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「咲、お願いがあるんだけど」
「なあに、お母さん?」
自宅で咲は母親に手招きされて駆け寄った。

「このパンをおばあさん家に届けて欲しいの」
「おばあちゃんのところ?」
確認すると、ええと母は頷く。
「楽しみにしていらしたから、なるべく早くね」
「うん、分かった。じゃあ、行って来るね」
咲は母からパンを入れた籠を受け取ると、待ちきれないように飛び出す。

「待って咲!」
母の声が咲を追いかけ立ち止まらせた。

「なあに?」
「分かってると思うけど、途中、谷の方に入ったら駄目よ」
「うん、分かってる! じゃあ行ってきます!」

咲は改めて出発した。

咲の家はパン店を営んでいる。少し遠くの町や村からも買いに来る人がいるくらい、
その味には定評がある。
「おばあさん」は咲の父方の祖母のことだ。咲の家から見ると、小さな山を一つ
越した村に住んでいる。息子が作るパンが好きなので、咲たちが届けに行くことも多い。
今日見られたのもそんな、ごく普通の光景だった。

町をしばらく歩いていると、咲は前から舞が小走りにかけてくるのに気づいた。

「あ、舞。どうかしたの? そんなに急いで」
「ううん、咲のところにいこうと思ったら咲が歩いてくるのが見えたから」
軽く息を切らして舞は答えた。最近めっきり寒くなったので息が白く見える。
「咲はどこいくの?」
「おばあちゃんのところだよ。パン、食べたいみたいなんだ」
咲は籠を舞に見せる。
「お使い?」
「うん、そうだね。舞、私に何か用事があったんじゃないの?」
ううんと舞は首を振った。
「咲とちょっと話したくなっただけなの」
「あ、もし良かったら、これから一緒に行かない?」
咲は人のいい笑いを浮かべて舞を誘う。

「え? でも、おばあさんのところに行くんでしょう?」
「うん、少し時間かかっちゃうから舞が忙しかったら止めておいたほうがいいかも」
「行ってもいいの?」
「もちろん! おばあちゃんにも舞のことたくさん話してあるから、舞のこと見たら
 喜ぶと思うよ」
「じゃあ、一緒に行くわ」
舞は咲の笑顔に釣られるようにして嬉しそうに笑った。

咲たちのすむ町を出るとすぐに欝蒼とした森の中に入る。咲たちにとっては
なれたものだが、初めてここに来た人は迷うこともあるそうだ。

森の木々の多くは枯葉を落とし、すっかり冬支度を終えている。
少し寂しくも見えるその空間を咲と舞は二人きりで歩いていた。
「……でね、みのりったらこんなこと言うから……」
語り手は主に咲。舞はうんうんと頷きながらそれを聞いている。
「……そういえば、舞。私に話があったんじゃなかったの?」
あるところで咲がごめんね、と言うように尋ねた。ううん、いいのと舞は首を振る。

「何か話すことがあるっていうより、咲と話してると楽しいから話したかったの。
 咲と話していると、なんだかとても楽しい気持ちになれるから」
そうかな、と咲は少し不思議そうな顔になったものの、次の話を始めた。
「そういえば、この前の……」

二人がそんな風に歩き始めてから小一時間。上り坂の少しきつい場所を越え、急に視界が
開けた。
そこにはこの辺りに来た人に向けた立て札が立っている。右に向いた矢印の下には「蜘蛛の森」、
左を向いた矢印の下には「霧生の谷」の文字が書いてある。咲は迷わず右を選んだ。

「こっちなの?」
「あ、舞はこっちの方に来たことないんだっけ」
咲は立て札の前に立ち止まると左の方角――霧生の谷の方に向いた。

「こっちの谷はね、すごく危ないから行っちゃ駄目ってみんなが言ってるんだ。
 地図を見た感じだと、谷を通っていった方が近いんだけど」
「そうなの」
舞も左手を見る。緩やかな下り坂が続いている。先がどうなっているかまでは見えないが、
それほど危険そうにも感じられないが、人は誰も歩いていない。

「こう見ると、普通の道みたいに見えるんだけどね」
咲と舞は右方向にゆっくりと歩き始めた。
「危ないって、何があるの?」
「私も分かんないんだ」
咲が恥ずかしそうに答える。
「お母さん達も、何が起きるのかは知らないみたい。昔からずっと言われてるんだって」
「へえ……そうなの」
――もしかしたら、今行ってみたら危険なことなんて何もないのかもしれないけど……
咲の心にふとそんな考えがよぎる。だがそれを振り払い、咲は蜘蛛の森に向って歩みを進めた。

だが、二人の歩みはしばらくいったところで止まった。二人の前にあるのは
「蜘蛛の森、がけ崩れにより通行止め」
の立て札だ。

「ここ、今通れなくなってるんだ……」
札の向こうの森を見ると、暗く沈みこんでいる。時折がけ崩れをどうにかしようと働いて
いる人たちの声が風に乗って聞こえてくる。

「通れそうにないわね」
咲と舞は顔を見合わせた。さて、どうするか。道は二つ。
このまま村に戻るか、霧生の谷に行ってみるか。

「……行って、みる?」
咲にしてはめずらしく躊躇いがちな言葉だった。だが、舞の表情がそれを後押しする。
咲のことを信じているような、二人だけで知らない場所に行ってみたいというような、
そんな表情だと咲には思えた。
「ちょっとだけ、行ってみよう。危なかったらすぐ戻ればいいんだし」
「ええ」
舞は静かに頷くと、咲の手を取った。そのまま、二人は足を谷の方に向けた。


緩やかな下り坂には冬に似つかわしくない花が色とりどりに咲いている。
どこか緊張した面持ちで二人は歩いていたが、その色を見ていると気持ちが和んだ。
あるところから下り勾配がきつくなる。花もその頃にはなくなってしまい、
枯れ草が辺り一面に広がっていた。どこか寂しい光景に、咲と舞は思わず手を強く握り合う。

「本当に、最近は誰も来ていないのね。人の歩いた跡が全然ないわ」
「そうだね。最後に人が歩いたのはいつ頃なのかな?」
うっすらと靄が広がってきた。少し寒くもなってきたようだ。身を寄せ合うようにしながら、
二人は前進を続けた。

下り坂の終る頃、森へと二人は入っていった。
夏なら緑の葉が生い茂っているのだろうが、今はどれもこれも裸の木だ。
白い靄のせいで木の上の方までは見通せない。咲はふと、後ろに目をやった。
枯れ草の広がる坂はちゃんと見える。少し安心し、また視線を戻す。


――ふ〜ん……。

咲たちが歩いているそばの木の梢でわずかに空気が揺れた。靄に視界を遮られて
しまっている咲たちには気づきようがなかったが。

わずかな揺らめきはすぐに大きくなり人の形を取る。地上から遠く離れた高い枝の上に
赤い髪の少女の姿が生まれる。

「久しぶりの乱入者よ、薫?」
彼女の言葉に呼応するようにもう一つの揺らめきが生まれる。青く長い髪を伸ばした少女の
姿がすぐに現れた。
もう一人の少女の指す先にいる咲と舞の姿を青い瞳が捉える。
くすくすくすと赤い髪の少女が笑った。

「ここには人間は立ち入っちゃいけないって、教えないとね」
ね? と促すように青い髪の少女を見やる。彼女は無言のまま、開いていた掌をきゅっと握った。

風が動きを止める。
谷の間をわずかに揺らしていた風が完全に死に絶えた。その影響はしばらくして下の咲たちに
現れた。


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