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 満のところに戻りたいか。そう聞かれれば、薫はうんと答えるに決まっている。しかし、
満のところに戻れるかと聞かれた場合には――薄闇の中で薫は目を開いた。この空間には
風がない。光はわずかに入り込んでくる。が、それも水を通した光でゆらゆらと頼りなく
蠢いている。腕をわずかに動かし、いつものように自分の腰の辺りに抱きつくようにして
眠っている仔狸を確認すると薫はふっと息をついた。この子との付き合いももう随分に
なる。――何日、とは言えない。昼と夜の境が判然としない日も多いからだ。

「ん……薫お姉さん?」
 仔狸が目をこすりこすり起きて来た。
「まだ眠いんでしょう? 眠れるなら寝てなさい、みのりちゃん」
「うん……」
 みのりはまた目を閉じて眠りに落ちた。昔の夢でも見ているのだろうか、どこか
嬉しそうな顔で眠っているのを見て薫の顔にもわずかに笑みが浮かぶ。
現在の状況では眠っているのが一番楽だ。そう思う薫はというと、さっきまでたっぷり
眠ってしまったのでもうしばらくの間は起きているしか道がないようだ。

 薫はじっと上から漏れ落ちてくる光を見た。
ここでこの強さなら、外はきっと晴れてまぶしいくらいの太陽が水面にきらきらと光を反
射させているだろう。たまに泳いでいく魚の腹が見える。――この場所は川底の更に下に
開いた空間である。川底から岸辺の下まで地下空間が存在している。あまり広い場所では
ない。薫が知っている限り、この辺りの地面は柔らかい土でできている筈なのにこの場所
だけは岩に囲まれているように大地が固く、ここから出ようとしても歯も爪も役に
立たない。川を通して見える光だけが大まかな時間と天気を知らせる。

 ここの嫌なところは、たまに川に入ってきたり川で水を飲んだりしている生き物達の姿
までもが見えることだ。閉じ込められた初めのころ、薫は誰かが川に来るのが見えるたびに
助けを求めようとした。だが、声は向こうには伝わっていないらしい。こちらの姿も
相手には見えない。次第、薫は誰かの姿が見えても声を上げなくなった。

「薫お姉さん……」
 みのりがむっくりと起き上がり人の姿になる。
「……起きちゃった? もっと眠っていればいいのに」
「ううん、起きる」
 起きたといえ、特に何もすることがあるわけではない。薫は膝を抱えて座り、みのりは
その横にちょんと腰掛ける。
「ねえ薫お姉さん?」
「うん?」
「今日は薫お姉さんの番だよ。満お姉さんのことお話して」
 じっと黙っている薫にせがむようにみのりは言った。
「一昨日、どこまで話したかしら」
「ええとね、満お姉さんはお魚食べるのが大好きだっていうところまで」
「あ、そうか……」

 することがないので、薫とみのりは互いに自分の身近な存在について語ることで暇を潰
していた。一日ごとに交代して薫は満のことを、みのりは咲や他の村の人たちのことを話
す。普段言葉数の少ない薫であったが、みのりのために満のことを懸命に話した。
薫が話す日はみのりが話す日と比べてずっと話が短く終わってしまうのではあったが、
それでもみのりが楽しみに聞いているので薫はとにかく満の話をひねり出していた。

「満は魚が好きで……でも、魚を獲るのは下手なのよ。川のそばでずっと魚の動きを見て
いて、頃合を見て川に手を入れて魚を捕まえようとするんだけど……」


 薫はあの日、体調の悪い満を見かねて薬草を採りにこの近くまでやって来た。群生して
いる薬草を摘んだ後、水も汲んで戻ろうと谷底に流れるこの川にやって来た。いつもと
風景が変わることはなかった。穏やかな世界はいつもと同じで、この静けさがずっと続いて
いくのだろうとさえ思えた。
「誰?」
 川に見慣れぬ人影を見て薫は警戒し声をかける。その人物は背も低く、それほどの脅威
ではないとも思えたがどこかその様子が気に入らなかった。川向こうに立つ樹の前で何か
印を結ぶような手の動きをしている。

「何をしているの?」
 男が振り返った。薫はぱっと後ろに跳び下がり川から距離をとる。ただならぬ雰囲気が
漂ってくる。
「ほう、物の怪ですな。さすがこの山には物の怪が多い」
 ぐっと薫は拳を握り締めた。
「ですが私の邪魔はしないで頂きたいですな」
「邪魔……何の邪魔?」
 相手は答えずに再び樹に向うとなにやらぶつぶつと口の中で呟いている。ただの変人か、
いやそういうわけでもなさそうだ。突然薫の立つ大地が小刻みに震え始めた。
 ――地震?
 立っているのに危険を感じ身を大地に伏せた瞬間轟音が響き薫は思わず目を閉じた。
すぐに目を開け音のした方を見ると二つ向こうの山から火が吹き上がっている。共に
上がった噴煙で辺りは瞬く間に暗くなった。不快な熱が辺りに立ち込める。
「……!」
 薫は今の出来事と目の前に居る得体の知れないものが関係していると直感した。男は
周りの変化に慌てる様子もなく先ほどと同じ姿勢を取っている。
 とにかく今していることを止めさせようと薫は川に飛び込み泳いで男を目指す。この辺
りでももう、向こうの山から降ってきた小石や灰が落ち水面のあちこちに波紋を作ってい
る。川の流れもいつもより速く感じられた。必死に泳ぎ向こう岸までたどり着く。

「止めろ!」
 ぐいっと男の肩をつかんで無理やりこちらを向かせると、
「おやおや」
 男はにやりと笑った。
「いけませんなあ、物の怪殿。邪魔をしないでくださいとお願いしたではありませんか」
 ――何者……?
 薫は男に近づいてみてますます不審の念を強くした。薫の良く知る物の怪の匂いは
男からはしてこない。
「離してください」
 男は肩をよじる。薫は手にぐっと力を込めた。男が目を細めた瞬間、薫の身体は何かに
突き飛ばされたように男から離れ背中から地面に倒れた。
「な……何……」
「人がお願いしている間に手を引くものですよ、物の怪殿」
 男の両手の間に紫色の光が微かに見える。立ち上がろうとした時、足の下の大地そのも
のが崩れ薫はそのまま転落した。

「うっ……」
 暗闇の中手を頭に添えて薫は立ち上がる。周りを見て薫はぎょっとした。先ほどまで
いた場所とは全く異なる暗がりの中に居る。
「う〜ん……」
 自分以外の者の声を聞いて薫はぱっと臨戦態勢になり耳を澄ませる。あの男とは違う声
だったが油断はならない。少し離れた場所でごそごそと動いている音がする。
「あれえ……」
 相手は用心している様子がない。足音をぱたぱたと立てながらこちらに近づいてくる。
「あっ!」
 薫を見てその女の子は声を上げた。その声があまりに大きかったので薫がびくりとした
ほどだ。
「お姉さんお姉さん、ここ、どこなの?」
 全く薫に警戒する様子を見せずに走ってくる。狸の子供だとすぐに分かった。

「ねえ、ここどこ?」
 女の子は薫のすぐそばに立つと邪気のない瞳で黙ったままの薫を見上げる。
「さあ」
「お姉さんどこから来たの? みのり、川のそばに来てたはずなのに気がついたらここに
居たんだ」
 思わず答えてしまった薫に女の子はにこにこしながら話しかける。その内容を聞いて薫は
気づいた。このみのりという子は恐らくたまたま川の近くに居たために、薫がここに
落ちてくるのに巻き込まれてしまったのだ。無言のまま、薫は歩き始めた。

「お姉さん、どこ行くの?」
「出口を探す」
 みのりも着いてくる。薫の手をぎゅっと握ってきた。ちらりと薫は目だけを動かして自
分のやや後方に居るみのりを見る。
「……お姉さんとはぐれたくないもん」
 ちょっと拗ねたような口調でそう言った。薫は黙ったまま手を握らせておいてやる。
二人で歩ける限り歩き回り、この空間はそれほど広くないこと、出口らしきものはないこと、
岩壁にはどうやっても歯が立たないこと――をわずかな時間のうちに確かめてまた川の下、
唯一光の射す場所に戻ってきた。薫はみのりから手を離し、その場にうずくまって座る。
ここまで徹底して閉じ込められているとは思わなかった。

「大丈夫だよ、お姉さん……」
 みのりが慰めるように話しかけてくる。
「きっとお姉ちゃんが助けに来てくれるよ!」
「お姉ちゃん?」
「うん、私のお姉ちゃんがきっと助けに来てくれる」
「どうしてそんな風に言えるのかしら? あなたのお姉さんはこの場所を知らないわ。
こんな空間があるなんて誰も想像もしないでしょう。それに外からだってこの岩を破れるか
どうかは分からないわ」
辛らつな言葉を薫はぶつけた。普段から割と根拠のない慰めを受け付けない性質だった。
苛立ちもある。みのりへの言葉は自分で思っているよりもずっと棘を含んだものになって
いた。

「そんな……ことないもん!」
 みのりもめげない。薫に向って懸命に主張する。座ったままの薫は立っているみのりを
見上げていた。みのりの肩が少し震えている。
「お姉ちゃんは絶対に来てくれるんだもん。みのりのこと、見つけてくれる」
「だから、どうして……」
 そう言えるの? と畳みかけようとした薫の声は途中で消えた。みのりの目に涙が一杯
溜まってきていてそれでも落ちてこないように必死に食い止めている。
「諦めずに、強い心を持ち続ければ、何でも願いがかなうってお父さんも言ってたもん」
「そう」

 でもね……、と続ける筈の言葉を続けなかったのはみのりの涙を見たからである。みの
りは黙って薫の隣にぺたんと座り込む。泣き顔を見られたのが恥ずかしいのか、少し顔を
赤らめていた。
「ん……? お姉さん、何これ?」
「ああ……」
 薫の服から草がはみ出している。手に握りなおすと、すっかり萎れてしまって見る影も
ない。みのりはその草に見覚えがあるらしかった。
「その薬草……お姉さんどこか具合悪いの?」
「違うわ、悪いのは私じゃない……満が」

 薫は光をわずかに届ける川底を見た。薬草も水も、もう満には届けられないのかもしれ
ない。改めてそう思うと、薫の全身から力が抜けた。
「お、お姉さん大丈夫?」
 みのりが慌てて薫の身体を支えるようにする。
「大丈夫よ」
 ぐっと腕に力を込めて薫は姿勢を立て直した。みのりはまだ心配そうに、
「お姉さんやっぱり体調悪いの?」
 と尋ねてくる。
「私は平気。これは満のものだから……」
「満?」
「私と一緒に暮らしてる」

 萎びた薬草を投げ捨てようとしたものの薫は思いとどまりまた服の中に入れた。みのり
は薫の動作をじっと見守っている。
「……何?」
「満お姉さんに届けるんだよね、それ」
「……そうね」
「ねえお姉さん、お名前何ていうの?」
「……薫よ。どうしてそんなことを知りたがるの?」
「だって、一緒にお姉ちゃんたちのこと待つんだよ、これから。お姉ちゃんはね、
ちょっと寝坊だし良く遅刻するけどみのりが危ない目に遭ったら必ず来てくれるんだよ。
この前だってね、みのりがお水こぼしちゃった時に……」
 みのりは実に良く喋る子どもだった。姉を初めとする夕凪の狸の村のことについて薫に
ずっと話し続けた。それを聞いているのは苦痛ではなかった。むしろ、面白かった。

「それで、その大きなお魚を捕まえようとして満お姉さんはどうなったの?」
 お返しというわけではないが薫も満の話をするようになっていた。みのりが楽しそうに
聞いてくれているので薫としても話しやすい。
「どう見てもその魚は満の獲物にするには大きすぎたのよ。猫になってしまうととても抱
えきれないほど大きかったし。でもどうしても獲るといって……」
 話をしながらみのりと薫は静かに時を過ごして行く。

【第七話 完】

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