「あ、日向さん!」
声をかけられみのりは立ち止まった。普段大人しくてあまり目立たないクラスメートが
やあ、と近づいてくる。
夏休みだからといってTシャツで短パンを着ている姿はまだ小学生のように見えた。
実際は中学三年生だというのに。

「どうしたの?」
「あのさ、突然なんだけど……」
「?」
「あ、あのさ、週明けとか空いてる? 僕は空いてるんだけど」
みのりはううん、と首を振った。

「来週はデートがあるから」
「で、デート!?」
彼は飛び上がらんばかりに驚いて目を丸くする。
「うん。薫さんと。だから週明けは……来週末だったら大丈夫だよ?」
「い、いや、いいよ……」
――そ、そうか、日向さん薫って男と付き合ってるんだ……

みのりのクラスメートの男子は寂しそうに笑うとそのままみのりから離れた。

「じゃあまたねー!」
大きく手を振ると彼は「またね」と小さく手を振って道を曲がって見えなくなった。

みのりは手に持った配達用パンを持ち直し、またゆっくりと歩き始める。
――そういえば今、「薫お姉さん」って言うつもりだったのに「薫さん」って
  言っちゃったな……。最近二人きりになること多いから……

初めて会ってから7年。みのりももう中三、当時の薫の年齢を超えている。
「薫お姉さん」だった呼び方も二人きりでいる時は「薫さん」になり、
「みのりちゃん」という呼び方も今では「みのり」だ。
初めて呼び捨てにされた時は寂しいような、やっと同じ目線になれたようで
嬉しいような、複雑な気持ちだった。今では呼び捨てにされることにも
慣れたが。

目的地に着き、お客さんに注文されたとおりのパンを渡す。
お金を受け取り、後はこれを家に持って帰れば仕事は終わりだ。

――帰ったら、週明けのための支度をしないと。
スキップするようにみのりは道を戻り始めた。


「ただいまー」
お母さんにお金を渡し、「お姉ちゃんたちは?」と尋ねる。
「今は満ちゃんと移動販売中よ。お父さんも配達」という答えにああそうかと納得すると、
「じゃあ、上で来週の支度してるね」
その言葉を聞いてお母さんはくすっと笑った。
「何?」
「もう支度するの? 来週の週明けなのに」
「うん、忘れ物がないようにしないと」
「咲はいっつも直前に支度するのにね……」
「お姉ちゃんとは違うもん」
苦笑しているお母さんを背後に残して、みのりは自室へと上っていった。

咲たちが大学に入学してから夏休みには一つの恒例行事ができた。
咲、舞、満、薫、それに中学生になったみのりの五人で夕凪町近くの
山にあるキャンプ場まで泊りがけで遊びに行くのだ。
キャンプ場といってもテントを張るのではなくコテージが設置されているので
そこに泊まる。

大学生になった咲が「子供だけで少し遠出してみたい」と言ったのが発端である。
最初はみのりは行くことになっていなかったが、どうしても行きたいと主張して
半ば強引に参加するようになった。

それももう、今回で三度目である。
みのりはたんすの置くから去年しまったままのリュックサックを引っ張り出した。
リュックサックに詰めるものは着替え、歯ブラシなどの洗面用具、お菓子、薬、
それにお財布。地図も入れておく。
食材は週末にみんなで買いに行くことになっている――多分、またわあわあと
自分の好きな食べ物を買おうとして中々決まらないのだろうけれど。

「ただいまー」と言う咲の声が下から聞こえた。「ただいま帰りました」という
満の声がそれに続く。
「お姉ちゃん、満お姉さん」
ぱたぱたとみのりは階段を降りていく。

「今日はどうだった?」
「完売完売!」
咲がガッツポーズを作って見せた。
「最初ちょっとお客さんの出足が悪かったから心配したけど……」
付け加える満に、咲は違う違うと言うように手を振った。

「満、もう心配する必要なんてないよ。常連のお客さんもいつも買いに来て
 くれてるじゃない」
「でも、やっぱり私のパンはまだ咲のお父さんのみたいには美味しくないから……」
「そうかなあ? 同じ味に思えるけど」
「私のはまだまだよ」
階段を降りたみのりと合流すると三人はそのまま居間に入り
おやつにする。

「うーん、満お姉さんのパン、お父さんのとそっくりだと思うけど」
みのりが首を捻ると、満はううん、と首を振った。
「気をつけて食べると分かるわ。味の深みみたいなものが全然違うのよ」
咲とみのりは顔を見合わせた。

「分かる?」と聞きたそうにしている咲に「分かんない……」と
みのりの目が答える。
――最初は私が満にパンの焼き方教えてたのに、
  いつの間にか満のほうがパンに詳しくなっちゃったなあ……
そう思うと何だか嬉しい。

「みーちーる!」
「わ、ちょっと、何!?」
咲が満に飛びつくと満は驚いて咲の顔を見る。

「なんでもないよー、ちょっと嬉しくなっただけ」
「もう……」
もう、と言いながら満は優しく咲の手を自分の身体から離す。
と、

「ただいまー」
お父さんが帰ってきた。


「お帰りなさーい」何となくその場にいた三人で迎えに出る。
「あ、満ちゃんに咲、今日はどうだった?」
「無事に完売しました」
「やっぱり満のパン人気みたいだよ」
そうか、とにこにこと笑うとお父さんは満の顔を見た。

「満ちゃん、ちょっと話があるんだけど」
「? ……はい」

「話」は居間に場所を移して伝えられた。
簡単に言って、知り合いのパン屋で人を探しているから行ってみたらどうか、
という話だ。

「といってもすぐにじゃないよ。おじさんの友達が店長で、その一番弟子が
 一年後くらいを目処に二号店を別のとこに開くそうなんだ。
 元の店から何人かは二号店に移るだろうから、どうしても人手が足りなくなる。
 誰かいい人を知らないかって聞かれてね」
「それで、私を?」
「うん。――おじさんの友達、腕は確かなんだよ。少し厳しいところはあるけど。
 ……満ちゃんにとっても悪い話じゃないと思って。
 夕凪町からはだいぶ遠いから引越ししないといけないけどね」
「……」
満は黙ってしまった。そんな様子を見て、
「まあ、そんな急な話じゃないから。ゆっくり考えればいいんだよ」
お父さんはそういって話を切った。


「満……」
「何か用?」
その日はずっと満は無口だった。咲が話しかけても素っ気ない返事しか返ってこない。
「じゃ、私帰るわね」
夕方そう言ったかと思うとさっさと帰ってしまった。
いつもなら「帰る」と言ってからも咲と少し――場合によっては長々と――
話をしていくというのに。

「ねえ、お父さん」
満が帰ってから咲は少し怒った声でお父さんに話しかけた。
「どうして満にあんなこと言ったの?」
「あんなこと?」
首を捻るお父さんに咲は
「他の店で働くなんて――」
と非難するような口調で言う。

「咲」
お父さんも真面目な顔になった。

「お父さんは満ちゃんのこと、責任があると思ってるんだ」
「責任?」
「そう、責任。満ちゃんには昔からうちで手伝ってもらってるし、
 ……満ちゃん自身も将来はパン店で働きたいと考えているっていうのは
 お父さん聞いてるんだ。だから、お父さんにできるだけのことは
 したいと思ってる」
「でも、遠い店を紹介しなくても……」
「選ぶのは満ちゃんだよ、咲」
「そうだけど……」
お父さんはそのまま小麦粉を抱えて厨房に入っていった。
咲は一つため息をつきながら自分の部屋に戻った。

――何だか、なあ。


週末は予定通り皆で買出しをしたが、満はやはり元気がなかった。
話しかけられると答えるものの、自分から話すことはない。
薫のほうが口数が多いくらいの状態だ。

「満」
「何?」
その夜、業を煮やしたように薫が話しかけた。

「満、今回は行くの止める?」
「な、何でよ!? 何で行くの止めるのよ!?」
「なんだかずっとぼんやりしていてあまり気が乗らないみたいだから」
「行くわよ。ちょっと落ち着いて考えたいこともあるし」
「……そう」
薫は短く答えて話を切った。満の「考えたいこと」が何かは分かっている。


週明け、コテージについても満の様子はやはりいつもと違っていた。
見晴らしのいい丘に登って、川遊びをして……「満!」と咲が水を掛けてみても
一瞬ちょっとはしゃぐもののまた何か考え込んでいるような表情に戻る。

「ねえ、薫さん?」
川岸でそんな二人を見ていた舞が薫に話しかける。
「何?」
「満さん……どうするのかな」
「さあ? まだ何も決めていないと思うわ」
「そう……」
舞は薫の横顔をそっと窺う。満の話を聞いたのは咲からで、
薫とこの話をしたのは初めてだ。薫はこのことについてどう思っているのか……、
舞が口を開くと、

「薫お姉さん、舞お姉ちゃん休んでちゃだめだよ!」
バーベキューの支度を始めたみのりに怒られた。


咲たちは三年間に渡ってこの場所に来ているが、まだお得意様と認識されるほどではない。
本当のお得意様は毎年お気に入りのコテージに泊まれるらしいが、
咲たちは予約状況によって年々違うコテージに泊まっている。
今年のコテージは寝室が3人用と2人用に分かれていた。
ちょっと相談した結果、2人用に薫とみのりが入ることにする。

部屋の中には二段ベッドが一つ。
「上でいい?」とみのりが聞くので、「いいわよ」と答え薫は下のベッドに
自分の鞄を置く。
わ、とみのりが歓声を上げた。上段のベッドの上からちょうど外が見える窓がついているらしい。
来て来て、とみのりが言うので薫は梯子を上りみのりの隣に腰掛けて
小さな窓から外を覗いた。
コテージのすぐ近くに生える木の後ろに月があるのが見える。

「綺麗だね、朝はもっと綺麗なのかなあ」
「そうかもしれないわね」
しばらく二人は並んだままで景色を見ていた。やがてみのりが、思い切ったように
口を開く。

「ねえ薫さん……」
「うん?」
「満お姉さんは、お父さんが紹介したお店で働くのかなあ」
「分からないわ。満が決めることだもの」
「うん……」
みのりは少しの間口を噤んでから、

「薫さんはどうするの?」と尋ねる。
「えっ……」
「もし満お姉さんが引越しすることになったら」
「……私は」
薫は何かをいいかけようとして言葉を飲み込んだ。
みのりの真剣な顔を見て改めて口を開く。

「私は満についていく」
やっぱり、という顔をみのりはした。
「みのり、あなたには咲もお父さんもお母さんもいる。
 でも満には私しかいないから……。満を一人にするわけにはいかないの」
「うん、分かってる……」
みのりは座ったまま薫の方に身を寄せ、もたれかかるようにして
薫に身を預けた。薫は腕を後ろから回してみのりの頭を軽く撫でる。
「分かってるんだけどね……」
「大丈夫よ、みのり。同じ世界にいるんだもの」
え? とみのりが薫を見上げた。
「私たちは別の世界に行ってしまうわけじゃないわ。
 会おうと思えばいつでも会える場所に居るの。だから……」
「うん……」

薫とみのりが見ている月を満も見ていた。
こちらはコテージの寝室から抜け出しベンチに座ってぼんやりと
空を見上げている。

――いい話だっていうのは分かるけど……

咲のお父さんが持ってきてくれた話だ。相手の人も信用できるのだろうし、
「いい人いないか」と言われて自分のことをすぐに挙げてくれたというのもうれしい。
色々な店で修行を積んだ方が腕も上がるだろう。

――でも……

ため息を一つつく。どこから見てもいい話なのに、足りないことが
一つある。

「満さん」
満は顔を上げた。ベンチの後ろに舞が立っている。
「舞、どうしたの?」
「満さんが出て行ったのに気がついたから……」
舞は満のすぐ横に腰を下ろした。

「ねえ。舞ならどうする?」
「え?」
唐突な質問に舞は聞き返す。

「もし、舞が――たとえば、どこか遠くで絵の勉強ができるという話が
 あったら行く?」
「それは『遠く』に住むってこと?」
「ええ、そうよ」
このたとえ話が何を意味しているのかはすぐ分かる――自分の答えを
言っていいものか舞は少し悩んだ。

「どうする?」
満は真剣な目で再度尋ねる。
「う……うん」
舞は曖昧に頷き、

「私だったら……多分行かない」
と答えた。
「どうして?」
「私は夕凪町にいてみんなと一緒にいるほうが沢山大好きな絵を
 描けると思うから」
「……」
満は黙って少しの間考え込む。

「……そっちに行った方が格段に絵が上手になるとしても?」
「うん。……夕凪町やみんなから離れると、私の絵が変わってしまうような気がするから」
「そう……」
舞の絵は、確かにそうかもしれない。自分のパンはどうだろう。
夕凪町から離れても今までと同じようにパンが作れるだろうか――、
いや、と満は内心首を振った。
きっと自分のパンも少し変わってしまう。その変化は好ましいものなのか。

舞はじっと満の様子を窺っていた。
満は少し俯いた状態で何かを真剣に考え込んでいる。

「舞」
しばらくして満は顔を上げた。
「私、やっぱりPANPAKAパンでパンの作り方を習うことにするわ。
 ……私が作りたいのは咲のお父さんみたいなパンだもの」
「そう……」
ほっと安心して舞の顔が緩んだ。
「なんだか、決めたらお腹すいちゃった」
笑って満は立ち上がった。

「満さん、今日の食事あんまり食べてなかったでしょ?」
追いかけるように舞も立ち上がる。
「そうね。……お菓子を持ってきてあるの。舞も食べる?」
「あ、私のも一緒に食べましょ」
二人でコテージに戻ろうとすると、慌てて出てきた咲にぶつかりそうになった。

「満、舞! もう、気づいたら二人ともいないから心配したんだよ!」
「ごめんなさい、咲」
謝っている舞の横で満は
「咲、起きてきたんならちょうどいいわ。一緒におやつ食べましょ」
と言っている。

「お、おやつって……」
「何か持ってきてるでしょ? 薫たちも起こそうかな」
「満さん、さすがにそれは……」
「何かあったの、満」
咲は満の前に回りこんだ。

「何か――妙に明るくない?」
「妙ってことないでしょ。……これからも咲の家にお世話になろうと決めただけよ」
「え、それって」
「咲のお父さんのこの前の話、悪いけど断ろうと思うの。
 咲のお父さんが許してくれる限りはPANPAKAパンに居ようと思って」
咲の顔にみるみる笑顔が浮かぶ。
ぱんぱんと満の背中を叩きながら、
「良かった、満!」
と上機嫌になる。三人は部屋に引き上げおやつでお祝いすることにした。

-完-

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