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「霧が……」
「濃くなってきたね」
空気の流れが止まったことで霧が谷に立ち込める。先ほどまで見えていた二、三歩先の木の姿が
霧に包まれ全く見えなくなる。

咲は後ろを振り返りぞっとした。これまで歩いてきた道も見えない。
来た道を戻ることもできそうになかった。

――どうしよう。
不安を押し隠すようにして、咲はひたすら前に進み続けた。と、舞の手がきゅっと強く
咲の手を握る。
「舞?」
咲が不安で一杯の目を舞に向けると、舞はかすかに笑っていた。
「大丈夫よ、咲」
「舞?」
この場所のことを舞は知らないはずなのに、そう咲は不思議に思った。
「咲と一緒だと、どんなことだって大丈夫って思えるの。きっと、ここもすぐ抜けられるわ」
「舞」
咲もまた、舞の手を強く握り返す。
「そうだね、舞。舞と一緒だったらきっと抜けられそうな気がする」
二人はまた前進を続ける。

「さ〜て、と」
谷一帯が濃霧に包まれたのを見て赤い髪の少女はううんと伸びをした。
「これでもうここからは出られないわ」
青い髪の少女――薫が感情の篭らない声で呟く。

人間達には知る由もないことであるが、この谷には異世界へと通じる口が存在している。
満と薫は人間達がこの谷に立ち入りその口を発見せぬよう見守る役目を請け負っていた。
多くの人間がこの谷で行方を絶ったことで、人間達がここには近寄らないようになり
二人の仕事もほとんどなくなった――のではあるが。

「そうね……、ね、薫。折角だからちょっと暇潰ししない?」
「暇潰し?」
「そうよ。人間が来るなんて久しぶりだもの」
「……どうでもいいわ」
興味なさそうな薫の言葉を同意と受け取り、彼女は薫と共に谷底へと降り立った。
咲たちの少し後ろだ。

がさりという音に咲と舞は立ち止まり振り返った。白い霧の向こうに微かに人影らしき
物が見える。

「誰?」
咲の声にこたえるように人影は近づいてきた。自分たちと同じ年頃の女の子であるのが
分かった時、咲と舞は少し安心した。

「あなたたちこそ、誰かしら」
赤い瞳が刺すような光を放つ。咲は、「ごめんね」と照れたように笑った。

「私は日向咲」「美翔舞です」
咲と舞が口々に答えるのを、赤い髪と青い髪の良く似た少女達はそれほどの興味もなさそうに
聞いている。

「あの、それで……あなたたちは?」
「私が満、こっちが薫よ」
恐る恐る聞いた舞に満がああ、といった様子で答える。

「えーと、満と薫もここで迷ったの?」
「あなたたちは?」
「私たちは……その」
咲と舞はちょっと顔を見合わせた。

「本当は向こう側の、蜘蛛の森の道を通りたかったんだ。でも、がけ崩れで通れなく
 なっていて」
「だから、谷に下りてきたの。そうしたら霧が出てきてしまって……」
満と薫は少し意外そうにその話を聞いていた。
白い濃霧は四人を包み込んでいる。こんな風にしていると、まるで世界中に四人しかいないような
錯覚に捕らわれる。

「満たちも、蜘蛛の森の方通りたかったんでしょ?」
咲に聞かれ、「え……あ、そうね」と満は曖昧にごまかした。

「あなたたちはその森を通ってどこに行こうとしてたの?」
「パンをおばあちゃん家に届けたくて」
咲は満と薫に籠を見せた。
「パン?」
「うん、うちで作ってるんだ! PANPAKAパンって知ってる?」
「ぱんぱか……?」
「夕凪にあるんだよ。もし来ることがあったら寄ってみて!」
「咲ったら」
舞が小さな声で笑い、咲は顔を赤らめた。ごめんね宣伝みたいになっちゃって、
でもすごくおいしいんだよ、と咲は更に付け加える。

「ねえ、二人もこの谷越えたいんでしょ?」
「まあ……」
「だったら、一緒に行こうよ! 四人で行ったほうが安心だよ」
――えっと? どうしよう。ちょっとからかうだけのつもりだったのに。
「満」
薫が軽く満の背中をつついた。
満にも薫の言いたいことは分かる。

――いつまでやってるつもり?

と薫は言いたいのだ。
「分かってるわよ」
満は薫にしか聞こえないように呟くと、逆に薫のわき腹を突付き返した。
「お願いね」
「……」
無言のまま薫はわずかに手を動かす。咲たちには満と薫が何をやっているのか
良く見えなかったが。
一陣の突風が巻き起こった。
「!?」
咲たちは思わず目を閉じる。その瞬間に満と薫は姿を消した。

「え!? 満、薫!?」
「満さん、薫さん!?」
風はすぐにまた消えてしまった。
目を開けた咲と舞は二人の姿がかき消えていたことに慌てる。
辺りを見渡すも、白い霧に包まれていて二人の姿はどこにも見えない。

「……」
無言のまま、二人は顔を見合わせた。


「暇潰し?」
梢の上に戻った薫はややきつい口調で満に問いかける。
「まあ、ね」
満はそんなことを気にも止めない口調で答えると、「でもあの子達、変なこと言ってたわね」
と続ける。

「変なこと?」
「向こうの森が通れなくなっていたとか何とか」
「ええ、そうね」
「この谷に人間を踏み入らせないために向こうの森はいつも通れるようにしておくことに
 なっていたはずよ」
「ドロドロンが何かしたかしら」
「……見に行かないと」
満と薫は木の上から飛び上がるとすぐに森に向った。森の手前で人間達が
右往左往しているのが見えた。

「人が溜まってるわね。この分だと、あの子達以外にも人が来るかもしれないわ」
「……ドロドロンは?」
人間には興味がないというように薫はドロドロンを探している。

「いた、あそこ!」
森の片隅に一際目立つ赤と青の怪人を見つけて二人はそのそばにと降り立った。

「ドロドロン!」
「わっ!? なんだ、満と薫か〜、おどかすなよ」
「なんだじゃないわよ、どういうこと!?」
「ど、どういうって?」
満の剣幕にドロドロンは今にも地下にもぐりこみそうに見える。

「ここが通れなくなってるそうね」
薫が静かな口調で言うと、ああ、そのこととドロドロンは答えた。

「うん、雨で気持ちよかったからちょっと目を離してたらあんなになっちゃった」
「私たちの方に人間が来て困るんだけど?」
「え? そっちに?」
満の言葉にドロドロンはきょとんとした表情を浮かべ数秒間考える。
「ああそうか、こっちが通れなくなっちゃったからそっちに行っちゃったんだ」
「迷惑だから早く何とかして」
「うーん、今、人間達がどうにかしようとしてるみたいだけどしばらく時間がかかりそうだなあ」
きっと満と薫がドロドロンを睨みつける――と、ドロドロンはああもう、分かったよと答えた。

「少し手伝って早く終わらせてやればいいんだろ?」
「そうよ。早くして」
満の言葉を残して二人の姿はドロドロンの前からもかき消えた。

「あーもう、あいつら、いつも勝手なんだよなあ。僕にばっかり仕事押し付けて
 いくんだから」
ぶつぶつと一人で呟いていたが、やがて諦めたようにがけ崩れの現場に向って移動し始めた。


「あっちはこれでいいとして……」
谷の木の上に戻ってきた満が呟く。
「こっちはどうする?」
「こっちって?」
「あの子たちよ」
満は軽く顎で下を指した。

「どうでもいいわ」
「そう」
満にとって薫のこの回答は予想の範囲内だった。ここに入ってきた人間達がその後どうなるかなど
気にする必要はない。

「そうね」
改めて答え、満は枝の上に座り直す。……と、下からかすかに声が聞こえてきた。

「満ー!」「薫さーん!」
何? という表情で満と薫は下を見る。霧に包まれ、良くは見えないのだが。

咲と舞の二人は、手を繋いだまま満と薫の名前を呼んでいた。
「見つからないわね」
「うん、でも、どうにかして探さなくちゃ! こんなところでずっと迷ってたら
 絶対不安だよ! もう暗くなって来ちゃったし……早く二人のこと見つけないと!」
咲の言葉にええ、と舞は頷き再び名前を呼び始める。

上空で満と薫は呆れたように顔を見合わせた。
「……何がしたいのかしら」
「私たちの事を探したいらしいわね」
薫の言葉に答えながらも、満も「何がしたいのかしら」と思っていた。
――「ずっと迷ってたら」って、迷ってるのはあの子たちじゃないの。
  他人の心配をする前に自分の心配を……

妙に説教くさい事を思ってしまった自分に苦笑する。

「満?」
そんな満に薫が怪訝な表情を浮かべる。
「薫……、人間って少し見ないうちにずいぶん変わったみたいね。
 あんなにお人よしな人間、見たことないわ」
「そうね。……人間が変わったのか、あの子達が変わってるのか分からないけど」
「どうする?」
「どう、って?」
「このままにしておいてずっと名前を呼ばれているのも面倒だわ」
「そうね……」
満のしたいようにしたら。投げやりともとれる薫の言葉を聞き、満は薫の手を取って
再び地上へと降り立った。

「満ー!」
「咲、あそこ!」
満たちを捜している咲の少し前方に降り立つと、初めに気づいたのは舞のほうだった。
人影に駆け寄ると、その姿は捜し求めていた満と薫だった。

「よ、良かった、満と薫、ここにいたんだ」
「あら? どうしたの?」
満がしれっとした表情で答える。
「はぐれちゃったから心配になって」
ふうんと興味なさそうに満は呟いてから――薫のわき腹をそっとつついた。
薫は握っていた手をゆっくりと開く。最初は誰も気づかないほどの静かな風だったが、
柔らかく広がったそれは少しずつ霧を払っていく。
頃合を見計らって満も手に力を込める。すでに天空に輝いていた月がわずかに
その光を増す。薄くなった霧を通して咲たちにもその光が届くくらいに。

「月が見えるわ!」
差し込んできた光に舞が思わず叫んだ。これまでずっと白い世界にいたというのに。

「これなら、いけるね!」咲と舞は顔を見合わせてにっこりすると方角を定め、さあ行こう――
として、満と薫を振り返る。

「一緒に行こ! 今ならここ、抜けられるよ」
「私たちは行かないわ」
笑顔でそう答える満と薫に、咲と舞はえっと驚いた表情を浮かべる。

「な、なんで!? 今、行かないとまた出られなくなっちゃうかもしれないよ!?」
「なんでって……」
――あんまり深く考えてなかったけど。まあ、この子達を納得させられればいいんだから……、
「方向が違うみたいだから。私たちの行きたい場所とは」
満がそう答えると、咲と舞は初めて腑に落ちたような顔をした。

「四人で行った方が安心だと思うけど……」
舞はそう言いながら月を見上げる。
「でも、これくらい明るかったら二人でも大丈夫かなあ」
同じように月を見た咲が続けた。満はその言葉にようやく胸を撫で下ろす。

「じゃあさ、この谷抜けて用事がすんだら、きっとうちに来てね。夕凪の、PANPAKAパン
 って言えばたぶん分かるから!」
「そうね……」
そうするわ、と満が答えると「じゃあね!」と咲と舞は手を振って駆け出して行こうとする。
「待って!」満の声が止めた。

「どうしたの?」
「……もう、この谷に来てはいけないわ」
「うん! 満たちもね!」
元気に答え、咲と舞は再び駆け出す。
その姿が霧の向こうに消えるのに時間はかからなかった。
薫が風を止め、谷は再び霧に包まれていく。

「満……本当に夕凪って所にいくつもり?」
「……気が向いたらね」
そんな囁きを遺して満と薫の姿も霧に紛れて消えた。

――霧生の谷。
夕凪地方の近くに存在していたと言われる、旅の難所である。
ここで行方知れずになった旅人は数知れないという。
その一方、たまに気まぐれな風や月が旅人を助けたという話も残っている。

 柳田国吉「夕凪地方伝承」より――


-完-

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