みちるがいないのに気づくのと目が覚めるのとは同時だった。
海王洲に建つコンドミニアムの一室、海王みちるの部屋。
二人で寝てもおつりがくるほどの広いベッドではるかはみちると
一緒に眠りに落ちたのだが、目が覚めてみるとみちるは既にベッドから抜け出していた。

「みちる?」
窓から日の光が薄く入ってきて寝室の中を照らしている。
室内にみちるの気配はない。

――どこにいったかな……

昨夜脱ぎ捨てた服を着てから、はるかは部屋を出てみちるを探す。
一人で暮らしていた部屋の割に、部屋数は多い。
――こんなところで本気でかくれんぼでもしたら大変な騒ぎになるな。
呑気にそんなことを思いながら、一部屋一部屋開けていく。

ダイニングには、いない。
書庫にも、いない。
洗面所にも、いない。

はるかが次に開けた部屋は海王みちるならではの部屋といっても良かった。
防音を施された部屋。この中でなら思う存分楽器を弾いていたとしても、
外に音が漏れることはない。

はるかが防音室の扉を開けると、はたしてみちるはそこにいた。
長衣を思わせるゆったりとしたワンピースを着て、バイオリンで奏でるのはフォーレの「夢のあとに」。
はるかは部屋の中に入って扉を閉めると、壁に寄りかかって目を閉じ
演奏に耳を傾けた。
弦楽器の音はのびやかに部屋の中に広がっている。目を閉じて聞いていると
まるで音が自分を包み込んでいるような錯覚に襲われる。

コンサートの時にみちるが演奏する会場のように、音の響きや伝わり方にまで
計算して作られた部屋ではない。音を吸収することだけに集中して設計されたような部屋だ。
演奏を聞くのに決していい環境ではないはずなのに、はるかにはなぜか、
今日の曲がこれまでみちるのコンサートで聞いてきたどの曲よりも美しく聞こえた。
みちるほど耳が肥えているわけでなし、自分のそんな評価など当てにならないことは良く知っていたけれど。

やがて、演奏は終わりの時を迎える。
はるかが拍手を送ると、みちるは艶然と微笑んで大げさなお辞儀を一つした。

「練習?」
部屋の隅に置いてあるテーブルの上のバイオリンケースにバイオリンをしまう
みちるにはるかが声をかけると、
「今朝は寝覚めが良くて気分がすっきりしていたから」
「昨日泊まった相手が良かったからじゃないか」
はるかの軽口にみちるはくすりと笑う。
「どうかしら」

「マリン・カテドラル――だっけ? このバイオリンの名前」
みちるとこうして知り合う以前に、何かの雑誌の記事でこの楽器の名前を読んだ
記憶がある。海王みちるがついにバイオリンの名器を購入したとか、そんな記事だった。
「ええ、そうよ。ストラディバリウスなの」
愛おしそうにみちるはケースの中のバイオリンを見つめた。

ストラディバリウス――といえば、多くの人がその名を知っているだろう。
イタリアの名工、アントニオ・ストラディバリが製作した弦楽器である。
その優れた音色を響かせることができるのは、それだけの価値があると認められた
人間に限られる。

「これは1700年ごろ作られたものなのよ」
みちるの言葉にはるかは軽く口の端をつりあげた。
「300年も待っていたのか、みちるの物になるのを」
まるでバイオリンをからかうようにそう言うと、みちるは簡単にそれを否定する。
「私の物になったわけじゃないわ」
「え?」
はるかは意外そうにみちるに目を向ける。
「これは、あくまで私が預かっているだけよ。私の前にもしかるべき人が
 このバイオリンを弾いていたし、私がこの子を手放さなくてはいけなくなったときには
 ――その時は、相応しい人の手に渡るはずよ」
「ふうん……」
そういうものか、とはるかは思う。バイオリンは息が長い。数百年という単位で生きていれば、
主人が何人も代わっていくのも当然のことである。

「バイオリンって、年月が経つと、少しずつ音色も変わっていくと言われているの」
「うん」
みちるは上機嫌だった。ケースをとじる彼女を見ながら、はるかはその話を邪魔しないように
相槌を打っていた。

「だから、この子の今のこの音色を引き出せるのは私だけ」
みちるはどこか誇らしげだ。はるかは笑って、肩をすくめた。
「独り占めかい。贅沢だな」
「ええ、そうよ。――もっとも、」
みちるは笑うはるかを見る。

「今日ここで、この音色を独りで聞いていたあなたも相当贅沢だと思うけど」
それは、そうだ。はるかは答え、わざと真面目な顔を作ってみせる。
「その贅沢の代償を払った方がいいのかい?」
「そうね、数百年分の何かで」
「ガソリン数百年分とか?」
「いらないわ」
きっぱり断られ、はるかは苦笑した。

「考えとくよ。何がいいか」
「楽しみにしてるわ。――朝食にしましょうか。準備はしてあるの」
「ああ――、」
そうしようか、と言いかけてはるかは自分がまだ寝間着姿のままであることに気が付いた。

「先に着替えてくるよ。確かこの前泊まった時の服が――」
「寝室のクローゼットに入れてあるわ」
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
また後で、と手を振ってはるかは部屋を出ていく。防音室に一人残されたみちるは
バイオリンのケースを手に持ち、顔に微笑を浮かべた。

――数百年分の何かなんて、
さきほど自分の言った言葉を反芻する。

――はるかからはもう貰っているのに……
渡している本人がそれに気が付いていないのがみちるには滑稽だった。


-完-

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