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「わっ、遅刻遅刻!」
朝、いつものように咲は大慌てでベッドから飛び起きる。着替えもそこそこに食卓に行くと、
みのりはもうほとんど朝食を終わってしまっていた。

「もうお姉ちゃん、またあ?」
食後のホットミルクをこくこくと飲み、呆れた顔をする。

「起こしてくれればいいのに!」
咲は八つ当たり気味に言うと、自分の分のパンを牛乳で流し込むようにして食べる。
遅刻するのはいつものことではあるが、今日は少し都合が悪い。

「起こしたよ〜、でもお姉ちゃん起きないんだもの」
むう、と咲は不満げな声を漏らすととんとんと胸を叩き流し込んだパンを落ち着かせる。

「それじゃ、行ってきます!」
「気をつけてねー」
咲はいつものように騒々しく家を出た。


――今日の遅刻は格好悪いよ〜!

遅刻するのは珍しいことでもないが、咲はいつもより懸命に走った。うまくすれば
間に合う。今日の遅刻だけは避けたかった。

夕凪中の三角屋根が見えてきた。まだチャイムは鳴っていない。咲はラストスパートをかける。
下駄箱で上履きに履き替え、廊下をダッシュして教室に駆け込む。

「セーフッ!」
篠原先生はまだ来ていなかった。咲は小さくガッツポーズを決めるが、
教室に入ってすぐのところに座っている満と薫がため息をついて見ているのに気づく。

「あ、あははは……」
頭に手をやり照れ笑いをすると、二人ともくすりと笑った。
「もう、マジしっかりしてよね〜、日向キャプテン」
どこかから教室に戻ってきたらしい仁美が通りすがりに言葉を残して行く。
その言葉に満と薫は驚いた表情を見せた。

「日向『キャプテン』?」
「あれ、霧生さん達知らなかった? 咲、昨日の部活で正式に来年度のキャプテンになることに
 なったんだよ。ま、こんな調子じゃマジ心配だけどね〜」
「ちょっともう仁美〜」
「時間だぞ、みんな席に着く!」
篠原先生がいつの間にか教室に入ってきていた。


今朝は出席を取った後、更にプリントが配られた。マラソン大会の説明である。
今度の土曜日、つまり明日に行うことになっている。
中学2年生のマラソンコースは夕凪町一周だ。学校を出て坂を下り、舞の家、
PANPAKAパンの前を通って大空の樹まで登る。そこから折り返して健太の家や仁美、優子
の家の前を通り再び学校にまで戻ってくる。
学区内をほぼ網羅しているので、生徒の家族も家の前に出るだけで応援ができるという
親切なコース設計である。

が、その分距離が長くなってしまうのは否めない。
ここのところの体育はずっと長距離走の練習だった。グラウンドを何周も何周も、ただ
走り続けてタイムを記録していくのである。
それでも本番のマラソン大会よりは距離が短い。毎回体育の授業の終わりには疲れ果てている
舞には不安なところもあった。


「満、薫! 帰ろ!」
放課後、舞と咲が満と薫のそばにやってくる。二人はうんと頷くと、
鞄を手に取った。四人で一緒に帰るのは、今では見慣れた風景である。
廊下に出た舞はグラウンドを見てふうとためいきをついた。

「……ん? どうしたの、舞?」
「明日のマラソン、ちゃんと走れるかなあと思って」
「大丈夫だって! 体育の授業で、タイム上がってるんでしょ?」
「うん、でもやっぱり、あんまり長い距離走ったことないし」
「別にそんなに心配しなくたって、何とかなるでしょ」
満が当然のように言うので、咲も満さんも薫さんも運動できるから、と舞は答えた。

「学校に戻ってこられないかも……」
「歩いたっていいんじゃない、別に」
心配顔の舞に薫があっさりと助言する。

「競技でやろうって言うんじゃないんだから」
「まあ、そうだけど、ね……」
「あっ、日向キャプテン!」
1年生が咲を見て声をかけてくる。
「あ、どうかした?」
「明日のマラソン大会、頑張ってください! 泉田キャプテンも去年、女子の一番
 だったんですよね!」
「はいはい、頑張るなり〜」
1年生はぺこりとお辞儀をすると離れていった。

「何? 今の」
会話を聞いていた満がきょとんとした表情で咲に問う。
「泉田先輩も去年のマラソン大会で一位だったから、私にも一位になってってことだと思うよ」
「ふうん。そういうものなの」
「ソフトボールだったら長距離はそんなに速くなくてもいいんだけどね〜。
 1年生も本格的にレギュラーとして試合に出られるようになるから、気合入ってるみたいだね」
「ふうん……」
――ソフトボールと関係ないことで気合入れてどうするんだか。
満はそうも思ったが、黙っていた。
「でも、授業の時の感じだときっと満が一番だよね、ね、満?」
「え、……そうね」


翌日、天気は快晴。生徒達はグラウンドに引かれたスタートラインの前に並んだ。
男子の部は終わったので、次は女子の部である。
体操着に着替え、思い思いにウオーミングアップをした後の生徒達はどこか緊張したような
表情を浮かべている。

全クラスの生徒がスタートラインのすぐそばに並べるわけではないので、
自然足の速い者がスタートラインの近く、遅くなるほど遠くに並ぶことになる。

咲と満、薫はスタートラインのすぐそばに、舞は大分後ろの方で加代や彩乃と一緒にいた。

「位置について、用意!」
篠原先生の鳴らす号砲に合わせ、咲たちは一斉にスタートした。舞たち、すでに後方集団
となってしまっている生徒達もそれに続く。

学校を出てしばらくは下り坂が続いていく。
咲は気持ちよく風を切って走った。すぐ隣に満がいる。後ろにも数人の足音が聞こえているが、
少しずつ離れていくようだ。

――咲、ペース速いな……

後ろにいる仁美は咲が少しずつ離れて行くのを感じていた。
仁美の隣には薫が走っているが、既に満と咲が抜け出しているので
第2集団といった様相になっている。

「満さんと咲、速いね」
薫に声をかけてみる。
薫は顔を前に向けたまま、視線だけを仁美に向けた。
「何を張り切っているのかしら」
冷たいとも思える口調で答える。

「キャプテンだから、かな……」
仁美の言葉に薫は答えず、二人は再び黙り込んだまま満と咲の背中を見ながら走って行く。


「お姉ちゃんたち、まだかなー?」
土曜日ということもあり、PANPAKAパンの前ではみのりがじっと咲たちの来るのを待っていた。
コロネも大人しくその膝に抱かれている。と、突然コロネがぴんと耳を立てた。

「んー?」
道の向こうまで目を凝らしてみると、こちらに走ってくる人影が見える。

「あ、お姉ちゃん!」
まだ遠かったが、みのりには咲の姿が先頭にあるとはっきり認識できた。
そのすぐ隣を走っているのは満だ。
「お姉ちゃん、満お姉さん、頑張ってー」
手作りのポンポンを持って応援する。咲はそのみのりの姿に気づき、
にっこり笑った。その顔はみのりにも見える。咲と満が通り過ぎると、

「薫お姉さーん! 頑張ってー!」
ある意味みのりが一番応援したかった人がやって来た。みのりの姿を認めると、
薫はそちらにちらりと視線を送り、微かにほほえむ。

「頑張ってー!」
ポンポンを振ると、薫は手をわずかに振りながら走り去っていった。
こうなると残るのは舞の応援だけだ。

――舞お姉ちゃん、まだかなあ……
みのりはPANPAKAパンの店先に出ている椅子に座りなおすと、足をぶらぶらさせながら舞を待った。

PANPAKAパンを通り過ぎると、コースは一転して上り坂になる。
ここから大空の樹まで、ずっとこの調子だ。
咲はややペースを落とし、ぐいぐいと自分の身体を持ち上げて行くように走った。
満もそれにぴったりと着いてくる。
家の建ち並ぶ町並みを抜け、トネリコの森に入っていくと少し気温が下がる。
緑の匂いが強くなる。

満と咲はつかず離れずの距離を保ちながら、力強く坂を登っていった。
元々二人にとってこの森は慣れ親しんだ場所だ。そこかしこに張り出している木の根っこに
引っ掛かることもなく、ひたすらに登っていく。
折り返し地点、大空の樹。咲は樹にタッチするようにして一周すると、満もそれに続く。
ここからはまた下り坂になる。少し咲の気持ちは楽になった。

そのころ、舞はようやくPANPAKAパンに到達していた。
咲たちの時と比べて足取りはかなり重く、ゆっくりと走っている。
ついつい、前ではなく下を見てしまう。

「舞お姉ちゃん、がんばってー!」
見慣れた声に気づいて顔を上げると、みのりがポンポンを振り回すようにして躍っていた。
その姿に舞は思わず笑ってしまう。
「頑張るわ」と、口に出す元気はなかったが目で伝えたつもりになって、
これから続く上り坂へと向っていった。

山を降りると、コースは平坦になる。学校に向けて緩やかな上り坂が続いていくが、
トネリコの森ほどの急な上り坂はもうない。
クラスメートの家族がそれぞれに家の前に出てきているのが見える中、咲は
そろそろ苦しくなりつつもあまりペースを落とさずに走り続ける。

満が相変わらずぴったりとくっついてきているのが咲には分かった。
顔を見れば、自分のような苦しい表情ではなく涼しげな顔をしているのだろう。

――あとちょっと、あとちょっと!
咲はただそれだけを考えるようにした。満のことをあまり気にしても仕方がない。
夕凪中の三角の屋根が見えてきた。

応援に学校に着ているらしい1年生の歓声が聞こえている。
「日向先輩頑張ってー!」
咲の良く知るソフト部の後輩の声も聞こえてきた。

――ラストスパート!
そう思い、咲はダッシュする。満もついてくる。咲の視界の左側に満の姿が入っている。
と、校門をくぐるとき満の姿が突然消えた。
え、と思ったが咲は止まれなかった。
振り向いただけでも、そのまま走れなくなってしまいそうなので咲は走り続ける。
グラウンドを咲は一人、走り抜けた。
1年生たちの歓声が聞こえる。ゴールテープを、咲は切った。
そのまま数メートル走ると、咲の足はやっと止まった。はあはあと息を切らす咲に、ソフト部の
後輩達が駆け寄ってくる。
「日向キャプテン! やりましたね!」
「ソフト部二年連続マラソン制覇ですね!」
口々に言ってくる後輩達に、うんうんと頷きながら視線を廻らし、満を探した。
咲には突然失速した満のことが気になっていた。
足を怪我でもしたのか、それとも……と思って探すと、満はすぐそばに居た。
もうゴールしていたらしい。その顔は平静なもので、どこにも異常は感じられない。

「満!」
咲は後輩達の輪から抜け出すと、満の方へと駆け寄った。
3位の薫がグラウンドに入ってきて今にもゴールしようとしている。
後輩たちは薫に少し遅れて4位の仁美を今度は迎えようとしている。

「どうしたの!? 怪我でもした?」
「怪我?」
満は不思議そうに問い返す。
「別に、どこも怪我なんてしてないわ。どうして?」
「だって満、いきなり遅れたから――」
「別に」
満はそっけなく答えてその話題を打ち切ると、「良かったわね、咲。一番になって」
それだけ言い、ゴールした薫の方へと向う。

「満――?」
咲は自分から離れたがっているような満の行動に疑問を抱いた。
満の足取りはしっかりとして、確かに怪我をした様子はない。

3位でゴールした薫は、満とは違ってやや息が上がっていた。
ふうふうと荒い息を立てながら、出迎えた満に「どうだったの?」と尋ねる。
「2位だったわ。1位は咲」
「そう」
薫は少し意外そうな顔をした。
「咲よりもあなたの方が速いかと思ってた」
「……」
その言葉に、満は何も答えない。

そんな満の様子は、後輩達に再び囲まれた咲からも見えた。

――満……?
なんだか、変だ。満がなんだかおかしい。突然速度を落としたのもおかしいし、
今の態度もどこか……自分とやや距離を置いているように咲には感じられた。

――満、ひょっとして……
咲にはある思いが浮かんできた。満はひょっとして、自分のために、わざと
遅れたのではないか? あのいきなりの失速はそう考えると説明がつく。
浮かび上がってきたその考えは咲の心をざわつかせた。

「満!」
大声で、少し怒った声で満に呼びかける。
「……何よ」
満は冷静に振り返る。咲の顔は少し紅潮していた。

「満、何か私に隠してない?」
咲は真剣な顔で満に詰め寄る。
薫はきょとんとした表情でそんな二人を見ていた。
「別に。何を隠すって言うの?」
そんなに問い詰められるのは不快だ――とでも言いたげに、満はやや不機嫌に応答した。
「さっき、わざと速度落としたんじゃない?」
あっさりと、咲は聞いてしまった。遠まわしに搦め手を使って聞いていくのは性に合わない。
「……そんなこと、ないわ」
満は咲から目を逸らした。
薫は満のその表情を見て、咲の言っていることは正しいと確信した。
そう思ったのは咲も同じようで、

「満! 私の目を見て言ってよ!」
「……それって命令?」
呟くと、満は薫の袖を引いた。あっちへ行こう、と言うように薫を促す。
「……満」
薫は何かを言いかけたがぐいと満に手を引かれその場から離れた。咲はそんな二人を
じっと不満そうに見る。
目の奥から涙がこみ上げてきそうだった。
なぜかは良く分からなかったが。


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