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第七話 山犬

「はい、満さん……」
 大空の樹のある夕凪に戻るのは明日すぐに、と言うことになった。咲と満が来た時とは
異なり、今回は舞の雲に乗せてもらって戻ることになる。舞の話では、朝早く出発すれば
明日の昼頃には夕凪に着いているだろうということだ。
 夜、庭を見ながら黙り込んで座っている満に、舞が水を持ってきた。ありがとうと
受け取ると満は一息に飲み干す。

「犬の声……?」
 風に乗ってどこかからか犬の吠える声がわずかに聞こえてくる。満はこくりと頷いた。
「ええ。多分山犬の声よ。どこの山から聞こえるのかしら」
 山犬たちは威嚇で吠えることは滅多にない。群れの中で互いを呼び交わす手段として、
自分の位置を示すために鳴き声を上げる。どこかの山で群れが離れ離れにでもなったのか、
今日は随分鳴き声が続いている。あの山の生き物達は今夜はただじっとしているしかない
だろう。山の生き物で山犬に立ち向かおうとする者はそういない。
「うん、山犬?」
 小用を足していた咲が戻ってきた。聞こえてきた二人の会話にごく自然に入ってくる。
頷いた満を見て、そういえば……という雰囲気で口に疑問を上らせる。
「薫さんと満って、どうして一緒にいたの? 猫と山犬が」
「……いちゃ悪い?」
「わ、悪いことなんて全然ないよっ!」

 不機嫌そうに答える満に咲は慌てて手を振って否定する。
「何かきっかけがあったのかなって思って。珍しいから」
「きっかけ? ……まあね」
「どんなことだったの?」
 しつこいかなと思いつつも咲は更に尋ねてみた。舞ははらはらしているように二人の
やり取りを見つめている。
「それがそんなに聞きたいの」
「うん、満のこと知りたいもん!」
 咲の言葉に満はふっと頬を緩めた。柔らかい表情を見て舞も安心する。

「……どじを踏んだのよ。私も薫も」
 ゆっくりと満は昔のことを話し始めた。
 そもそも、満と薫は同じ山に住んではいても互いに面識はなかった。すれ違ったこと
くらいはあるのかもしれないが薫を見ても満は、山犬が偉そうに道を歩いていると思う
だけだっただろう。満を薫が見ても、生意気な猫が跳んでいると思ったことだろう。
猫と犬とは基本的に仲の悪いものなのである。

 二人の住んでいた山は夕凪と比べ人里に近いこともあり、たまに狩猟の一団がやってく
ることがあった。山の生き物達は当然警戒心が強くなる。それでも狩りの日には生き物達
の何割かが捕らわれて行くのはどうしようもなかった。満は大抵木の枝の上から、軽蔑の
篭った眼差しで生き物達が連れて行かれる様子を見ていた。

「う……」
 あれは何度目の狩りの時だっただろうか。目を覚ますと満は猫の姿のままで竹籠の中に
入れられていた。
 ――ちっ……まずいわね……
 心の中で悪態をつく。籠を内側から手で突付いてみる。思うように身体が動かない。
眠り込む前に舐めたまたたびの影響が残っているようだ。考えてみればあんな場所に
さりげなくまたたびが置いてあったのも人間の仕業だろう。
 耳を澄まし、近くに人間がいないかどうか確認する。人間らしい足音や声は今のところ
聞こえてこない。

 人の姿に変われば、この狭い籠では満を閉じ込めておくことはできなくなる。おそらく
身を変じる途中で籠が壊れるだろう。そう思い身体に力を込める。
「くっ……」
 喉の奥から声が漏れた。またたびの力は強烈だ。しばらくの間挑戦するも、姿が変わり
そうにもないのを自覚して満は力を抜いた。
 ――身動き取れない……
 全身から血の気が引く。このままでは人間の所に連れて行かれて飼われることになるか
毛皮だけ取られるか……碌なことにはならない。何か逃げ出す手段がないか、満は籠の
網目から必死に外の様子を窺った。籠は薄暗い部屋の中に置かれているようである。
 ――誰か、いる……

 じっと息を詰めるとすぐ近くに物の怪の気配を感じる。目をきょろきょろと動かしどこ
にいるのか探ると、自分から見て右手後方に白い毛の生き物が見えた。大きすぎて籠の目
から全体は見えなかったが。
「ちょっと、そこの物の怪!」
 大きすぎないように、けれども相手には聞こえるように、微妙な大きさに声を調整して
満は呼びかける。ぴくりと相手の身体が動く。聞こえているようだ。

「この籠の中に捕らえられてるの。出して」
 単刀直入に頼み込む。能天気に挨拶や自己紹介をしている状況でもない。だが相手は、
ふんと息を出したきりこちらに助けに来てくれる様子はなかった。満は焦る。
「ちょっと、あなた! あなたも物の怪でしょ! このまま人間に尻尾振ってついて行く
つもり!」
 がんがんと言葉を投げつける。挑発でも何でもいいから、とにかく向こうにやる気を出
して貰わなければならない。――白い毛皮の立ち上がる気配がした。そのままこちらに寄
ってくる。わずかながら殺気を孕んだ気配に満は籠の中でやや身を縮めた。
 ――山犬、ね……よりによって……

 相手が近づいてくるごとに気配がはっきりと感じられるようになる。同じ山にいた山犬
であるらしいことが分かり満は内心舌打ちした。人に捕まった山犬が、人間の忠実な
飼い犬となってしまうことがあるというのは割とよく聞く話である。この山犬もとうに
人間に忠誠を誓ってしまっているかもしれない。
 突然頭上からばりんという音がした。籠の上部を山犬の後ろ足が割っている。すぐに足
は引っ込められたので満は籠に開いた穴から這い出した。山犬はと言うと首に紐をかけら
れて繋がれたまま、前いた場所にうずくまってしまっている。餌や水を入れた皿が置いて
あるが口をつけた様子はない。

 ――この犬、人間に飼われるつもりはないのかしら……
 ふと思い立ち、満はその鋭い爪を山犬にむけ、じっとしている首に這わせ紐を引きちぎ
った。山犬は目を閉じたままで俯いている。
「逃げないの……?」
 紐を切られたのには気づいているのだろうに動こうとする気配がない。まあ好きにすれ
ばいいわと満は思い、そのままここから逃げることにする。いつものように走ろうとした
が、足がもつれてすぐに転んでしまった。
 ――これじゃあ、ゆっくり歩くしかできないわね……
 また内心で舌打ちした時、山犬の大きな身体が立ち上がった。満に近づいてくる。
 ――え、ちょっと、何する気……?
 山犬の口が開き鋭い牙が覗く。身の危険を感じ離れようとするも足が中々言うことを聞
かない。噛まれる、そう思って目を閉じると山犬の口が満の首を軽く咥えた。母猫が仔猫
を運ぶ時のような状態になると――しかし、少し苦しい――ぱっと山犬は駆け始めた。
怪我でもしているのか、右の後ろ足を引きずるようにして走るのが気になった。

 人間達は山からそう遠くない場所に満たちを置いていたらしく、しばらく走ると見慣れ
た場所に出てきた。満は山犬の口の中でじたばたと暴れて離させる。地面に降ろされると
多少言うことを聞くようになった足を使い、小走りに山に向った。懐かしい山の匂いを
嗅ぐと次第に手足も伸びやかに動くようになってくる。少し山を登ったところにある
お気に入りの樹に満は駆け上り、枝に座ってふうと息をついた。

 ――まったく、ひどい目に遭ったもんだわ。これからは気をつけないと。
 一応反省はして、それから毛の手入れを始める。今まであまり気にする余裕もなかった
が、捕らえられている間に毛並みはひどいことになっていた。念入りに毛づくろいを行う。
くしくしと顔を洗って満足すると、満は一つ大きな欠伸をした。枝の上に身体をのびのび
と横たえる。

 と、樹の下から不穏な音が聞こえてきた。山犬の群れが集まってきて唸り声を上げてい
る。自分に向けられたものではないようなのでとりあえず安心したものの、また人間でも
来ているのかと気になって満は山犬たちの視線の先を追った。そこにいたのは、先ほどまで
満と一緒にいた一匹の山犬だ。むき出しの敵意を向けられてすっかり尻尾を丸めて
しまっている。
「薫」
 群れの中の年老いた一匹が人の姿を取った。しわがれた声で、しかし厳として宣告を下
す。

「群れの掟はお前も知っているであろう。お前は一度人間の手に落ちた。たとえどのよう
な理由があっても、人間の臭いのついたお前をここに居させる訳には行かない。もしお前
が我々の縄張りに留まろうとするなら、我々はお前を八つ裂きにしてでも消し去ってしま
わなければならん」
 群れの先頭に立つ二匹の山犬が一際大きく唸った。
「ただちにこの山より去れ。今すぐに立ち去るならば、お前を傷つけることはしない」
 薫と呼ばれた山犬はじっとうな垂れて聞いていたがくるりと身体の向きを変えると
ゆっくりと山から離れていく。右の後ろ足はびっこをひいたまま、すごすごと去っていく。
群れの山犬たちはしばらくその様子を見つめた後再び山の奥へと引き上げて行く。

 ――ちょっと……
 満は思わず樹からぽんと飛び下りた。すぐに薫を追いかける。元気なく歩いている薫に
は簡単に追いついた。
「ねえ……、」
 話しかけようとしたものの言葉が続かない。大体満はこんな状況の時に語るべき言葉を
持ち合わせていないのだ。
「げ、元気ないわね……、いっつも我が物顔で徒党を組んで山を歩いている癖に、群れを
追い出されると途端に威勢がなくなるような弱虫なのね山犬って」

 どうしようもない悪態が口から出てくる。こんなことを言うために追いかけてきたので
は多分ないはずだ。我ながら情けなくなってきた。と、のろのろ歩いていた薫が突然身を
翻し満の身体を地面に倒して足で抑えつけた。まずい言いすぎた、どうしようと
慌てていると満の身体を抑え付けている足が徐々に鋭い爪を失い、薫が人間の姿を取った。
その掌で満を抑えてはいるが、力は大分軽くなっている。深い哀しみを帯びた青い瞳が
妙に満の心に焼きついた。

「そばに、いてほしい……」
 掠れた小声。満は聞き間違いかと思った。自らも人の姿を取ると身を起こし、え? と
呟きながらきょとんとした表情で薫を見上げる。薫はその目を見てひどく恥じ入った顔を
して視線を逸らすと、

「いや……忘れてくれ」
 満から手を離して立ち上がるとそのまま歩き始める。満はすぐその後についた。薫の二、
三歩後ろという位置を保ち速度を合わせる。
「……何故、ついてくる?」
 しばらく行ったところで薫が振り返った。
「私は行きたいところに行くだけよ」
 薫が瞳に困惑の色を浮かべる。
「弱虫の山犬が群れから離れて生きていけるのかどうか見てみたいだけ」
 ふんと薫は視線を逸らした。満は薫のすぐ横に立ち、二人はそれから並んで歩いた。

「……で、私と薫は住める山を探し回ってたら夕凪にたどり着いたのよ。既に山犬の群れ
がいる山に薫が入ったら危険だから」
「あ、なるほど……」
 夕凪には山犬はいなかったから、と咲は納得する。
「満さんも薫さんも、その……大変だったのね」

 舞が二杯目の水を持ってきた。喋り続けて喉が渇いていた満はそれをすぐに口に含む。
「まあ、どじを踏んだのがそもそもいけないんだけどね」
「満は人間の置いていったまたたびを舐めたんでしょ? 薫さんも同じようなことをしたの?」
「薫は変なところで甘いから」
 満は水を飲み干すと聞きたそうな顔をしている咲に、人間の猟犬を助けちゃったのよ、
と簡単に説明した。

「狩りについて山に入ってきた猟犬なんてさっさと倒してすぐ逃げればいいものを、その
時の猟犬はまだ小さかったものだからついつい躊躇したらしいわ。その仔犬が、その間に
鳴いて人間を集めてしまったから右足を射られて捕まる羽目になったそうよ……」
「へえ……」
「だから薫が居なくなった時、私はまた余計な情けをかけて人間にでも捕まってるんじゃ
ないかと思ったわ。色んな生き物や物の怪に聞いてみてあの時は人間が山に入り込んで
きたという話はなかったから多分違うんだと思うけど」
「そうだね……」
 咲はしばらく考え、あの日のことを記憶に上らせる。
「あの時は人間は来てなかったな……来てたとしても、近くの山が突然火を噴いたような
状態だもん、狩りどころじゃないよね」
「そうね……」
 薫はどこにいるのだろう――と思いながら満は視線を廻らせた。まだこの世界にいるの
なら、自由に動ける状態でないのは間違いない。

 満の話をずっと聞いていた舞はもう一度占いをしたくなった。薫という名の山犬の居場
所を掴みたかった。けれども、絶対にそれをしてはならないように思えた。またどこにも
存在していないという結果を出すわけにはいかない。
 ――何にしても、薫さんは今自分の安心できる場所に居るって訳じゃないわ……
 満の話を聞く限り、薫にとっては満のそばが唯一安心できる場所なのだろう。群れで
生きている生き物が群れからはずれることはひどく恐ろしいことのはずだ。その時に満を
求めその後もずっと一緒にいたということは、
「きっと、薫さんも早く満さんの所に戻りたいはずよ……早く探し出さないと……」
「どうかしらね、薫がどう思っているかは分からないわ」
 冷静ぶって満がそんなことを言う。


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