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朝日の見え始めたころ、甘味処・日向屋の店の中では既に一日の用意が始まっていた。
店の前で落ち葉や塵を掃き掃除をしているのは満、薫という名の二人の娘である。
日向屋に住み込んで店で働いている。
今では当たり前のようにこの店にいるが、元々二人はこの家の者ではなかった。
母と三人で暮らしていたのだが、母が他界した後この店に引き取られてきたという
経緯がある。しかし、二人とももうこの家に最初からいるかのように自然に暮らしていた。

「いらっしゃいませ……?」
ふらふらと近づいてきた背の高い人影に満が声をかける。逆光で良く見えないが、
どうも見知った人のような気がする。

「いらっしゃいませじゃないわよ、さっさと入れて」
ああやっぱり、と満は思う。薫は一瞬眉を顰めたがすぐに暖簾の後ろの戸を開けて
客を中に入れる。

「あ〜あ、もう」
何に対してなのか良く分からないため息をつき彼女――ミズ・シタターレは一番奥の
お気に入りの席にどかりと座る。
彼女は特に何を注文するでもないが、薫はとりあえずお茶を出した。
いつもここでお茶を飲んで昼頃まで居座り、その後ふらふらとどこかに去っていく。
その繰り返しである。
夜中酒を飲んでから朝になるとここに現れるらしく、妙に愚痴っぽくなっている
こともあった。

今日はお茶を一気に飲み干すとそのまま突っ伏して寝てしまった。薫は彼女のこういう
態度はあまり好きではない、がそのままにして店の外に出、再び掃除を続ける。
どうなった、と問いた気な満に「寝てるわ」と答えるとちりとりを持ち満の集めたごみを
その中に入れてもらう。これで掃除は終了だ。他の店もちらほらと店を開き始めている。

「掃除、終わりました」
二人は寝ているミズ・シタターレの脇を通り抜け、店の奥、日向家の主人達が忙しく
支度をしている場所に戻っていく。
「お、ありがとう」
「薫お姉さん、みのりも支度できたよー」
「じゃあ行きましょうか、みのりちゃん」
「私はお団子の下ごしらえに入ります」
「満、私と一緒にやろー!」
ばたばたとした空気の中で店の仕事が本格的に始まる。
そんな中、薫はみのりの手を引いて店を出た。みのりを寺子屋まで送っていき、
終わると一緒に帰ってくるのが薫の日課である。
いつの頃からかこうすることに決まっていた。

「薫お姉さん、行こう!」
「忘れ物はない?」
「うん、大丈夫だよ」
言ってきますと奥に声をかけ、薫とみのりは甘味処の喧騒から一歩外に出る。通りすがりにちらりと見ると、
ミズ・シタターレはまだ店の中で熟睡していた。

「今日はみんなでそろばんの競争するんだよね!」
薫の手を握ったままみのりが話しかける。薫は聞いていないような顔をして歩き続けているが
その実みのりの話をちゃんと聞いているとみのりは知っているのでそのまま話し続ける。

「あのね、舞お姉ちゃんがね、今日、一番よくできた人には折り紙教えてくれるって」
「へえ。舞が」
「うん! 舞お姉ちゃん折り紙すごく上手なんだよ!」
嬉しそうに舞――寺子屋を開いている美翔家の娘――のことを語っているみのりを見て
舞ならそうだろうな、と薫は思う。
薫や満、咲と同じくらいの年恰好であるが、寺子屋を手伝ったり美翔家の本業である
けが人や病人の手当てを手伝ったり、一方で絵を描いていたりと多彩な才能を発揮している。

薫はみのりを連れて行きそのまま寺子屋を手伝うことが多かったが、
時折舞の部屋に上がりこんでは絵を習っていることもあった。
舞は薫の昔からの友人である。


「じゃあみんな、そろばんの準備はできたかな?」
寺子屋に着くと、机の前に正座したみのりを含む十人ほどの生徒の前で美翔和也が
にっこりと微笑んでみせる。

はい、と元気よく答える生徒たちを見てうんうんと頷くと、
「じゃあ、まず少し指慣らしをしようか」
和也がゆっくり問題を読み上げる声に従って生徒たちがそろばんを弾く音が響く。

薫はその部屋の後ろ側に座って生徒たちを見ている。最近はどの子も
そろばんが一通りできるようになった。
入ったばかりの子が居るときは薫が隣について指導することもあったが、
今は寺子屋に通いだしてしばらく経つ生徒ばかりなので特に薫が個人的に
指導する必要もなかった。

そんな薫に和也の視線が投げかけられる。気づいた薫がそちらに目を向けると、
和也はちらっと視線を舞の部屋の方に動かした。

――舞の部屋に……?
行って欲しいということなのだろうか。薫が立ち上がると和也が一つ頷いたので
そういうことなのだろうと思い、薫はそろばんの響く教室を後にした。


「舞? 入るわよ」
舞の部屋の前に立って呼んでみるも返事はない。留守かとも思うが、
舞は何かに集中していると周りが見えなくなるのでもう一度声をかけた上で
そっと襖を開く。舞はやはり、部屋の中に居た。
机の上に大きな紙を広げ、その前に正座してじっと物思いに耽っている。

墨も筆も用意はできている。ただ肝心の絵だけが決まらない。舞はじっと
机の前に固まっているようだ。

「舞?」
近づいて呼びかけてみてもやはり薫には気づいていない。ふっと薫は微笑むと、右手の
人差し指を伸ばしてうなじの辺りをちょんちょんと突付きながら、「舞!」と今までより
ずっと大きな声を上げた。

「……! か、薫さん!?」
やっと気づいた舞が慌てて振り返り薫の姿を認める。
「て、寺子屋の方は……?」
気恥ずかしさをごまかすように言う舞の言葉を聞きながら薫は舞のすぐ近くに座ると、
もうみんなそろばんは慣れてるから私が居なくても大丈夫みたい、と説明した。

「そう……なの」
「今度は何の絵を描くの?」
ちらりと机の上に視線を送る。舞の顔色が曇ったのを見て、どうも悩んでいるらしいと
いうことは容易に分かった。

「うん……ちょっと、頼まれもの」
「え、そうなの?」
舞はどちらかというと自分で気に入った絵しか描かない性質で、誰かから頼まれて
絵を描くことはあまりない。むかし「春の風景を絵に描いてくれ」と請われ、
引き受けたのはいいがひどく苦労したと言う話も聞いたことがある。

「珍しいわね」
「うん、断ったんだけど、断りきれなくて……」
生来の押しの弱さが災いしたらしい。自分や満、咲も一緒の時であれば
断ってしまうこともできただろうと思うと少し悔しい気持ちになる。

「着物の柄、だそうなの」
「え……?」
またそれは変わった依頼だ。舞の絵についてはそれなりに評判があるから
そういうことを考える人がいたとしても不思議ではないが。

「なんでも、もうすぐ結婚する娘さんのために着物を作りたいんですって」
「へえ……」
それは重大だ――と薫は思う。嫁入りとなれば一生の思い出となる。その支度の
一つとしての着物である、と考えれば舞が深く思い悩んでしまうのも理解できた。

「どんな絵にすればいいのかしら……」
「……向こうからは何か言われてるの?」
「向こうって?」
「舞に頼んできた人よ。今度嫁入りする人のお父さんか誰かかしら」
「違うみたい」
みたい、と言うところにどこか心細さを覚えながら薫は更に、

「その嫁入りする人については何か聞いていないの?」
「何でも……、」
聞いた限りのことを舞は薫に伝えた。背が高いらしいこと、割と傍若無人らしいこと、
女にしては酒飲みで酔って暴れたりすることもあるらしいこと……などである。

「……」
舞の話を聞いて薫は黙り込んでしまった。実際に着る人の特徴を伝えて合ったものを作って
もらおうとしているのか、ただ悪口を言いたいだけなのか良く分からない内容である。
困るでしょう? と言いたげに舞は薫を見ている。


薫が舞の部屋を訪ねている頃、ミズ・シタターレはようやく目を覚ましていた。
茶の分の代金をいつものように机の上に置き、
「もう出るわ」
と店を出る。ありがとうございましたーという咲の声に送られ、
ふらふらとした足取りで外に出て行く。
もう大分上った太陽の光がかっとミズ・シタターレに照りつけた。
目を細め軽く舌打ちすると日陰を選んで自分の家へと道を辿る。

威勢のいい職人が何か言っているが二日酔い気味の頭には言葉としては聞こえてこない。
町人達の雑踏から離れ、ミズ・シタターレの足は立ち並ぶ武家屋敷へと向う。

「おや」
後ろから来た駕籠が彼女を抜かそうとして止まった。駕籠が開き、良く見知った顔が
ミズ・シタターレを見つめる。

「また、朝帰りですか」
呆れたような嗜めるような口調。ミズ・シタターレは二日酔いを忘れしゃきんと背筋を伸ばした。
「あら、ゴーちゃん。また家に来るのかしら?」
「郷屋(ごうや)です。お代官様に呼ばれましてね」
「へえ、そうなの。あまり家を汚さないでくれるかしら?」
「いえいえ、そんなことは」
苦虫を噛みつぶしたような顔になってしまいそうなところだがぐっと堪え
愛想笑いを浮かべる。彼女はこう見えても代官の娘なので怒らせると後々が面倒だ。

「お先に〜」
軽く郷屋をあざ笑うと彼女はわざと背筋を伸ばしこれまでとはうって変わったきびきびとした
動作で歩き始めた。
駕籠の中のゴーヤーンはというと、かき手に少し待ってから目的地に向うようにと
告げる。
「並んで歩いたりすると面倒ですからね。ミズ・シタターレ殿がお戻りになってから
 私たちは向うことにしましょう」
はい、と前後の駕籠かきが答える。郷屋はふう、と息をついた。

郷屋が少し時間を稼ごうとしていることには気づかず、ミズ・シタターレは追いつかれないように
さっさと歩いていった。正面の門から代官邸に入る。朝帰りはいつものことだから
特に誰も咎める者はいない。

もっとも、咎めなくてもすれ違いざまにちっと舌打ちをするものはいた。
「あら、何かしらカレッち?」
生真面目な長男が嫌うへらへらとした笑いをわざと顔に浮かべると、狙い通りに
ひどく嫌そうな顔をする。

「いつまでそんなことやってるんだ」
「さあね、いつまでかしらね」
「代官家の長女なんだぞ、一応」
「あら、そうだったかしら? モエルンバに比べれば私の夜遊びなんて可愛いものよ」
「あいつは男だし、次男だからな。ごくつぶしでも構わん」
「じゃあドロドロンみたいに家の中に引き篭もっていろっていうのかしら?」
「俺はただ、女らしくおしとやかにしていろと言うんだ。みっともない」
ふふん、とミズ・シタターレは馬鹿にしたように笑った。それがまたカレハーンを苛立たせた。

「父上だって頭を悩ませているのだぞ、お前のことには」
最終通告のつもりで父の話を出す。だが彼女はそれをも鼻で受け流した。
「カレッち、もう跡継ぎ気取りで私に説教するつもりかしら? お父様は私に婿を
 取らせて跡を継がせることだって考えているわよ」
「何だと!? ……いや、そんなことはあるまい」
「さあどうかしらね。……それはそうと、郷屋がもうすぐここに来るけど」
「何?」
郷屋の相手をするのは苦手である。カレハーンはそそくさと理由をつけて逃げ出した。
そんな様子を見てミズ・シタターレは満足げに笑うと奥にある自分の部屋へと引っ込む。
娘と息子がそんな会話をしているのを聞き――彼らの声は基本的に大きいので良く聞こえる――、
郷屋を待つ代官はひそかにため息をつく。人前では滅多に自分の弱みを見せることは
ないのだが、家では別だ。このところ彼の頭を専ら悩ませているのは
子ども達のことである。

郷屋が来るのが待ち遠しかった。郷屋になら愚痴を言うことができる。
代官は部屋でじっと、もうすぐ来ると言う郷屋のことを待っていた。


「失礼いたします」
「入れ」
郷屋が慣れた様子で入ってくる。出入りの商人は勝手口を使って入るものと決まっていたが、
この郷屋だけはなぜか玄関から入ってくるのが常であった。
本業は呉服屋である。しかしこの代官家に出入りする理由は呉服を届けるためだけではなかった。

「座れ」
短い言葉でこの部屋における郷屋の定位置を指し示す。慣れたもので郷屋もすっとそこに座った。

代官が上座、郷屋が下座につき正対する。二人の間に鎮座するのは年季の入った碁盤だ。
代官家に古くから伝わるものでやや黒ずんでいるもののむしろ貫禄がついたといった
言葉が似合うような色合いになっている。

いつものように碁石を手に取り二人の間に碁が始まる。代官は碁の相手として郷屋をことの外
気に入っていた。郷屋からすれば接待囲碁であったが。

しばらくはとん、とんと石を置く音が響く。
「お代官様」
「うん?」
「このごろはいかがでございますか」
何とも曖昧な質問である。しかし長年の付き合いから、この言葉はなぜか代官から
色々な情報を引き出すのに有効であると分かっていた。


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