ほのかが思っていたよりもずっと早くに、祈里はほのかの家にやって来た。

「こんにちは、ほのかさん!」
まるで駅から走ってきたとでもいうように息を切らして、祈里は雪城家の玄関前に
立っていた。

「いらっしゃい、祈里さん」
ほのかは柔和な笑顔で出迎えると、さ、あがってと案内する。
昨夜の祈里からの電話で、彼女がここに来たいという理由は聞いていた。
彼女を迎えるための準備もしてある。
ただ今、こうして実際に祈里の様子を目の当たりにすると彼女が
確かに切実なものを抱えてここに来たのだということがほのかにも
はっきりと理解できた。

 * * *

祈里が、ラブ、美希と一緒にこの日三人で若葉台を訪れた理由は美希の仕事である。
読者モデルとして活動している美希は、日ごろから様々な場所で撮影を行っている。
今回は若葉台にある公園で撮影ということになった。
撮影は午後2時くらいに終了し、後は自由にしていい――もちろん、その時点で
帰宅したり別の仕事に向かったりしてもいい――ことになっている。

撮影場所が若葉台、ということになれば、

「この日、あたし折角だからなぎささん達に会ってくる」
と美希が言い出すのも当然だったし、
「えー! だったら私も行く!」
とラブが言い出すのも当然だった。
ということで、祈里も一緒に三人は若葉台を訪れたのである。

 * * *
 
とはいえ、雪城家を訪れたのは祈里一人だ。ラブと美希はロケ地の公園に
直行している。もちろん後で合流する約束をしているので、
祈里が一人寄り道をしている格好だ。なぎさとひかりは公園の方に行っているらしい。

「こっちへ」
ほのかに案内され、祈里は家の奥へと進む。
縁側に出ると、ほのかが昨日飾った風鈴が風に揺られてちりんと涼やかな音を立てた。

「忠太郎、おいで」
ほのかが庭に声をかけると、愛犬の忠太郎が跳ねるように縁側へとやってくる。

その姿に祈里はじわりと目に涙を浮かべた。
「忠太郎ちゃん……」
祈里はそうつぶやくと、縁側に手をかけた忠太郎の肩のあたりを優しくなでる。
忠太郎もその撫で方が気に入ったらしく、しっぽをぱたぱたと振って祈里に答えた。
ほのかはそんな祈里の様子を見ていて、

――本当に、祈里さん落ち込んでいるのね……
と思っていた。

昨晩、ほのかにかかってきた祈里からの電話は唐突だった。ラブ達三人が若葉台に
来るという話はその前に聞いていたが、昨日の祈里からの電話は
そうした楽しさとは無縁の深刻さに満ち満ちていた。

”ほのかさん、実は明日お願いがあるんです”
”えっ、何かしら”
”明日、美希ちゃんは公園での撮影なんですけど。私、ほのかさんの家に行きたいんです”
ほのかは祈里の口調から、この話は冗談でもなんでもなく真摯な相談だと受け止めていた。
”……どうして?”
”忠太郎ちゃんに、会いたいんです”
”……どうして?”
あまり質問攻めにしても悪いかと思いながらも、ほのかは質問せずにいられなかった。

受話器の向こうの祈里は一度大きく深呼吸をしたようで、覚悟を決めて話し始めた。

”……実は、うちの病院でずっと診ていた犬が死んだんです。この前。ご家族の方が
 話してくれて”
”……そうなの”
”私、その犬のこと小さな時からずっと見てて……でも最近は会えてなくて。
 その犬、忠太郎ちゃんによく似てたんです。だから何だか、忠太郎ちゃんに会いたくて”
”そう。そういうことならぜひ会いに来て”
”ありがとうございます!”
というわけで、今日祈里は一人で雪城家を訪れたのだ。


昨晩の電話での会話で、ほのかには祈里の気持ちが分かったわけではなかった。
ただ、とても深刻なことは伝わってきたので忠太郎が何かの助けになればと思って
答えただけだ。こうして目の前で祈里を見ていると、祈里がこれまで抱えていた
悲しみが伝わってくるような気がする。

「祈里さん」
ほのかは忠太郎を撫でている祈里の背中にそっと手を添えた。

「その犬のこと、本当に好きだったのね」
祈里は涙が今にもこぼれそうな目をほのかに向けた。
「小さなころから……本当に小さなころから、病院で見ていた犬だったんです。
 たまにお散歩の途中に会ったりして……」
うん、うん、と言いながらほのかは祈里の背中を優しく撫でた。

「ペットはそれぞれのお家で死ぬことが多いから、獣医はあまり死ぬところは見ないんです。
 今回も、私は見てなくて……最近学校が忙しくて病院の方も手伝っていなかったから、
 最後に病院に来た時にも会っていないんです。だからなんか、まだ信じられなくて、
 ……でもこの前、夢に出てきたんです。その犬が。元気だよーって。私夢の中で、
 死んだなんて嘘だったって思ってたんです。本気で。でも、起きたらやっぱり現実は
 変わっていなくて。それで、余計寂しくなって」
 
「そう。それは……辛いわね……」
ほのかの静かな相槌に祈里は涙を拭って、

「本当はこんなんじゃいけないんですけど」
と答える。
「どうして?」
「動物病院って、やっぱり病院だから死ぬ動物もそれなりにいるんです。
 いくら小さい頃から見ている犬だからっていっても、こんな風に落ち込んでたら
 他の動物の診察に差し支えてしまうので。……」
「それは違うと思う」
即答したほのかに、祈里はえ? と目を向けた。

「祈里さんが今、本当に動物病院の先生だったらそういうこともあるのかもしれないけれど。
 今はまだ、お手伝いでしょう? それに、悲しい時にちゃんと悲しんであげられる
 人の方がきっといい獣医さんになれるような気がするわ」
「そうでしょうか?」
「……ええ、きっと」
お茶入れてくるわね、ほのかはそう言って立ち上がった。


ガラス製の湯呑に氷を入れて、冷蔵庫で冷やしていた麦茶を注ぐ。
夏に飲むお茶はこれが一番いい。

「祈里さん、置いておくわね」
ほのかは縁側にそっと湯呑を置くと、静かに自分の部屋に戻った。


動物には不思議な力がある。ほのかも、そのことをよく知っている。
動物は人間の言葉を話すことができないが――いや、話すことができないからこそ、
動物と一緒にいると慰められることがある。
人間から下手に慰めの言葉をかけられるよりも、動物が無言でそばにいてくれる方が
ずっと心が落ち着くということはあるものだ。

――祈里さんがちゃんと落ち込めるといいけど。
参考書を開きながらほのかはそう思った。悲しいことがあった時には、
一度しっかり落ち込んだ方がいい。気持ちを抑え込んでしまうよりも、
しっかり落ち込んだ方が結果的には回復が早い。
忠太郎がそれにつきあってくれることがほのかには嬉しかった。


「ほのかさん、ありがとうございました」
参考書の一章分をほのかが読み終えるころ、縁側から祈里がほのかの部屋にやって来た。
「もう大丈夫?」
「ええ。忠太郎ちゃんと一緒にいたら、何だか落ち着きました。あの、そろそろ
 公園に行きませんか?」
そうね――と、ほのかは時計を見る。美希の撮影がもう少ししたら
終わるくらいの頃あいだ。

「ねえ、祈里さん。もしよかったら、その犬の写真か何か見せてくれない?
 忠太郎に似てるんでしょう?」
「あ、はい。ここに」
祈里はリンクルンを取り出すと、その中に保存してある写真をほのかに見せた。

「え。……えーっ!?」
ほのかは思わず大きな声を上げた。そこに写っているのは忠太郎とはちっとも似ていない、
小型のダックスフントだったのである。

「い、祈里さん忠太郎に似てるってこの子……」
「目を見てください! すごく似てるでしょう!?」
「う、う〜ん? ……」
そうかしら、とほのかが思っていると、
「もう、町で見かける色々な犬がどれもみんなこの子に似ているところがあって
 犬を見かけるたびに気になるんです。でも、一番目が似ているのは忠太郎ちゃんだと
 思うんですけど」
「そうなの……それは、大変ね……」
祈里はこれからもしばらくは今回死んだ犬のことで落ち着かない日々を過ごしそうだと
ほのかは思った。

-完-


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