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目が覚めると大粒の雨が窓を叩いていた。舞は暗く濁った空にどこか不吉なものを
覚えたが、絵に向き合った。
絵が一通りの完成を見たのは翌日の夕方である。絵具が乾くのを待ち、
舞はキャンバスを持って兄の部屋を訪れた。

「お兄ちゃん、はいこれ。先に渡しておくね」
「ん? ああ、これ……この前から描いてた」
「うん、本当は結婚式の日に渡そうかなって思ってたんだけど、忙しそうだから
 先に渡しておいた方がいいかなって」
それは本当だった。こんなにも早く渡す予定ではなかったが。

「そう。ありがとう」
絵の中の和也と婚約者は微笑んでいる。色の雰囲気は、いつもの舞の絵と比べて
少し荒い。
「新居に、飾るよ」
「……ちょっと恥ずかしいかも」
「そんな風に思うことはないよ」
「あ、そうだお兄ちゃん」
舞はぽつりと言った。
「ん?」
「半年くらい経ったら、ニスを塗っておいてね。その方が油絵らしくなるから」
「舞が塗ってくれるんじゃないの?」
「……え、ええと、それは」
舞は言葉に詰まった。元々、嘘をつくのは上手くない性質である。

「僕の手でこの絵を完成した方がいいってことかな」
「そ、そう! そういうこと!」
舞は和也の出した助け舟にすんなり乗った。
「これはお兄ちゃんたちの絵だから、お兄ちゃんたちが最後の仕上げをした方がいいと思うの!」
「そう、分かったよ。じゃあ、半年後くらいに塗っておくよ」
「うん、お願いね」
舞はまじまじと兄の顔を見た。こうして落ちついて顔を見ていられるのは
今日が最後なのだと思った。

「どうしたの?」
「ううん、お兄ちゃんとこんな風に話できるのも……」
「何だ、結婚はまだまだ先だよ」
「うん、そうね」
ぽろっと言ってしまった言葉に舞は内心慌てたが、兄がうまく誤解してくれた。
「じゃあお兄ちゃん、後はよろしくね」
「ん? ああ、絵のことか。やっておくよ」
絵のことだけではない。この際、絵などどうでもいい。
お父さんとお母さんのこと。それを舞は頼みたかった。
けれどもそれを言うわけにはいかない。
舞は退散するように兄の部屋を出た。短い会話を交わしただけなのにぐったりと疲れていた。

本当はもっと、きちんと話しておくべきことがある。
けれどもそれを口にしてしまうと挫けそうだった。負けそうだった。
だから、何もいえなかった。舞にできるのは、ただ、全てのことが終わった後
兄が今の会話の意味を察してくれるのを祈ることばかりだ。


自室に戻ると、舞は深い眠りへと落ち込んだ。翌朝、舞は家族の誰にも会わないように
こっそりと家を出た。雨は既にやんでいた。湿った土の上を舞の足が踏みしめていった。


満と薫は王から命ぜられた仕事を終え、血塗れた手を洗いわずかな時間仮眠を取ると、
むっくりと起き上がった。
寝床の上でしばし顔を見合わせ、部屋を出ると互いの目的地へと向かうため
ばらばらの方向へと歩んでいく。

これからのことについては仕事の合間に相談した。
することは決まっている。問題は、うまくいくかどうかだ。
満も薫も、そのことについてはあまり自信がなかった。しかし、それしかない。

満は背後の薫の気配が次第に薄くなっていくのを感じていた。
薫と別行動をとるのは久しぶりだ。夕凪村に居た頃は気ままに行動していたものだが、
こちらに戻ってきてから、働くようになってから、ことに最近は、
いつも薫と二人で居た。それは自衛であったような気もしている。
しかし今は薫と離れなければ仕方がなかった。

足音を立てないように歩く。これもいつの間にか癖になっていた。
薄暗い、あまり使われていない階段を静かに降りて行く。ここを使うときは
いつも碌なことがない。今回も。

目的地に着き、満は一度息を整えた。意を決し、
「咲」
牢の外から呼びかける。
地下牢は初夏でも寒い。薄手の服を着た満は、この中で寝るのは寒くて辛いだろう、
と思っていた。
それにしても返事がない。

「咲」
少し声を大きくしてみる。また沈黙が続く。もしや既に刑が執行されたのでは、
満の鼓動は速くなった。
適当な理由をつけて手に入れた牢の鍵を取り出すと慌しく鍵穴に差込み開ける。

「咲!」
小声で、しかしはっきりとした声で呼んでみる。人の気配は、感じられた。
息も聞こえる。安らかな寝息が。
「この非常時に寝てるんじゃないわよ!」
腹が立ったので頭をはたいて起こした。

「う〜ん……。ん? あれ? あ、満、久しぶり」
「あのねえ。何でそんな気持ちよさそうに眠っているのよ」
「え、だって、夜だし」
「こんな状況で」
「どんな状況だって、夜は寝なくちゃ」
「……咲。大物って言うか、単に図太いだけって言うか……」
「なんか言った?」
「別に」
「ん? あれ、そういえば何で満がここに」
「咲と舞が大変なことになってるって聞いたから来たの」
満は一つため息をついた。この会話は何だ。まるで自分が事件に巻き込まれたみたいに慌てていて、
当の咲は妙に悠然と落ち着いて構えている。

「へえ、誰に聞いたの?」
「知り合いから。もう、ダークフォール中の噂になってるわよ、咲たちのこと」
「え? へえ……まあ、舞の行動ってたまに激しいから」
他人事のように咲は言う。咲の行動もどうかと思うわ、と満は言い、
本題を切り出した。

「咲。逃げて」
「え?」
「私はあなたを逃がすために来たの。ダークフォールを出るところまで送るわ。
 そうしたら夕凪に帰って」
「でもだって、私を逃がしたりしたらアクダイカーン様、怒るでしょ?」
「いいから。後は私と薫がなんとでもするから。とにかく逃げて、咲」
満は牢の外に出ると、そこから咲に手招きした。しかし咲は動こうとしない。
その目は悲しそうに、しかし何かの確信を湛えていた。

「どうしたの?」
満は再び咲の傍へと戻る。
「駄目だよ、満。私、逃げたらいけないんだ」
「どうして」
「今、私が逃げたらアクダイカーン様はやっぱり人間は信じられない、って
 思っちゃうよ。
 正直舞の行動は無茶だったと思うけど、でもここまで来ちゃったら、
 私たちは私たちの思っている事を貫くしかないと思う」
「舞は来ないわ」
満は冷たく言った。
「どうして」
「今、薫が夕凪に向かってるの。舞がこちらに来ないように、引き止めるために。
 だから、舞は来ない。それにもし舞が来たら、舞が磔になるだけ。
 いいことなんて何もないわ」
「そ、そうかな。でも、もし舞が戻ってきたら、アクダイカーン様の考えも
 変わるんじゃないかな? 人間が信じられるものだって思いなおしてくれるんじゃ」
「甘いわ」
満は言下に否定する。

「アクダイカーン様はそんなに甘いお方ではない」
「ねえ満、昔私たちがここに来たとき、ダークフォールってこんなじゃなかったよね」
「そうね。あの頃は本当に……いい町だった」
満と薫が夕凪からこのダークフォールに戻り、王宮で事務員として働くようになった頃。
咲と舞は満と薫に会うためにこの市を訪ねた。
その折、賑やかなダークフォールの町並みにこれぞ大都市、と
それまで夕凪から一歩も出たことのなかった二人は感心したものだ。

「その時って、王様も今みたいじゃなかったんだよね。人間を信じていて」
「そうでしょうね、きっと」
満が王に直接謁見できるようになったのは王が豹変してからのことだ。
だから満は実際には人を信じぬアクダイカーンの姿しか見たことはない。
人の話から、昔の王は優しかったらしいと判断できるばかりである。

「だったら、昔みたいになってくれる可能性もあるんじゃないかな」
「あり得ないわ」
満は再び否定した。満にとってそんなことは毛ほども考えられないことだった。
「だって、昔人間を信じていたなら」
「アクダイカーン様はもはやそのようなお方ではない。そんなこと、
 期待する方が間違っているわ」
「うーん、でも、私ね、諦めちゃいけないと思うんだ」
満は呆れたように咲の言葉を聞いていた。

「ネバーギブアップだと思うんだよね。決して諦めず、希望を持ち続けていれば
 望みはかなうって……満?」
満は咲の言葉に、これまでとは違う表情を浮かべていた。
厳しかった顔が、やや柔和なものとなっている。
「昔良く聞いたわね。その言葉」
「そうそう、私たちが一緒に学校に通ってた頃、篠原先生がよく教えてくれたよね。
 今でもこの言葉大好きなんだ。ネバーギブアップ。
 ここでやめちゃ、いけないと思う。ここで私が逃げたりしたら、王様は本当に
 誰のことも信じなくなっちゃうような気がするんだ。
 もし王様がそんな風になったら、またモエルンバさんのダンス見たり、
 ゴーヤーンさんの経営する料理店でチャンプルーを食べられたりできるかも
 しれないじゃない?」
「咲」
満はまた険しい表情に戻った。
「咲のそういうところ好きだけど……でも、人は変わるわ」
「満?」
「人は変わるの。だから、アクダイカーン様が昔に戻ると期待したって無駄な話よ。
 何もかも無駄なだけ」
「満、どうしたの?」
「……」
満はしばらくの間うな垂れ沈黙した。再び上げた満の顔は仮面のように冷たく無表情だった。

「教えてあげる。モエルンバとゴーヤーンを討ったのは私と薫よ」
「えっ……」
満の顔は冷たいままであった。囁くように満は続けた。

「私と薫と、二人でモエルンバとゴーヤーンを討ったの。アクダイカーン様から
 命を受けてね。モエルンバはダンスショーの最中に客席からナイフを投げたわ。
 ゴーヤーンは別宅から上機嫌で出てきたところを後ろから斬って……」
「ど、どうしてそんな……」
「どうして? アクダイカーン様のご命令だからよ。
 私も薫も、最初はただの事務員だったわ、でもそのうちにアクダイカーン様から
 直接命令を与えられることになったの。だから、」
満は言葉を一旦切った。

「私たち二人は今ではもう王の親衛隊の一員としてそれなりに有名になっているわ。
 二人で町を歩いているだけで、みんな怖がってさーっと家の中や仕事場に消えて行くんだもの……」
「満」
咲は悲しい思いで満を見つめていた。

「咲。悪いこと言わないから、早く逃げなさい。アクダイカーン様を変えようなんて、
 そんな無謀なことは考えない方がいいわ」
「満……」
満は、これで終わったと思った。咲の説得もこれで済んだ。ダークフォールの
市から出たら二度とここには戻って来るまい。咲と舞が自分達に会うこともあるまい。
あとは薫と二人、咲が逃げた事を取り繕うだけでいい。

「それじゃ、尚更駄目だよ」
「え?」
咲の答えは満の期待していたものではなかった。真逆のものであった。
「そんなんじゃ、尚更王様には元に戻ってもらわなくちゃ」
「だから、言ってるじゃない! 無理だって!」
「だって、満と薫は私たちの友達だよ?」
「え?」
「友達が辛そうな顔してるのに放っておけないよ」
満はつと右手を引き自分の顔に押し当てた。表情は殺していたはずなのに。

「満、どんなに隠そうとしたって伝わってくるよ。満が今すごく辛い気持ちで居るって」
「……咲」
「きっと、薫もそうなんでしょ?」
「さあ」
曖昧に答えた満の頭を、咲は小さな子供に対してするように撫でた。

「気がついてるはずだよ、満。満が薫の気持ちに気づいてないはずないもん。
 薫が舞を止めようとしても……舞も薫の気持ちに気づくよ。
 そしたら、舞だって止まらないよ。薫に言われても、必ずここに来る」
「私たちだって変わったのよ」
精一杯に反抗してみせても咲には全く通じなかった。
「それなら、どうして私のこと逃がそうとしてくれてるの?」
「……」
「満。これまで沢山辛いことあったんだよね、きっと。私たちに知らせてくれたら良かったのに」
「言えるわけないでしょ」
「今、言ってもいいんだよ」
満はしばし沈黙した。吐き出してしまいたいことはある。
誰かに聞いてもらいたいことはある。自分と少しだけ離れている誰かに。
薫は近すぎる。近すぎて、吐き出したことがそのまま自分に返ってきて
ますます傷つくような気がする。だから薫には言えない。

「咲、少しだけ聞いて。これまでの私たちのこと」
咲に頭を撫でられながら俯いて、満は懺悔するようにこれまで自分達がしてきたことを
話し始めた。アクダイカーンに命ぜられるままにしたことを。
誰かを討った話、傷つけた話が多かった。


薫は疾風のごとくに夕凪村に向けて走っていた。
ダークフォールと夕凪の間を繋ぐのは基本的には一本道だ。
よほどの遠回りをするつもりでなければ別の道は使わない。
だからこの道を走っていけば必ずどこかで舞とすれ違うはずである。

しかし、薫はできるだけ夕凪村に近いところで舞を捕まえたいと思っていた。
ダークフォールの民に、舞を説得しているところを見られたくはない。余計な邪魔が
入るかもしれない。ただでさえ自分達はダークフォールの住人達から
よく思われていないのだ。
アクダイカーン様の言葉を待たず勝手な行動を取っているのが気づかれれば
どのように足元をすくわれるかも分からない。

ダークフォールの市を出、森の中を駆け抜ける。半刻も走った頃、
薫の足がぴたりと止まった。
普段は静かに流れている川が昨日の大雨の影響で轟々と渦巻き流れている。
橋があったはずなのだが流されてしまったようだ。
渡し舟の姿も見えない。
ありがたい。薫はやや安堵した。
これなら舞も、こちらには来れない。
自分が説得するよりも、こうして天然自然に封じてもらった方が
舞だって素直に言う事を聞くのに決まっている。

舞は、来ない。
薫は一旦そう結論付けた。そしてダークフォールに戻ろうとした。
しかしふと、不安がよぎった。もし来たら? そんなことは常識的にはあり得ない。
しかし舞だから……、


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