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第一話 鵺(ぬえ)

 昔、昔の話をする。まだ人と物の怪とが近しく暮らしていた頃の話である。

     * *

 鵺が出るそうだ。たまたま立ち寄った宿でそのような話を聞いた。鵺とは、猿の顔、
狸の胴体、虎の手足、蛇の尾を持ち奇妙な声で鳴くという怪物である。満にその話をした
のは、満と同じく一人旅をしているらしい人間であった。満がこれから行こうとしている
方角にある大木から夜な夜な鵺の声がして道行く人々を脅かしていると言う。

 ――だから女子の一人旅などするものではない。

 彼はそう言いたかったようだ。満はまだ年も若く、一人旅をさせるにはいかにも危険で
あると思われても仕方のない容姿をしていた。細い身体は何か――あるいは誰かに襲われ
てしまえばすぐにでも砕けてしまいそうに見える。特徴的に赤く光る眼もそんな時には何
の役にも立つまい。それに満は自分の身を守るものを一切持っていなかった。荷物といえ
ば綺麗とはいえない竹筒を腰につけているばかりで、その中には水しか入っていない。
 だから、男の話を聞いて満が鼻で笑ったのはひどく不遜な印象を与えた。満のそんな
様子に男は予想外だという驚きの表情を浮かべる。
「冗談ごとではないのだぞ」
 男は念を押すように言った。声もどこか脅すような低いものになっている。満は動じる
ことなくふふと笑うばかりである。

「分かっているのか、どういう事態か」
「どうでもいいわ」
 満は顔に薄い笑いを浮かべたまま、男と向き合うように座っていた床から立ち上がる。
「おい、どこに行く気だお前」
「あなたには関係ない」
 鋭い言葉を剣としてばさりと斬り落とす。
「待てったら。一人で行くのは止めろ。明日から俺と一緒について来い」
 男は満が思っていたよりしつこかった。
「……それって命令?」
 赤い眼がぎらりと輝く。途端に男は怖気づいた。
「そ、そういうわけじゃない、ただ……」

 ごにょごにょと口の中で言い訳を呟いている男を無視すると満はそのまま宿を出た。
元来、満は宿を求めるつもりでここに寄ったのではなかった。道が合っているかどうか
確かめるために入ってみたら先ほどの男に捕まってしまったのである。

 走り出すことも止まることもなく、一定の速度で満の足は進んでいく。やや早足で歩く
様子は旅慣れた者であることを窺わせた。満は人通りの少ない道の方が好きだ。この辺り
はそれほど人の行き来がある場所ではないが、人と接触するのは何かと面倒だ。

 ――今夜までにその木まで行けるかしら。

 満は鵺が恐ろしいのではない。彼女が気にしているのは時間である。つまらない男に
会ったせいで貴重な時間を無駄にしてしまった。

 足音を立てないようひたすらに早足を続ける。日はまだ落ちない。橙がかった光に
なってきてはいるが、まだ暗くなってしまうまでには間があろう。
夜目の利く満にとっては、暗くなってから旅を続けることも比較的容易ではあった。
だが満はできるだけ昼間進み、夜はあまり動かないようにしていた。
目的地までにはまだかなりの道のりがある。昼夜かまわず歩き続けることができるのは
数日が限度だ。これからしばらく歩き続けることを考えると、休む時間を取った方が効率は良い。

 前後左右に気を配りつつ歩いていく。本当は四つ足になった方が速いが、これから行く
場所のことを考えると二本足で長時間歩くことに慣れていないと面倒だ。しばらくは取り
立てて何も考えることなく二本足での歩みを続ける。日も落ちそうになる頃、前方に大き
な木が見えてきた。
 ――ふうん、これが……。
周りの木々と比べても一回り大きい幹。鳥の羽のように伸びる枝の形。更には、幹の下部
にある木戸のような扉。どれを取っても、先ほど男が話していた特徴と類似していた。
 ――ここに、鵺がねえ……。

 呆れたように満は木を見上げる。沈みかけた夕日を浴びている木の姿はどこか平和な
ものを感じさせ、鵺などという化け物にはそぐわないように思えた。
 どさりと満は木の根元に腰を下ろした。もう日も沈む。どうせこの近くで休息しなけれ
ばならないのなら、ここにしようと考えた。
 ――本当にここに鵺がいるのなら。

 何かを話せるかもしれない。それなりに名の通った妖怪である。ここのところの状況に
ついて何かを教えてくれるかもしれない。
 そう考え、満は火も焚かずにじっとその場で息を殺した。日がその光を失い、辺りが闇
に包まれていくにつれ満の赤い瞳ばかりが爛々と輝きを増して行く。遠く近くから夜の虫
達の鳴く声が聞こえ始めた。置き物のように動かなくなった満のすぐ近くでもち、ち、ち、
と虫の羽根をすり合わせる音がする。

 ぴくり、と満の耳が動いた。真上から葉のこすれる音がする。風によるものではない。
動きが違う。そろりそろりと気配を殺したまま満は立ち上がり木の幹に手を掛ける。
満のすぐ近くで鳴いていた虫たちも今はじっと沈黙を守っている。
 かさり。
 また木の葉の揺れる音がした。目を瞑り音に意識を集中すると、微かながら何かの
息遣いが聞こえてくる。

 この木の上に、何かいる。
 確信を持った満は木の幹に指を立てるとそのままするすると登り始めた。
木に取り付いた満の影が音もなくごく自然な動きで上がっていく。
枝にたどり着くたび、満は息を殺して気配を窺った。
 ――この枝には、いない……。
確認したうえで更に上を目指す。相手は意外と高い枝に乗っているようだ。

 登り始めて数分。満はぴたりと止まり横に伸びる太い枝の先を見つめた。何かが息づい
ている気配を感じる。音を立てないよう細心の注意を払い満は枝へと移動した。
「うう……どうしたらいいんだろう」
 満の向う先からどこか情けない声が聞こえてくる。

 ――え……?
 その声に満は思わず立ち止まった。いくら何でも鵺がこのような声を出すことはあるま
い。この先に居る者は鵺のような大物ではなく、恐らくは小物だ。物の怪として大した
存在ではない。

 息を殺すのをやめ満はずかずかと遠慮なく枝を走った。
「な、何?」
 満が近づいてくるのに気づいたらしい相手が慌てている。
「咲、早く逃げるラピ!」
「逃げるってどこに!」

 どうも二人いるらしい。一人でも二人でも同じだが。満が近づいていくと向こうは
諦めたように振り返った。
「ど、どうも今晩は……」
 気の抜けるような普通の挨拶をしてきたのは一人の少女である。ただの人間でないこと
は頭の上にぴょんと突き出した丸い耳を見れば分かる。
「……化け狸?」
「うん、そう。咲って言うんだ。上ってきたのはいいんだけど降りられなくなっちゃった。
……あなたは誰?」
「降りればいいじゃない」
 満は咲の問いかけを無視するように平然と答えると「私は降りるわ」とばかりにぴょん
と枝から空に舞う。

「あ、危ないよ! ちょっと!」
 咲が声をかけた時にはすでに遅く満の身体は頭からまっ逆さまに落ちて行く。
「う、うわっ!」
 満の様子を見ようと身を乗り出した咲はぐらりと安定を崩した。しっかりと枝に掴まっ
ていたはずの手がずるりと滑る。

「お、落ちる〜!」
 言葉どおり咲も落ちる。満は落下途中でひらりと身を返すと、とんと四つ足で地面に降
り立った。何事もなかったかのようにすぐに立ち上がる。
「うわああああ……!」
 満のすぐ上から追いかけてくる悲鳴。それと咲の身体。
 ――わ、私の上に落ちてくる!

状況を認識した満が咄嗟に逃げようとするも加速のついた咲はどすんと満の真上に落ちた。
頭だけは逃げたが、胴部分に咲の身体がのしかかり満はうっと声を上げる。
「ご、ごめん、ごめんね!」
 咲は慌てて満から離れた。満はしばらく地面の上に横たわったまま大きく息をついて
いたがやがて木の根元に座り直すとじろりと咲を睨み付けた。
「はふ〜、でもこれでやっと降りられたラピ……咲、ありがとうラピ」

 咲の懐あたりから小さな声がした。満がそちらの方へ視線を向けるとぴょんと青い小さ
なものが飛び出してくる。
「それと、えーと、ありがとうラピ」
 満にもお礼を言って頭をぺこりと下げると、じゃあフラッピは行くラピ、と咲に告げて
跳ね飛んでどこかに行ってしまった。咲は「気をつけるんだよ」と手を振っている。

「……精霊?」
 ぼそっと呟いた満を見て咲はうんうんと頷き、
「花の精フラッピって言うんだって。木に登って降りられなくなってたから助けようと思
ったら私まで降りられなくなっちゃって、それで困ってたんだけど、でもおかげで助かっ
たよ、ありがとう!」
 満はため息と共に呆れ果てた視線を咲に送った。無言で立ち上がる。

「え、ねえちょっと、どこ行くの?」
「……私は鵺に会いたかったの。あなたに会うつもりじゃなかったわ」
 自分が鵺と勘違いされていたとは知らない咲は顔に疑問符を浮かべながらもさっさと
歩く満の後を追いかける。
「旅してるんでしょ? どこ行くの?」

 ――うるさいな……。
 沈黙を保ったまま満はさっさと歩みを進める。本来は休むつもりだったがこうなってし
まったのなら仕方がない。今夜のうちに歩けるだけ歩いてこの狸を振り切ってしまおうと
考える。
「私も旅、してるんだよ。それでちょっと聞きたいことがあるんだ」
 咲はまだ満に喰らいついて来た。満が一言も発しないのをまったく意に介していないようだ。




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