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「小まめにうがい手洗いをしましょう」
という貼り紙が夕凪中のあちこち、特に水のみ場近くにはたくさん貼られる様になった。
ここ最近、厄介な風邪が流行っている。
かなり高い熱がでて、一週間くらいは安静にしていないと治らないらしい。
入学したばかりの一年生のクラスでは学級閉鎖になりそうなところもあったという話だ。


「みんな、おっはよ〜!」
元気満点の咲が今日も教室に飛び込んできた。中三になり、日当たりのいい教室だ。
「おはよう、咲」
「今日は遅刻しなかったのね」
「咲、おはよう!」
教室の入り口近く、満と薫の席のところに舞も来ていた。
薫の机の上には数学の教科書とノートが広げてあった。
「あれ? 今日数学何かあったっけ?」
「うん、私今日当たると思うからちょっと分からないところ聞いてて……」
ふうんと咲は舞に答える。満がそんな咲を見て僅かに笑みを漏らした。

「咲、あなたも当たるってことよ?」
「え!?」
「数学は席順だもの」
「えええ!? じゃあ私どこが当たるの!?」
「先週安藤さんまで当たったんだから……太田さんからよね。だからこの、問3じゃないかと
 思うけど」
「え、えーとじゃあ問3、教えて!」
咲は慌てて満の席の隣に座って自分の鞄から数学のノートを引っ張り出した。
「問1からやった方がいいんじゃないの? 同じパターンの問題がだんだん発展して
 行ってる形式だし。舞はそうしてるわよ」
「うー、時間ないから、まず問3で!」
咲は予想外の事態に焦り、鉛筆を落としかけながら満に早く早くと促す。
「仕方ないわね、じゃあ問3。これはこの例題を使って……」
咲は満の話を理解するのは後にして、とにかく満の言っていることを書き写した。

……が、しかし。
「太田は今日は休みか〜、じゃあ伊東から問1、日向は問2……」
「え〜っ!」
楽をすると碌な目には遭わないのだった。


「咲ー、マジ相談。臨時会議」
数学の時間を何とか切り抜けて気の抜けた咲が机につっぷしていると、
仁美が困り顔でやってきた。
「ん〜、どうしたの?」
「篠原先生に聞いたんだけど、優子が休んでるのって例の風邪なんだって」
「あ、そうなんだ……大丈夫かなあ、結構大変なんでしょ?」
咲は教室を見回した。優子も含め2、3人が休んでいるので教室が少し空いて見える。
「うん、今日の帰り優子の家寄ってみるけど……で、そうすると今度の黒潮中との
 練習試合、優子出られないと思うんだよね」
「あっ……そっか」
咲はやっと仁美の言おうとしてることが分かった。
「うん、学校には来てるかもしれないけど試合にはマジ出られないと思って。
 ……で、キャッチャーどうする?」
「じゃあ二年の大原さんでいいんじゃないかな」
咲はすぐに決断した。キャッチャーはポジションとしては特殊だ。
外野などのポジションでは普段センターを守っている人がライトやレフトを守ることも
それなりに――もちろんそれ専門に練習している人には劣るにしても――、
可能なのに対し、キャッチャーはそういった融通がききにくい。

二年生の大原真由美は、来年以降の正キャッチャーとして練習に励んでいる。
大事な試合は基本的に咲と優子のバッテリーが出ることになっているので、
今度の練習試合に出るのは彼女にとってはある意味いいチャンスだ。

「ピッチャーはどうする?」
「え? ピッチャーは私じゃないの!?」
「うーんと、大原さんってあんまり咲の球受けたことないよね。
 大丈夫かな」
「何とかなるって! それに大原さんがやらなかったら誰もできないよ」
「ま、そうだよね……じゃあ今日の練習バッティング中心の予定だったけど、
 咲と大原さんはとにかくバッテリーとしてみんなとは別メニューで練習ってことでいい?」
「うん、そんな感じでよろしく」
「ひゅ、日向先輩! 伊東先輩!」
咲と仁美がそう決めたところで中二のソフト部員がはあはあと息を切らして飛び込んできた。
「宮崎さんっ!?」
「大変ですっ!! 中二のソフト部員がばたばた休んでますっ!」
「ええーっ!?」
咲と仁美の声が重なった。


とにかく放課後、部活の時間に確認してみると。
出場できそうなソフト部員は入ったばかりの中一を動員しても8人しかいないことが
分かった。
「仕方ないな。誰か助っ人を入れることにしよう。
 といっても、まず部員のポジションを決めないとな」
「ええ〜っと……」
篠原先生にそう言われ、各部員の普段のポジションを書いた紙を手に仁美が頬を引きつらせる。
かなりややこしいパズルを解かないと誰がどのポジションにつくのが一番いいか
決められなさそうだ。
準備練習を終えた部員一同が並ぶ前に咲が出た。
「え、えっと、各自の守備は今から考えるからとりあえず打撃練習!
 大原さんは私と一緒に練習!」
「はいっ!」
不安そうな顔をしていた後輩達がとにかく篠原先生の投げる球を打つために
グラウンドの隅に向った。

「じゃあ大原さんはこっちでまず軽くキャッチボールから始めようか」
咲がいつものグローブをつけ、ぱしんとボールをグローブの中に打ち付ける。
「は……はい!」
大原真由美は緊張してキャッチャーミット、それにプロテクターと完全装備する。
そういえば確かにこの子に投げるのは初めてだ、と咲は改めて思った。
大抵は同じ二年生のピッチャー、宮崎夏美と組んで練習している。
いつもより少し声が小さい気がするのが気になるが、まあすぐ慣れるでしょ、
と咲は思い肩を軽く動かすと、

「それじゃ、いくよー」
と、まず緩めの一球をぽーんと投げた。
「あっ!!」
「……え?」
咲が投げたボールは真由美のミットに素直に入るはずだったが何故か
後逸し、転々とボールは後ろに転がった。
「す、すみませんキャプテン!」
真由美は慌ててボールを拾いに行き、咲に投げて返す。
おっと、とバランスを崩しながら咲はそれをキャッチした。
「いいっていいって。初めてだもんね! じゃあ行くよー」
――もう少し緩くした方がいいかな……
咲はそう思い、ぽんと優しくボールを放った。
「きゃっ!!」
「……え?」
「すみませんキャプテン!」
「う、うん大丈夫、ドンマイドンマイ!」
咲と真由美の間ではこれが延々繰り返されていた。何度も何度も。

「……」
打撃練習に入っていた宮崎夏美はそれを見て思わずそちらに気を取られていた。
普段真由美とはバッテリーを組んでいるが、あそこまでひどいキャッチャーではない。
――どうしたんだろう、真由美……。
「宮崎っ、集中しろ!」
「はいっ!」
篠原先生に怒鳴られ、宮崎夏美は慌ててバットを握りなおした。

 * * *

「それでさ〜、満、薫」
部活を終えると、咲は仁美が考えた今度の試合のポジション表を持って
自分の家に直行していた。PANPAKAパンにはもちろん満と薫、舞が来ている。
咲は自分の部屋に三人を入れると、自分のベッドの上に座った満と薫に困ったような
笑顔を浮かべて話しかけた。
「……何?」
「ちょっとお願いがあるんだけどさ……、今度のソフト部の試合、
 二人に助っ人してもらえない?」
「ええ!?」
驚きの声を上げた二人の前で咲はぱちんと音を立てて手を合わせた。

「お願いっ! 最近風邪流行ってるでしょ? どうしてもメンバーが8人しか
 集まらなくて!」
「……でも、私たちソフトボールはやったことないわよ」
「みのりちゃんとキャッチボールを何度かしただけね」
満と薫が心配そうに答えるのに、
「二人なら大丈夫だよ!」
と咲は答える。
「ちょっと練習すれば、たぶんすぐ慣れるから! はいこれ、ルールブックも。
 二人ならすぐに覚えられるよ」
咲は何度も読んでよれよれになったルールブックを満の手に押し付ける。
「でも……」
「満さんと薫さんなら私も大丈夫だと思うわ」
躊躇っている満と薫の背中を舞がそっと後押しした。
「そうだよ、お願い! この通り!」
「……仕方ないわね」
「ありがとう、満っ!」
咲はぼんと満に抱きつくとすりすりと顔を押し付けた。
「ちょ、ちょっと咲!?」
「……ところで、どうして私たち二人が必要なのかしら?」
「へ?」
薫の冷静な声が満と咲の間に割って入った。
「8人居るなら追加で必要なのは1人でしょう?」
「あ……うん、それなんだけど」
咲は満から手を離すと薫に向き直った。
「もしかして、もう1人くらい出られなくなっちゃうかもしれないから、
 2人に一応準備しておいてほしくて……」
「お姉ちゃん、電話だよ」
みのりが部屋に入ってきた。
「私に?」
「うん。大原さんって人」
「あ、うん。すぐ出る」
よいしょっと咲は腰を起こすと、電話が置いてある部屋に向った。


「もしもし、大原さんどうかした?」
「あ、あのキャプテン……」
電話の向こうからは蚊の鳴くような声が聞こえてくる。ん? と咲は
耳をすませた。
「ご……ごめんなさい。何か体調が悪くて、私今度の試合出られそうにな……」
「えっ!? 大原さんも!?」
「え、ええ……」
「そっか〜、だから今日調子悪かったんだね」
「あの、ごめんなさい」
「うん、大丈夫大丈夫! 試合のほうは何とかするから、心配しないで!」
「すみません……」
「ゆっくり休んで、早く治してね!」
電話を切ると、咲はふうっと息をついた。満と薫、やはり2人ともに出場してもらわないと
間に合わない。

――キャッチャーは……薫の方がいいかな……で、満がショート、と……
明日の朝練から早速参加してもらおう。道具は学校にあるのを使うとして……と
考えながら咲は自室に戻った。

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