なんとなくアコが不機嫌だ、ということを奏太は今朝会った直後から感じていた。
ノイズと分かり合えて数週間。転校してきてからずっとむっつりしていたアコも、
最近は笑顔が増えクラスメイトとの会話も増えている。
だが今朝はまるで少し前のアコのようだ。

「アコー、何かあったのかよ」
「別に」
そっけなく答える声は今ではもう懐かしささえ覚えるほどだ。
奏太はアコの少し前に出たり隣に並んだりしながら、アコの様子を伺う。

「分かった、音吉さんに怒られたんだろ!」
坂道を登りながらそう決めつけてみると、「はあ!?」とアコはあきれ果てたような
声を上げた。
「……違うのか?」
「あんたじゃあるまいし」
そう答えてアコはそっぽを向く。
「え〜、じゃあ何なんだよ」
奏太がアコの前に回り込んでちらっと顔を見ると、
「エレンが甘いのよ」
とだけアコは答えた。
「エレン姉ちゃん?」
意外な答えに奏太はきょとんとした表情を浮かべた。

黒川エレン――夏頃、アリア学園に転校してきた転校生である。と、奏太は思っている。
奏太の姉の奏や、その幼馴染の北条響と同じクラスで最近はよく一緒にいる。
調べの館にいることが多く、アコとも最近よく話しているそうだ。

「エレン姉ちゃんが甘いの? 誰に?」
「私に」
アコは短く答える。
「甘いんならいいだろ。姉ちゃんなんか俺のこと全然甘やかしてくれないぞ」
「それはあんたが悪戯ばっかりしてるからよ」
アコは表情は相変わらずむっつりしているものの、口数はだいぶ増えてきた。

「で、エレン姉ちゃんがどうしたんだよ」
奏太が重ねて聞くと、アコはゆっくりと経緯を話し始めた。

 * * *

前日の夜のことである。アコは音吉さんと食べようと夕食にカレーを作ったのだが、
大量に作りすぎてしまったことにできてから気が付いた。何日かはカレーを食べ続ける
つもりではあったのだが、流石に多すぎる――ということで、エレンに連絡して
夕食を食べに来てもらった。

やって来たエレンは最初は遠慮しているようだったが、いざ食事となると
美味しい美味しいと喜んでカレーを食べたのだ。


「……何も問題ないぞ、それ」
話をここまで聞いた奏太が呟くと、「ここから後よ」と言ってアコは更に話をつづけた。


一度カレーを食べ終わったものの、アコがよそったカレーは少し少なめだったので
エレンもアコもお代わりをした。二人とも自分の皿を持って台所に向かい――そこで、事件は起きた。
ほんの少しよそ見をしていたアコが、どんとエレンにぶつかってしまったのだ。
手にはカレーをよそった皿を持ったまま。つまり、エレンの服にカレーが
べったりとついてしまう格好になったわけだ。
「ご、ごめん、エレン!」
アコは慌てて自分の皿を流しに置くと、どうしようと慌てた。
「いいわよ、アコ。大丈夫」
とエレンは鷹揚に笑う。どうした、と音吉さんも台所に顔を出して状況を把握すると、
「アコ。気をつけないといかんぞ」
と注意しながらエレンの皿をまず取り、タオルでエレンの服についたカレーを
ふき取った。

「汚れ自体は落ちんなあ。アコ。響に電話して事情を話して、
 何かエレンの着替えになりそうな服を持ってきてもらいなさい。
 エレン、悪かったな。服はうちで洗って返すからな」
「そんな、大丈夫ですよ。このまま帰りますから」
「駄目よ、そういうわけにはいかないわ!」
響との電話を終えたアコがまた台所に戻ってくる。

「アコ、ここから調べの館までほんのちょっとなんだしもう外も暗くなってきたし」
エレンの言葉にアコは、
「駄目よ。こんなにべっとり茶色くなってるんだもの」
と言い募る。
「アコ、もう一度ちゃんと謝りなさい」
音吉さんに促されてアコは自分がまともに謝っていないことに気づくと、
「ごめんなさい」
と謝る。

「アコ、本当にもういいの。こんなこと大したことじゃないから。
 ぶつかったのは私が悪かったんだし」
とエレンが答えているうちに、響が来た。それでエレンは、響が持ってきた
Tシャツとパーカーに着替えることができたのだ。なお、響へのお礼で
カレーを食べてもらったらほとんどなくなってしまった。

 * * *

「ふうん。……アコは、エレンにもっとがんがん怒られたかったの?」
顛末を聞いた奏太はそう尋ねる。
「そういうわけじゃないけど。あんまり甘やかされると教育にわるいじゃない」
「誰の教育?」
「私の」
アコってこういうところ変わってるよなと奏太は思う。
甘やかされているからと自分の教育を心配する小学生はそうはいない。

「じゃあ今度、アコに姉ちゃん貸してやるよ。姉ちゃん厳しいからな〜教育的指導が」
「あんたの日頃の態度の問題でしょ」
学校に着いた。二人はそれぞれの下駄箱で靴を履き替えると校舎の中へと吸い込まれていった。

 * * *

その日の放課後。アコは、昨日シミを抜いてから洗って今朝干したエレンの服が
乾いているのを見てアイロンをかけると、畳んでから中学校が終わる時間を待った。
中学が終わった時間を見計らってしばらくしてからエレンの服を入れた袋を持ち、
玄関を一歩出る。
と、奏が家に近づいてくるのが見えた。

「良かった、間に合った。エレンのところに行くんでしょ?」
「響とエレンに聞いたの? 昨日のこと」
アコは奏から目を逸らしながら尋ねた。
「そうね、あと奏太からも」
余計なことを、とアコは思う。この姉弟は仲が悪いようで良いから困る。

アコは奏と並んでエレンの家に向けて歩き始める。
「エレン、そんなにアコのこと甘やかしてる?」
「カレーだけじゃないのよ。この前うちにご飯に呼んだ時も――」
「エレンのこと結構ご飯に呼んでるのね?」
奏がアコに視線を向けると、アコは「エレンは一人暮らしだから、
誰かと一緒に食べたい時あるでしょ?」と当たり前のように答える。

「うん、それで?」
「たまたまテーブルの上に私が学校で描いた絵が置いてあったんだけど。
 エレンそれ見て激賞と言うかなんというか……そんなに上手い絵じゃないのに」
思い出すのも恥ずかしい、というようにアコは俯く。

「ふうう〜ん」
奏の意味ありげな相槌にアコはがばりと顔を上げると、
「何その言い方」
と言い返す。

奏はふふっと笑って、
「ねえアコ、私思うんだけど。エレンって結構世話を焼きたがるタイプなんじゃない?」
「え?」
アコはきょとんとした表情を浮かべた。
「ハミィにたまに昔の話聞くけど、セイレーンがハミィと一緒に歌の練習してたのって、
 セイレーン自身も誰かに何かを教えたりアドバイスしたりするのが好きだったから、
 てことなんじゃないかと思うのよね。お姉さんタイプというか……」
「そうかなあ」
アコは首を捻った。

「セイレーンだった頃は仲のいい相手も少なかったみたいだから、表に出てなかったんじゃないかしら。
 私や響が相手だと、世話を焼くって感じでもないし。でも、今はアコちゃんがいるから、
 思いっきり世話を焼きたい気分なんじゃない?」
「そうは言っても、注意するところはちゃんと注意してくれないと困るわ。
 世話を焼くってそういうことでしょ」
声には出さず、奏は笑う。奏太から聞いた通りだ。こういうのはストイックと言うのだろうか。

「だったら、エレンにそう言った方がいいんじゃない?」
アコはこくんと頷いた。


二人は調べの館に着くと、エレンの部屋の窓の下からエレンを呼ぶ。
エレンは二人が来たのに驚いたようだったがすぐに出てきた。

「エレン、はいこれ。昨日の」
アコが袋を渡すと、エレンは受け取り中を見て
「わざわざ持ってこなくても良かったのに」
とアコに笑顔を向けた。
「私が持ってきたかったの。……昨日はごめんなさい」
エレンは苦笑した。
「本当に、気にしないで。大したことじゃないもの」
「大したことでしょう!?」
アコが突然叫ぶように言ったのでエレンも奏も驚いた。

「だって、これエレンがよく着てるお気に入りじゃない。
 あんな風に汚されたら、怒って当然でしょう!?」
あああ、と奏は思った。やっと分かった。アコは別に、自分への教育効果だけを
考えて「エレンは甘い」と言っていたわけではないのだ。
大切なものを汚されたのに、エレンが怒りもしないことが不審だったのだ。

「アコ」
エレンは苦笑した。
「それは確かにお気に入りだけど、アコはわざとぶつかったわけじゃないし」
「でも」
アコは更に何かを言おうとして、「……もういい」と言った。
「アコ?」
突然むくれたように見えるアコにエレンは慌てる。

はいはいはい、と仕切り直すように奏は手を叩いた。
「アコ、悪いところはちゃんと悪いって注意してほしいんでしょ? エレンにちゃんと
 言わないと。……それと、もう一つ。エレンにちゃんと、自分自身のことを大切にして
 ほしいんでしょ?」
アコはうっと詰まった。ちゃんと注意してほしい、のところはともかく、後半部分は
自分でもはっきりとは意識していないことだったから。

「ええ?」
エレンは困惑した笑みをアコと奏に向ける。アコは開き直ったように真っすぐエレンを見た。
「そうよ、エレンは私が悪い時はちゃんと注意して。それと、自分や自分の大切なものが
 被害を受けたらちゃんと怒って」
「分かりました」
エレンはアコの言葉を一旦受け取ると、
「カレーのお皿を持っている時はよそ見しないようにしてね」
と一応注意する。それと、とエレンは付け加えた。

「私の本当に大切なものが傷つけられたらちゃんと怒るから心配はいらないわ、アコ」
優しい目でアコを見ながらエレンは言う。「本当に?」とアコが尋ねると、
「ええ、もちろん」
とエレンは即答した。ふうんとアコは呟き、「ならいいわ」と答えると、
「じゃあね、エレン、奏」
と手を振って家へと帰っていく。奏はそこに立ったまま、小さくなっていくアコの
後ろ姿を見送った。

「分かってるのかしらね、アコ。エレンの『本当に大切なもの』に自分が入ってるって」
「アコはそんなこと知る必要ないわ」
エレンはそう言ってから奏をまじまじと見ると、
「ちなみにハミィと響と奏も入ってるから」
と付け加える。
「ん、ありがとう知ってる」
奏はそう答えると、「じゃあ、また明日ね」と言って家へと向かう。
エレンも手を振ってから、アコに渡された袋をきゅっと抱きしめると
自分の部屋へと戻っていった。

-完-

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