭を振る。せつなとみちるも、とにかく落ち着きなさいと
宥めながらほたるへと近づいていった。だがほたるは収まらない。
「戦士じゃなくなるなんて絶対いや! それくらいなら死んだ方がまし……
 それならいっそ私を殺してよ!」
「ほたる?」
「殺してよ! あの時みたいに、サターンが目覚めようとした時みたいに、
 切り離そうなんて考えないで私ごと殺してしまえばいいじゃない!」
ほたるの言葉に三人は鈍器で殴られたような気持ちになった。
「ほたるっ!!」
三人が思わず声をあげる。
「だって……」
とほたるは泣きそうな顔になったが、突然咳き込み始めてしゃがみこんだかと思うと
床に倒れた。

「ほたる……」
三人が声をかけるが、ほたるは目を開かない。眠っているというよりは意識を失っていると
言った方が当たっているような……、
「僕が部屋まで運ぶよ」
はるかはほたるの身体を抱き上げた。

ほたるの部屋は電気が消えて真っ暗なままだった。はるかはほたるの身体を
ベッドに横たえると、布団をかけてやる。
「ごめんな、ほたる」
布団越しにそっとほたるに手を添える。

何に謝ったのか、はるかにも分からない。昔殺そうとしたことか、
今、ほたるに戦士をやめさせようと考えたことか。
いずれにしても、はるかは何時だってほたるの希望に反することをしようとしている気がした。

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