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配達を終えぶらぶらと橋を渡っていた薫にも舞の姿は目に入った。
いつものように写生している姿を見てふっと笑うとそっと舞の方へと近づく。
声をかけたとしても気づくことはないだろうから、薫はそばにある石に腰掛けて
少しの間待つことにした。あまり長く店に戻らないわけにもいかないが、
少しくらいなら時間を無駄にしても問題はない。
今日の日向屋には昼だというのにミズ・シタターレがずっと居座っている。
薫は正直、あまり彼女と顔を向き合わせていたくはなかった。どこか苦手なのである。

「ふーっ……」
舞が大きく息を吐き出して全身から力を抜く。舞がすぐに終わってくれたのは
薫には幸いだった。
「終わった?」
「薫さん!? いつからそこに!?」
「少し前から」
突然聞こえてきた薫の声に取り乱している舞を見て薫は楽しげに笑みを浮かべながら、
「いい絵になったの?」
と尋ねる。
「う、うん、そうね」
はいと舞が今描いたばかりの絵を薫に見せる。簡単に描き留めただけのものではあるが、
舞が楽しんで描いたことが良く伝わってくる絵だった。

「へえ……」
絵を見る薫の様子に舞は恥ずかしそうに顔をそらして川を再び眺める。
と、不思議なものが目に付いた。

――あんなの、あったかしら?

川岸に引っ掛かって打ち上げられているような薄桃色の物体。色合いが川の風景から見て
明らかに浮いている。
興味を覚えた舞はとととっとその場から離れるとそれに近づいた。近づくにつれ、
布らしいことが見て取れる。

――あれ、これは……?

すぐ近くまで来ると、着物の一部であることが見て取れた。
恐ろしい力で引き裂かれたものらしい。
舞は首を伸ばしてそれを見、そして愕然としてしまった。
「……舞?」
舞の様子に気づいた薫がそばにやってくる。
「どうしたの」
「……あれ」
「え?」
舞の指差した先にある着物の切れ端を薫も見た。薄桃色できっと良い絹を使っただろうと
思わせるいかにも上等そうな――、薫は息を飲んだ。
少し角度を変えると着物の柄をはっきりと見ることができる。舞は黙ったままで居る。

――これは、この前舞が描いていた絵柄……

薫が見たものはあくまで舞が紙の上に描いたもので、糸で着物の上に表現されていると
雰囲気は確かに少し違う。しかし見れば見るほど、舞の絵を元に仕立てた着物だという
確信が湧き上がってくる。
着物自体はやはり上質なものだ。ということは嫁入りするという娘の下に届けられた
着物が何らかの理由でこういう状態になったのか――、仮に仕立てに失敗したものだとしても
こんな形で捨てることはあるまい。

「薫さん」
舞に小声で呼びかけられて薫はびくっと身を震わせた。舞に目を移すと
泣いてこそいないが顔面はもう蒼白だ。

「これ、私の、よね?」
確認するように問われ薫は微かに頷くしかできなかった。本当は否定してしまいたい。
だが嘘をついてもすぐにばれてしまう。

「帰ろう、舞」
薫は強引なまでに舞の腕をぐいっと引っ張った。とにかくこの場から舞を引き離したい。
「日向屋に一緒に」
舞の身体は抵抗なく薫についてくる。少し力を緩め、薫は舞と手を繋いで歩いた。
舞は下を向いたまま、何かを考え込んでいるような表情をして押し黙っている。
薫もこんな時に何て言っていいのかまったく分からなかった。

――とにかく早く日向屋に連れて行って……

日向屋には咲がいる。満もみのりもいる。特に咲は舞と付き合いも長いし
こういうときの対処法もきっと何か分かっているはずだ。

――日向屋に行きさえすれば……

何とかなる。薫はそう思い普段よりも足取りを速めた。
舞はただでさえ薫より少し歩くのが遅いので半ば引きずられているような
状態だったが、それでも黙ってついてきた。
舞にとっても、薫がどこかへと引っ張っていってくれる今の状態はありがたかった。
一人で居ると途方にくれていることしかできそうになかったから。

舞を自分達が使う部屋に通すと、薫はすぐに店に出る。
――お客さんがあまりいないといいけど……
数人だったら自分が店に出て咲には舞のそばにいてもらおう。そう考えながら
店の様子を窺うと、幸い客は一人しか居なかった。もしかするとその一人が
かもし出している雰囲気のせいで他の客が入って来れないのかもしれない。
ミズ・シタターレが咲を捕まえてぐちぐちと繰言を述べている。
満は暇そうに食器の配置を考えている。

「咲、ちょっと……」
近づいてちょんちょんと背中をつつく。
「ん?」
咲がミズ・シタターレの話を聞くのを中断して振り返った。
「こら咲ぃ〜! 人の話は最後まで聞きなさいよ!」
途端にミズ・シタターレから不満の声が飛ぶ。咲は慌ててそちらを向く。
薫の心に焦りが浮かぶ。ミズ・シタターレの愚痴なんてこの際どうでもいいのだ。

――咲を早く舞のそばに行かせないと……

「ひどいと思うでしょ!? 嫁ぐ気なんてないのに嫁入り道具ばっかりさっさと用意
 しちゃってさあ……」
はあはあと咲は聞いている。薫の苛立ちが高まっていく。
「ちょっと咲」
強引に薫は割って入り、咲の身体を無理やり自分に向けた。
「舞が大変なのよ」
早口で告げると咲の表情が一瞬にして固まる。

「ちょっと、聞きなさいって言ってんでしょ」
酔いはもう覚めているのであろうに、ミズ・シタターレはしつこく咲に絡んでくる。

「すみません、ちょっと……」
薫の誘導に従って舞のところにいこうとした咲の肩をミズ・シタターレがいかせまいとばかりに
がしりと掴む。

「まだ話は終わってないわよ! 腹立ったから着物なんか破いて捨ててやったわ」

――何だと……!
耳に入ってきたシタターレの言葉に薫の身体がびくりと震えた。

「ちょっと」
咲の肩を掴んだミズ・シタターレの手首を掴み引き剥がす。
「何のつもりかしら、薫?」
薫に手首を掴まれたままミズ・シタターレが目を細める。

「今、着物を破いたって言った? それって尾長を描いた着物かしら?」
「ええそうよ、破く音が気持ちよくってねえ」
ミズ・シタターレは何かを確信したようにそんなことを言った。
彼女は薫の気持ちを逆撫でするのが好きだ。
咲や満のようにさらりとかわして逃げることがなく、馬鹿正直なまでに反応してくる。
だから逆に、薫は彼女のことを苦手とするようになったのだが――、

「ふざけないで!」
ミズ・シタターレの意図どおりに薫は逆上した。掴んでいた細い手首を締め上げようとするが
「何か関係でもあるのかしら?」
ぶんと手首を振られ外されるとそのまま正拳が薫の胸へと繰り出される。

「っ!」
正面から食らって倒れ掛かったところを咲に支えられ踏みとどまると、
薫はそのままミズ・シタターレに飛び掛る。


――な、何……?
店のほうから聞こえてくる不穏な物音に舞は驚いて俯いていた顔を上げた。
物音は明らかに普通の音ではない。何か大きな物が転げたような……、恐る恐る、
舞は店の方に出てみることにした。

「いい加減にしなさい、薫!」
咲が止めようとしても止まらない薫を満が一喝する。
「店壊す気!?」
薫とミズ・シタターレは一瞬離れる。

「へえ、それなら外に出ようじゃない。それとも薫、あなたは店の中でしか
 喧嘩ができないとでも言うのかしら?」
ふん、と薫は立ち上がり店の戸をがらりと開け放つ。恐る恐る舞が出てきた時には
薫とミズ・シタターレの二人が店の前の道でにらみ合っていた。
喧嘩好きな野次馬が周りに集まってきている。
女同士の喧嘩とは珍しいがそもそも女は男よりも血の気が多いもので、
というしたり気な講釈が聞こえてくる。
「何だ、あれは」
馬に乗って気晴らしにでも行こうかとしていた代官が人だかりを見て馬を止めた。
「ちょっと見てきます」
そういって人だかりの方に向ったカレハーンは、笑いを隠し切れないような顔で帰ってきた。
「どうしたカレハーン」
「喧嘩ですな」
「喧嘩?」
代官は馬上でやや身を上げ人ごみの向こうを見ようとした。
「女同士です。一人は、ミズ・シタターレですね」
必死に笑いを堪えカレハーンは大真面目な顔で言う。
ミズ・シタターレ本人が自分から好き好んで父の前に醜態を
晒してくれているとはありがたい。

「ふん……?」
代官は馬上にどしりと腰を下ろす。その表情は何かを考え込んでいるようだった。
「困ったものです」
わざとらしく言ったが代官は何も答えることはなく、「捨て置け」とだけ呟き
馬を走らせる。燃えるような怒りを期待していたカレハーンは拍子抜けしたが
黙って父についていくことにした。

「さ、咲? どうなってるの?」
舞は店の外に半ば身を乗り出すようにしておずおずとそこに居た咲に話しかける。
満も、今はもう外に出てきていて成り行きを見ている。咲の両親はまだ店の中に居るが、
これは満が
「私が何とかしてきます」
と言って出て行ったからだ。心配そうに外の様子を窺っているが、
まだ少し待とうとしている。

「うん、薫とミズ・シタターレさんがちょっと喧嘩みたいになっちゃって……」
「どうして?」
「よく分からないよ……、シタターレさんの話聞いてた薫がいきなり怒り出した
 ように見えたんだけど……」

「薫、あなたは私に何か恨みでもあるのかしら?」
挑発するようにミズ・シタターレが薫に言葉を投げつけた。
「少し愚痴をこぼしていただけの私に喧嘩を売ってくるなんてね。
 日向屋の店員は血の気が多くていただけないわ」
満があからさまにむっとした表情を浮かべる。店を侮辱されるのは許せない――と
彼女はいつでも思っていた。
薫を止めようか、自分も薫と一緒にこの人を黙らせようかと一瞬悩む。
「黙れ……」
低い声で薫が唸った。満が見るとぎゅっと握られた拳がぶるぶると震えている。
その様子を見てふふんとミズ・シタターレは鼻で笑う。

「黙らせたいのなら実力で黙らせてみたら? 着物を破いたことの
 何がそんなに気に障ったんだか知らないけど」
「黙れーっ!」
舞がはっとしたのと薫が飛び出したのとは一緒だった。
「やめて薫さん!」
咄嗟に舞が薫とミズ・シタターレの間に入ろうとして勢いをつけた薫に突き飛ばされる。
はっと薫は身体を止め、「舞!」と抱きかかえようとしたところで
ミズ・シタターレが薫の上から覆い被さるようにして殴りつけた。咲と満が身を躍らせ
地面に倒れこんだ舞と薫を守ろうとする。

ふん、とミズ・シタターレは勝ち誇った表情で顔を上げたが周りの野次馬から非難の目で見られているのに気づきむっとした顔になる。

「舞、薫、大丈夫?」
咲と満はそんなことに気づく暇もなく舞たち二人を支えて立ち上がらせる。
「薫さん、もうやめて……」
舞は泣きそうな顔をしていた。薫は俯いて首を振る。
「嫌よ……舞があんなに苦労して考えた着物を破るようなことは絶対に許せないわ……」
驚いたのは咲に満、それにミズ・シタターレである。

「え、じゃあシタターレさんが破いた着物ってこの前舞が言ってた?」
「そうよ、絶対に……」
許せない。顔を上げた薫の目が燃え上がる。

「わ、悪かったわね! その子が作ったものだなんて思わなかったのよ!」
いきなりミズ・シタターレが謝ったので咲たちは拍子抜けした。もちろんこんなに素直な
ところを見せたのは周りの人間達のことを意識してだろうが。

「あの……どうして着物を破いたんですか? あれが、そんなに……」
小さな声で呟くように、しかしはっきりとミズ・シタターレにも聞こえる声で
舞が尋ねる。

「それは……」
言いかけたシタターレの言葉は人目を気にするようにして消えた。どうも、先ほどまでの
高飛車な様子から変化がおきている。
お騒がせしてすみませんでしたと野次馬に言って解散してもらってから、
咲たちは店の中へと引き上げた。さすがに今、日向屋に入ってこようとする者はいない。
今日はもう客が入らないかもしれないが、仕方ないと咲は思った。

――舞のことをはっきりさせる方が先だもん。

店の奥にミズ・シタターレは座った。少し離れた席に舞が座りその隣に咲が、
ほぼ反対側に満と薫が陣取る。
座ってからしばらくの間一同は無言だった。どんよりとした沈黙が五人にのしかかる。

「あのそれで、舞の着物のことはどういう……」
口火を切ったのはやはり咲である。

「……、」
ミズ・シタターレは何も言わずに深いため息だけを一つついた。

「ごめんなさい、やっぱり私の絵が良くなかったから……」
様子を見た舞は深々と頭を下げ細い声で謝罪する。
薫はその光景を不機嫌そうに見つめていた。たとえどんなに着物が気に入らなかったとしても
破くことはないだろう、しかも破いたのを舞の目に付くようなところに放置するとは
許せない――と薫は思っている。

「絵なんか関係ないわ……どんなものであれ破かないわけには行かなかったから」
シタターレの物言いに奇異なものを覚えて咲が「どうして?」と更に尋ねる。
「あれは郷屋が勝手に進めたことだからよ……、結婚させられてたまるもんですか」
郷屋の名前が出てきたと言うことはミズ・シタターレが破いたと言う着物は
舞が関与したものに間違いはない。舞は「絵など関係ない」といわれたことで
安心したような却って傷ついたような複雑な表情を浮かべている。

「あの……どうして結婚したくないんですか?」
余計なお世話である。お節介にもほどがある発言でこのことで怒りを呼んでも仕方がないが、
咲はついつい聞いてしまった。

ふん、とシタターレは鼻で笑う。
「郷屋は私を早く追い払いたいだけよ。それに、私には……」
珍しく言葉を詰まらせた。咲と舞、満と薫が興味津々といった様子で見ているのに
気づくと言い出しにくい。

「何があると言うの?」
薫が詰問するような口調で問い詰める。咲が制止しようとしたが聞かずに立ち上がる。
咲たちの目に今の薫は妙に大きく映った。
「どんな理由であの着物を破ったのかしら」
舞の作ったものをあんな風にしたからにはそれなりの理由は話してもらう――と薫は
心に決めているようでシタターレを冷淡に見ている。


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