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美翔舞は夕凪の村を出て以来一人でとぼとぼと歩き続けていた。初めは走っていた。
故郷への思いを断ち切るために走っていた。
大分離れてから一度止まり、今度は歩き始めた。歩いても今日の日没までには
十分間に合う。生来、舞は神経質な性質である。十分間に合うと分かってはいても
どこか不安でつい走り出しそうになる。舞はしかし、はやる気持ちを抑えた。

ダークフォールまでの道のりは長い。咲と違い普段あまり運動をしない舞が
いきなりそんな距離を走ろうとすれば途中で疲れきってしまって
立ち止まってしまうことになるに決まっている。
そんなことになれば元も子もない。舞は一歩一歩、着実に歩んでいく道を選んだ。
確実に咲を助けるためにはこの方がいい。

しかし舞の足は川の手前でぴたりと止まった。
舞はそこで叫びだしそうになった。昨日の雨で川の水量が増え、いつも穏やかに流れているはずの川が
轟々とうなりを上げて逆巻いている。
普段渡っている橋の姿がどこにもない。流されてしまったのに違いない。

舞はあたりを見回した。渡し舟や渡し守の姿を探した。しかしそんな者はどこにもいない。
舞は天を仰いだ。昨日とはうって変わった青い空が広がっている。
空は平和であった。舞をあざ笑っているほどに平和であった。
いよいよ、舞は覚悟を決めた。こんな状況になっているのであれば泳ぐより他に仕方がない。
舞は服を脱ぎ、頭の上にまとめるとざんぶと川の中に飛び込んだ。
初夏とはいえ水は冷たい。川の力は激しく、舞を押し流そうとする。
舞は闇雲に手足を動かし水を押しやり前へ進もうとした。力を抜けばすぐに流される。
力を抜かずとも、舞は流されていた。川はその本性に従い舞を川下へと押し流して行く。
もう舞の頭は真っ白になって何も考えていなかった。
ただ無我夢中でもがき、水を掻き、対岸を目指していた。
そんな舞の姿を、哀れに思うものがあったのであろうか。
舞の手は辛うじて対岸から水面に伸びる木の枝を掴んだ。そのまま一気に
自分の身を対岸へと引き上げる。

舞は服を着、しばらくの間対岸で転がっていた。何もする気になれなかった。
身体を休め、それからゆるゆると立ち上がった。
大分下流に流されてしまった。早く元の場所まで戻らなければいけない。
ここからはダークフォールに行く道がない。舞は川に沿って、よろよろと歩き始めた。
すぐに足が何かに引っ掛かって転びそうになった。
段差があったでもない、穴が開いていたでもない。
ただ自分でよろけたばかりだ。足を引きずるように歩いていると木の枝が折れかかっているのを
見つけた。
「ごめんね」
呟いて枝を完全に折り取り、杖代わりにする。少しましになった。
道はまだ遠い。先ほどの泳ぎで荒れた息は、少し歩いただけでもすぐに乱れ始める。

舞は数歩歩いては立ち止まり、また歩いては立ち止まり、を繰り返した。
こんなことをしていたら間に合わなくなるかもしれない。
そんな思いが頭をもたげてくる。
どれほど下流に流されてしまったのか、それも今の舞には分からない。
走ろう。これでは間に合わないかもしれない。
そう思って足を動かそうとしても、足はのたのたと動くばかりでもどかしい思いばかりが
募っていく。よたよたと、舞は歩き、走ろうとし、しかし走れず、ある場所で完全に
座り込んだ。

――咲……ごめん……

舞は諦めかけた。このままここで座り込んだまま眠ってしまおうと思った。
目が覚めたときにはおそらく日没は過ぎている。王との約束には間に合わない。
舞は一番の親友を失い、そして夕凪の村にもおそらくは居られなくなる。

それでもいい、舞はそこまで思った。それでもいい、なるようになってくれれば。
舞には似合わぬ投げやりな考えが舞の思考を支配していた。
どうでもいいわ、そんな言葉も舞の中に浮かんできていた。


「わっ!?」
背後から現れたのは薫だった。薫もここに舞が居るとは予想していなかったようで
ひどく驚いていた――とりわけ、舞の様子に。

――まさか、舞だったなんて。
薫は誰かの気配を感じてここに来たのだった。

「はい」
近くの湧き水から汲んできた水の入った水筒を舞の顔の前に差し出すと、
舞は出されるままにこくこくと飲んだ。
水が舞の身体に吸収されていく。
疲労が少しずつ取れていった。それと同時に頭もはっきりとしてくる。

「あ、あれ薫さん……どうしたの」
「どうしたのって……舞、あなたこそどうしたの。そんなに……ぼろぼろになって」
薫が見た舞の姿はこれまでに見たことがないものだった。
薫の知る舞は、いつでもこざっぱりとした清潔な服を着て、髪も丁寧に結い、
にこにこと笑っていた。
しかし今はひどく汚れた服を着、髪も乱れたまま、どこかうつろな目をしている。

「泳いだら、疲れちゃった」
「泳いだ!?」
薫は眼前に流れる川を見た。川は変わらず、容赦なく自分の行く手にあるものを流している。
「なんて無茶な」
「でも……咲が待ってるから」
自分で言った言葉に舞の目の色が変わった。そうだ、咲が待っている。
咲が私を待っている。私の事を信じて待っている。

「薫さん……」
舞は手を伸ばし、薫の腕に掴まってようやく立ち上がった。再び杖としていた木の枝を
握り締める。

「ちょっと、どうする気」
「行かなくちゃ。咲に会うために。咲を助けるために……」
「止めなさい」
薫は舞の腕を掴み、引き止めた。
「行ったって何の意味もないわ」
「そんな……ことない」
舞は薫の腕を振り払うことなく、むしろこのまま薫も一緒に連れて行く、と思ったかのように
そのまま前に進もうとした。

「止めなさい」薫が繰り返す。
「いや」
「止めなさい。無茶よ。そんな様子じゃとてもダークフォールまでたどり着かないわ」
「いやよ……」
舞は引きずられるようにして薫の腕の中に倒れこんだ。

「お願い、行かないといけないの私は。咲が待ってるから」
「どうしてそんなになってまだ行こうとするのよ」
「だって……もし咲なら、必ず来てくれるから。だから私も行くの」
「止めなさい。咲は今、満が逃がしているはずよ」
「満さんが?」
初めて舞が薫の顔を見た。

「そう。だからあなたが行く必要はないわ。舞はここでゆっくり休んで、
 水が引いたら夕凪に帰ればいい。そのうち満が咲を連れて来るでしょう」
「……」
舞は迷った。このまま薫の言葉に従い、休んでしまいたいと強く思った。
だが――、

「駄目よ。それだと王様はやっぱり人間が信じられないまま」
「そんなのどうでもいいでしょう。放っておきなさい」
「ううん、駄目なの。咲もそのことを知っているから」
「え?」
「咲もそのことを知っているから。咲は満さんに逃がしてもらえるって言われても……、
 きっと逃げてないと思うの。私を待っていると思う」
「満が咲を殴ってでも牢から連れ出しているかもしれないわ」
「……満さんや薫さんにそんなことはできないわ」
薫は戸惑った。自分の腕の中で、今にも倒れそうになっている癖に舞の言葉には
迷いがなくどこか辛辣でさえあった。

「どうして。私だって今ここで舞を張り倒して止めたっていい」
「あなた達は、人の気持ちを尊重する人たちだもの」
確信を込めて舞は言った。舞にとってそれは自明のこと、晴れた日の空が青いのと
同じくらい当たり前のことだった。

「あなた達には、強い意志を持っている人を無理やり止めることなんてできない。
 だから、満さんも咲を逃がしてないわ」
「……」
「薫さん、さっきのお水と、それと、私たちのこと考えてくれてありがとう。  満さんにも伝えておいて。  あ、それとみのりちゃんが薫さんに会いたいって言ってたわ。  いつか行ってあげてね。じゃあ、私行くね……」
するりと舞は薫の腕の中から抜け出した。そのまま数歩、歩みを続ける。

「分からず屋っ!」
薫は珍しく大声を出した。小走りで舞に追いついた。
「乗りなさい、舞」
舞の前にしゃがみ、背中を見せる。
「え?」
「乗りなさい。早く。このままじゃ間に合わないかもしれないわ」
「え?ええと……」
戸惑いながらも舞は薫の背中に負ぶさる。薫は立ち上がり、そのまま再び駆け始めた。
来たときよりも速度は遅い。しかし先ほどまでの舞の歩みに比べれば十分に速かった。

――満、あなたが本当に咲を逃がせなかったとすれば……、
薫は考えていた。

――その時には、舞が行かなければ何もかも最悪の形で幕を下ろしてしまうわ。

薫はひた走りに走り続ける。


満と咲は牢の中で何人かの足音が近づいてくるのを聞いていた。
「満、この中にいたらまずいんじゃない?」
「いや……いい」
咲に色々な事を吐き出した満は既に覚悟を固めていた。
薫は舞を引き止めただろうか。止められていないだろうか。どちらにしろ、
満のすることは決まっていた。

「み、満様!?」
咲を連れに来た兵士達が牢の中の満を見て驚愕する。
「何故このような場所に!?」
「旧友と話をしていたのよ、悪い? あなた達こそ何をしにここに来たの」
「アクダイカーン様の命により、日向咲を刑場まで護送します」
「――このまま帰りなさい。まだそんな時間ではないはずよ」
「我々はアクダイカーン様より直接命令を受けております。満様の命令でも、
 それに背くことは聞けません」
満は下唇の内側を軽く噛んだ。

「咲。少しの間だけ、我慢してもらえる?」
「大丈夫だよ、満。私なら」
「いいわ。連れて行きなさい。ただし、私も行くわ」
満は兵士に冷たく言い放った。
「それはアクダイカーン様のご命令を受けてのことですか?」
兵士の一人が満に皮肉交じりに問いかける。ふん、と満は鼻であしらい答えなかった。
咲は再び縄を打たれ、牢から出された。満は黙ってついて行く。

満も咲も驚いたのは、刑場に既に多くの見物客が集まっていたことだった。
市中に知らせが出たようである。アクダイカーン様に逆らった、よりにもよって
人を信じろなどと言った不届き者の仲間の処刑を皆が見に来ている。

日は傾いている。日没まであと数時間だ。
――舞……薫……
満は祈っていた。誰かに祈るのは久しぶりだ。

磔にするための十字架が立てられる。処刑の準備は刻一刻と進んでいた。
その様子を眺めている咲に群集から時折嘲りの言葉が浴びせられる。
咲は笑っていた。怒ったり悲しんだり、そういった様子を見せることはなかった。
咲はただ、笑っていた。何かを捨ててしまってすうと身が軽くなったというように、
笑っていた。

日は落ちようとする。アクダイカーンが刑場にその姿を現した。そこに居る全ての者が
静まり返った。

「処刑の用意を」
アクダイカーンが右手を挙げた。咲の傍に居た兵士達が咲を縛っていた縄を解き、
剣を突きつけながら咲を十字架の方に進むよう促す。

「お待ちください!」
満が大音声で叫んだ。走りこみ、十字架の元に跪きアクダイカーンに向かって頭を垂れる。
王の親衛隊として恐れられ高慢とも思われていた満のその姿に群集からどよめきが漏れた。

「何の真似だ、満」
「わ、私も薫もこれまでアクダイカーン様に忠誠を誓ってまいりました。
 ですから、どうぞ、お願いです、私の願いをここでお聞き届けください」
「ほう?」
興味深げにアクダイカーンは問い返す。
「どのような願いか、言ってみよ」
「ありがとうございます。アクダイカーン様、どうぞ昔のアクダイカーン様にお戻りください。
 アクダイカーン様は昔、人を信じ民を愛する優しいお方であったと聞き及んでおります。
 どうぞ、昔の姿にお戻りください。そして、咲と舞の事をお許しください」
アクダイカーンの赤い目が燃え上がった。群集も、咲も、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。

アクダイカーンは燃え上がる目で満の姿を見ていた。満は頭を下げたまま、尚も続けた。
「アクダイカーン様、私も薫もこの身のある限りアクダイカーン様への忠誠を誓います。
 今後とも、アクダイカーン様のご命令は必ずや遂行いたします。
 ですから、どうぞ、私のこの願いを」
「満」
アクダイカーンが地を這うような低い声で言った。
「はい」
「顔を上げよ」
言われるままに顔を上げた満は、アクダイカーンの目を見て蒼白になった。

王の目が燃え上がっている。怒りの目である。他の誰でもない、満に向けられた怒りの目である。

「お前にとってその者は何だ。なぜその者が処刑されるとなってそんなことを言う。
 答えてみよ」
「さ、咲と舞は……」
満は目を伏せた。
「私の、私と薫の古くからの友人です」
「友人?」
「はい、私たちが夕凪に暮らしていた頃から仲良くしております」
「馬鹿者っ!」
アクダイカーンの言葉と共にその手から鞭のようなものが放たれ満の身体は弾けて地面に
どうと倒れ伏した。群集から悲鳴が漏れる。

「満っ!」
咲は倒れた満の傍に駆け寄ろうとしたが兵士に留められた。

「ア……アクダイカーン様、どうか私の話を……」
「満、友人などというものを信じるな。良く見ているがよい。愚か者め。
 この者の友人は戻ってくるなどと言っておったが、見よ、もう日は沈む!
 もはや陽は半分以上も地の下に隠れているではないか、満、
 人を信じよと、そんなことができるはずもあるまい。
 お前と、それからここにいる全てのダークフォールの民に告げる。
 人とはこのように、信じられぬものよ。
 ここにいる愚か者のように、口先ばかりの友人とやらの言葉を信じれば
 その身を滅ぼすばかりだ。処刑の用意をせよ! 日向咲、お前は身をもって
 人間が信じられぬことを証明して見せた。例を言うぞ」
「舞は来るよ」
咲は底抜けに明るい、愚かしいとも思えるほどの楽天的な声で言った。

「舞は来る。絶対来る」
「言っておれ! 愚か者が」
「アクダイカーン様、おやめください、どうか、咲を殺さないでください、
 殺すな、やめろ!」
アクダイカーンの足元に縋り付こうとした満は再び地に転がされた。
王の指示を受けた兵士達が満の両の腕を捕らえて引き立てる。
「霧生満、お前の処分は後で下す。今はそこで見ておれ!」
咲はいよいよ十字架に掛かることとなった。日はじりじりと沈み、
今は頼りない一筋の光を刑場に投げかけるばかりである。

処刑の際いつもそうなるように、刑場は水を打ったように静まり返った。

「待て!」
群集の後ろから薫の声がした。皆一斉に振り返った。
「処刑は中止だ。美翔舞は、ここに居る」
舞は薫の背中から降りると、力を振り絞って咲の元へと小走りに走った。
群集が左右に開いて道を開ける。兵士達に左右を囲まれた咲に、舞は抱きついた。

「ごめんね……ごめんね、咲」
舞の様子から、詳しいことは分からなくても大きな困難を乗り越えてきたことは
見ている者たちにも伝わってくる。
あっぱれ、許せ、と言う声が群衆の中からもれ出た。声は次第に大きくなった。
薫が満の傍に寄ると、気迫に押された兵士は満の腕を放した。
薫が倒れる満を受け止める。

「謝ることないよ、舞、ちゃんと来てくれたんだもの」
「咲。でも私は、一度諦めかけたの。だから……」
「ううん、でも舞は来てくれた。だから、いいんだよ」

「薫……結局、舞を止めることはできなかったのね」
満は薫に囁いた。
「満だって、咲を逃がすことはできなかったじゃない」
「私たちはいつだってあの二人に巻き込まれて……」
「そう、そしてなぜかあの二人の考えることに協力させられているのよね」
二人は顔を見合わせて苦笑した。

群集からはやんやの喝采が止まらない。アクダイカーンは威厳を取り戻すように
一つ大きな咳払いをした。

「日向咲、美翔舞。見事であった。まさか本当にやってくるとは思わなかった」
人々は次第に静かになり、王の次の言葉を待っていた。
「お前らの望みは叶ったぞ。お前らは、我の心に勝った。
 どうやら人とは、信じられるものであるらしい」
どっと群衆の中から歓声が沸き起こった。

「万歳、アクダイカーン様万歳」
王は上機嫌にそれを聞いていたが、再び口を開いた。

「我もまた人を信じてみよう。部下達が大きな事を言う割にちっとも任務を果たしてこないので
 人を疑い始めたのだが。満、薫、お前達に任せてみよう」
「はっ」「なんなりとお申し付けください」
薫と満は王の前に進み出た。




「満の傷が癒え次第、泉の郷に赴き太陽の泉を奪って参れ」
「……えっ?」
<完>


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