最近やけに考察ネタが多いとお感じの方もいらっしゃるかと思いますが、
それというのもハートキャッチを見ているとプリキュアシリーズ各作品の相違点と
類似点が気になってくるからなのです。特に、フレッシュ、ハートキャッチを
見ることで無印〜5GoGoまでのシリーズ(便宜上、初期三部作と呼びます)
の特徴が見えるような気がします。

以下に書くことは、要するにハートキャッチは初期三部作とは大きく違うと
いうことです。
私自身はS☆Sをはじめとする初期三部作の展開の方が好きなので
ハートキャッチを好きな方には不快な文章になっているかもしれません
(特にハートキャッチの第一の試練について触れた部分は結構きつい言い方になっています)。

ご注意ください。







 * * *

    結論から言うと、ハートキャッチは初期三部作とは大きく異なる特徴を持っている。
    その変化の予兆は目立たないながらもフレッシュにも見つけることができ、
    フレッシュ〜ハートキャッチという流れは初期三部作から離脱していく
    過程だともいうことができる。


  1. 初期三部作の特徴〜非日常を凌駕する日常

  2. まず初めに、初期三部作の特徴を考えてみよう。
    プリキュアという物語自体は、女子中学生がなぜか大変な使命を担うことになり、
    仲間と頑張っているうちに本当に使命を成し遂げるという構造をしている。

    ここで、「使命」とは「すべてを飲み込む闇の力から世界を守ること」であったり、
    「すべてを滅ぼす滅びの力から(以下略)」であったりと基本的に非日常のものである。
    プリキュアの力自体が非日常的なものであって、非日常的な力(ドツクゾーンとか
    ダークフォールとかナイトメアとか)に非日常的な力(プリキュアの力)で
    立ち向かうという構図が存在している。

    しかし、プリキュアの力の使い手である少女たちは同時に日常世界の住人であり、
    彼女たちは日常の論理をもって敵に立ち向かっていく。
    彼女たちの振り回す日常の論理は「女子中学生の論理」であり、
    下手をするとメインの視聴者である「幼稚園くらいの女児の論理」である。
    しかしそれでも、日常の論理は非日常の論理を凌駕し強大な敵を飲み込んでいく。
    これこそが初期三部作の特徴であると思う。

    分かりにくいので、例をあげよう。

    プリキュア5の第7話に「騙される方が悪い」というセリフがある。

    ナッツがナイトメアに騙されてパル王国の門を開けてしまい、
    パルミエ滅亡の原因となったことを指すものである。

    ここでのぞみの回答は「騙す方が悪いに決まってる!」というシンプルなものである。

    ナッツはパルミエの王子であって、そうした立場にある者としては彼はいささか
    軽率ではなかっただろうか、国とか何とか話が大きくなればいろいろな悪意が
    渦巻くのが当然であって、責任者としては悪意がそこにあることを前提とした
    対応をしなければ……と、大人だったらごちゃごちゃ考えてしまいそうになる
    状況であるが、のぞみはそんな余計なことは考えない。

    「騙す方が悪いに決まってる!」とストレートに答える彼女の姿はある種の
    すがすがしさがある。それは女子中学生の論理どころか幼稚園の女の子の
    論理であるかもしれないけれど、のぞみ達の生きる日常から導かれてくる論理なのである。

    あるいは、MHの第45話に「待ってない!」というセリフがある。

    これは光と闇の戦いが佳境に入り、闇の世界の主であるジャアクキングを復活させた
    バルデスが「お前らもクイーンを復活させたらどうだ」というのに答えたものである。
    光の園のクイーンを復活させれば、その命である九条ひかりは消えてしまう運命にある。
    だからなぎさとほのかは、クイーンの復活を拒絶するのである。

    光と闇の戦いという観点から考えれば、バルデスの考えは正しい。
    ジャアクキングに対抗するためにはプリキュア側もそれに匹敵するだけの力を
    どこかから呼んでこなければならない。しかし、なぎさとほのかにとってひかりは
    クイーンを復活させるための素材ではなく、友達である。
    二人は、ひかりを「友達」と見る日常の論理にあくまで従い、クイーンの復活を否定する。

    この「待ってない!」が形を変えて響くのはS☆Sの第22話である。満と薫がダークフォール
    からの刺客であるという正体を現し、咲と舞に戦うように迫ったとき、咲は満に
    こう言うのである。
    「プリキュアじゃない! プリキュアである前に、日向咲。あなたの友達」
    これは満が咲のことを「プリキュア」と呼んだことに答えてのものだ。
    咲をプリキュアと呼ぶのは非日常の言葉遣いだが、咲は自分はあくまで日向咲で、
    友達であると日常の言葉で答えるのである。

    これが「待ってない!」の変奏であることはもうお分かりだろう。
    ひかりを「クイーン復活の素材」として位置付けるバルデス、咲を
    「プリキュア」として位置付ける満に対し、なぎさとほのか、咲と舞は
    ひかりや自分自身をあくまでも「友達」として位置付けるのである。

    このひかりと満・薫のエピソードは「立場や役職ではなく、個人としての行動を優先する」
    と言い換えることもできる。

    クイーンの命であるという立場から言えば、ひかりは消滅してクイーンを復活させるべきである。
    プリキュアであるという立場から言えば、咲と舞は満と薫を倒すべきである。

    なぎさとほのか、咲と舞はそうした道を否定する。個人としての九条ひかり、
    日向咲と美翔舞が行動するという道を選択する。再び日常・非日常という言葉を使って
    言い直せば、
    「立場や役職から必要とされる行動」=非日常
    「個人としての行動」=日常
    ということになる。日常は非日常を凌駕するのである。


    「日常が非日常を凌駕する」という特徴を持つ初期三部作においては、
    プリキュアが強くなるための特訓シーンが描かれることはない。
    彼女たちを強く支えるものは日常の力であり、特訓をするよりも
    日常生活をきちんと過ごすことの方がよほど彼女たちを強くするからである。

    彼女たちが日常生活を過ごす場所として、家や学校、街、S☆Sの場合には森などの自然、
    人数が多くなった関係で家や学校の描写が薄めになる5の場合にはナッツハウスが設定されている。
    彼女たちはここで日常の力を蓄え、最終的にその力が敵に対する絶対的な強さとなって
    現れるのである。



  3. ハートキャッチの特徴〜非日常と融合する日常


  4. フレッシュ、ハートキャッチに見られる大きな流れとして、プリキュアの存在が
    世間の人にも知られていくというものがある。無印の初期や5、5GoGoでもそういった
    描写はあったのだが、あくまで数回にとどまっていたのに比べフレッシュや
    ハートキャッチでは世間の人々のプリキュアに対する認知の深まりが回を追うごとに
    描写されていくことになる。

    このことは、プリキュアという非日常の存在が日常に融合していくことにつながる。
    そして、フレッシュでは「世間の人たちにもプリキュアの存在が知られていく」
    ぐらいで止まっていた非日常の日常への融合がハートキャッチでは明確に描かれることになる。
    以下、いくつかの状況に分けてみていくことにする。


    1. 家庭に存在する非日常


    2. 主人公、花咲つぼみの祖母は先代のプリキュア、キュアフラワーである。
      この設定で注意しなければいけないのは、家庭の中にもプリキュアという
      非日常の要素が入ってきたということだ。結果的に、プリキュアの活動に関する
      様々なことを祖母に相談することも可能になる――だが同時に、第32話で描かれた
      1度目の試練では祖母と戦うという状況にも陥る。

      この試練では、先代のプリキュアと戦うのがルールだ。つぼみの場合、祖母である。
      ここで躊躇するつぼみに突きつけられるのが、
      「戦う覚悟もないようならプリキュアをやめなさい」という祖母の言葉である。

      ここで固めなければいけない覚悟とはなんだろうか。祖母と戦えと言われても、戦えない。
      というのが日常的な判断である。

      祖母が言う論理は(同時にこれはハートキャッチにおける歴代のプリキュアたちが
      実践してきた論理でもある)、強くなるためにはどんな存在とでも戦い、倒すくらいの覚悟が
      必要というものだ。
      「プリキュアとして使命を果たすためには、相手が誰であっても戦い強くなる必要がある。
       それがプリキュアには必要なことだ」
      ――という、これは非日常の論理である。プリキュアという立場から、取るべき行動が
      決まってしまっている。つぼみ個人が選ぶ行動ではない。

      つまりこれは、祖母が孫に非日常の論理を実践させるという状況になっているのである。

      念のために書いておくと、祖母はつぼみたちが試練を受けるのに初めは反対していたのだから、
      彼女が孫娘を非日常に駆り立てるひどい人だというわけではない。
      結局は自身が戦わず代理としてコッペを立てたのも、「孫とは戦えない」という
      日常の論理の表れだろう。しかし、祖母と孫が戦うよりはましであっても
      それはそれで孫と憧れの人に戦わせているという状況である。このように所々で日常の論理を気にしつつも
      全体としては非日常の論理に流されている。

      実際の試練にあたってつぼみは「あなたを乗り越えてみせます」という
      言い方で自分の気持ちと試練との間に折り合いをつけている。

      しかし、たとえば敵が何か悪さをしてどうしても憧れの人と戦わなければならない
      状況になり、それで「戦いたくない」という自分の気持ちと現在の状況の間に
      無理やりにでも折り合いをつけて――という展開ならともかくも、
      ここでつぼみとコッペが戦わなければならない理由は「強くなるため」なのだから、
      「そんな覚悟を持たなくても別の方法で私は強くなってみせる」
      という回答も十分に考えられるように思う。

      つぼみはそうした方法を選ばずに、強くなるために憧れの人と戦うことを選んだ。
      この点でつぼみと祖母はよく似ていて、日常の論理を気にしながらも最終的には
      非日常の論理に流されていっているのである。
      (この第一の試練については、4.洗練されるプリキュアシステムでもう一度考える)


      初期三部作において、各プリキュアの家族は基本的にプリキュアとは関係なかった。
      家族はプリキュアに変身した少女たちにとって最も基本的な「日常」の場であり、
      彼女たちは非日常の戦いを経験した後も必ずそこで日常に帰ることができた。

      しかしハートキャッチにおいて、家庭は日常の場とは限らない。
      家庭にさえ、非日常は存在しているのである。


    3. 「なりたい自分になる(なれる)」というテーマとの関連


    4. ハートキャッチのテーマの一つに、「なりたい自分になる(なれる)」というものがある。
      プリキュアに最初に変身するときに自分で名前を決められるという設定や
      ファッションをモチーフにしていることはこのテーマに対応しているのだと思う。

      劇中で具体的に「なりたい自分になる」というテーマを表現しているキャラクターは
      つぼみといつきである。
      つぼみはシャイで引っ込み思案な自分を変えたいと思っていたのだし、
      いつきは女の子らしい可愛い服を着たいと思っていた。

      彼女たちのこうした願いは非日常であるプリキュアと接することによって実現する。
      いつきの場合、そもそもデザトリアン化により自分の素直な気持ちを吐露する
      (この辺りは後述するデザトリアンとの関連を参照)。
      そして後に、ポプリと出会いプリキュアに変身するようになる。

      このいつきは、プリキュア変身時にのみ一人称が「わたし」に変化するなど
      女言葉を使っている。これはなぜだろうか。
      キュア○○といった名前や決め台詞でさえ自分で決められるハートキャッチなのだから、
      変身したら自動的に一人称が「わたし」になるということではないだろう。
      いつきが自分で選んで「わたし」という言葉遣いをしているのだ。

      いつきの一人称が変化する理由について考えてみると――、
      プリキュアに変身するようになった後、チュニックなど女の子らしい服も
      着るようになった彼女であるが、本当は言葉づかいも変えたいのではないだろうか、
      という仮説が真っ先に思いつく。
      そうだとすると、そうした「なりたい自分」はまだ非日常時にしか素直に表現できていない。
      ということは、明堂院いつきである時よりもキュアサンシャインである時の方が
      彼女の真の姿に近い、とさえ言うことができる。
      プリキュアへの変身は彼女の「なりたい自分」を具現化している。


      ここで、彼女の問題はプリキュアや砂漠の使徒とは関係なく以前から抱えていたもの
      であることに注意しなければならない。日常生活から出てきた悩みを解決する
      という夢は、プリキュアという非日常の存在に変身することによって果たされる。
      ここで非日常が日常の問題を解決するという現象が起きているように見える。


      これはハートキャッチの物語自体が外面の変化と内面の変化を強く結びつけている
      ことに関係していると思う。
      一般論として、ファッションを変えれば気の持ちようは変わる。
      ハートキャッチでは特に「外見をチェンジすれば内面もチェンジできる」
      ということが強調されている。ファッションを変えれば「新しい私」は誕生する。
      だからつぼみたちは、妖精を失って落ち込んでいるゆりに
      「ファッションショーに出てください」と提案したのである。

      そして、プリキュアへの変身もまたファッションの変化である。
      したがって、プリキュアへの変身は当事者の内面を変える。内面が変われば、
      当事者が本来抱えていた問題も解決に向かうという図式になっているのだと思う。

      もちろん、二回目の試練でつぼみが「あなたはチェンジできていない」と言われている
      ことに現れているように「ファッションを変えれば全部解決」という話になっている
      わけではない。あくまでも「解決に向かう」である。
      しかし、「解決に向かう」だけでも大変助かるのは確かだ。
      ハートキャッチでのプリキュアへの変身は個人が日常で抱えている問題を
      解決する一つの手がかりとして有効に機能しているのである。


    5. デザトリアンとの関連


    6. (2)に書いたこととも関連するが、ハートキャッチプリキュアの基本的なパターンは
      「心の花が萎れている人を砂漠の使徒が見つける→デザトリアンが暴れ、
      プリキュアが駆けつける→デザトリアンを倒し、心の花が元気になる→
      デザトリアン時に叫んだことを元に元々の問題の解決がはかられる」というものである。

      ここで、プリキュア達はデザトリアン化が起きなければ悩みに気づかないことが多いのが
      ポイントである。

      つぼみがお節介なキャラクターとして設定されていれば、
      「被害者が何か悩みを抱えていることを察知→あの手この手で相談に乗る→
      そうこうしている内に砂漠の使徒に邪魔されて怒る」という展開が
      主流だったのかもしれないが、つぼみはそういうキャラクターではないので
      デザトリアン化後に悩みに気付くというパターンになっている。

      結果として、被害者が抱えているもろもろの悩みはデザトリアンとプリキュア、
      非日常に属する両者の戦いを通じて顕在化し、解決に向けて本人を含む関係者一同が
      動き出すきっかけを与える。
      したがって、デザトリアン化して叫ぶことそれ自体が問題解決の重要な鍵になる。

      ここでも日常の問題は非日常の存在によって解決するという現象が起きているのである。



    以上見てきたように、ハートキャッチプリキュアは非日常が日常と融合し、ある面では
    非日常が日常の問題を解決するという構造をかなり積極的に提示しているのではないかと
    思う。
    これは既に述べた初期三部作の特徴とは真反対である。


  5. フレッシュの場合〜両者の中間点


  6. フレッシュは初期三部作とハートキャッチの間に放映された作品であるが、
    ここに書いているような日常〜非日常という観点から見ても両者の間に存在する作品である。
    しかし、完全に中央という訳ではなく全体的には初期三部作的に日常が非日常を
    飲み込む様子を描いている。
    しかしその一方で、非日常が日常を飲み込みそうな描写も見られるという状態になっている。

    初期作的な要素は、たとえばせつながイースであると正体を明かした後の
    ラブの行動に見られる。落ち込んだラブは「せつななんていなかった」という
    美希の言葉に怒って家を飛び出し、カオルちゃんとの会話で
    「友達が悪いことをしているなら止めなくちゃ」
    と気づきせつなの許へと向かうのである。

    美希が「せつななんて子はいなかった」というのは、
    「心を鬼にして」発言したものである。ラブが傷ついていることくらい
    美希にはよく分かっている。
    だがいつまでもそれではいけないと、あえてこういう言い方をしている。
    そして、「せつななんて子はいなかった」というのは非日常の論理として正しい。
    せつなはイースであり、ラブにはプリキュアの情報を得るために近づいたにすぎない。
    ラブが友達と思っていたせつなはいない。

    しかし、ラブはそういった非日常の論理ではなく
    「友達が悪いことをしているなら止めなくちゃ」という日常の
    論理(これも女子中学生や幼稚園児の日常の論理である)をもってせつなと対峙する。
    ラブはあくまでせつなを「友達」として位置づけ、彼女が悪いことをしているのを
    友達として止めようとするのである。

    あるいは、シフォンのことがある。物語後半、シフォンはたびたび
    インフィニティへとその姿を変える。
    その時にラブが言うセリフは「シフォンはシフォンだよ」というものである。
    ラビリンスから見れば、シフォンは無限のメモリーである。しかしラブたちから見れば、
    シフォンは友達であり、シフォンはシフォン以外の何者でもない。

    この「シフォンはシフォンだよ」もまた「待ってない!」の変奏であると思う。
    フレッシュでは、最終回に至っても結局シフォンがどういう存在であるかは
    明かされない。
    明かされない理由は、おそらく「シフォンは伝説の○○やったんや!」「わーすごい!」
    という展開にしてしまったらシフォンをインフィニティとして追っていたラビリンスと
    大して変わらなくなってしまうからだ。シフォンには、「シフォン」という
    名前があればそれでいいのであって、「伝説の○○」といった肩書はいらないという
    ことでシフォンがどういう存在か明かされなかったのではないだろうか。


    と、このように初期三部作的な要素の多いフレッシュであるが、非日常が
    日常を飲み込みそうになる場面も何度か描かれている。

    一つは第22話でのタルトの行動である。ラブたちのダンスのコーチ、ミユキが四人目の
    プリキュアであると考えたタルトは、早く4人目として変身できるようになるため
    ラビリンスに襲われて危険な目に遭ってくれとミユキに頼むのだ。
    そうすればアカルンが現れてプリキュアに変身できるようになるはずだから、と。
    ラブたちもその考えに乗る。

    ミユキはそれを了承し、ナキサケーベと対峙しようとする。だが、土壇場でタルトは
    「やっぱりあんさんに怪我なんかあったらいかん!」
    とミユキに逃げるように促すのである。

    ラビリンスに襲われるようにと言うタルトの言葉は、敵に対する作戦としては正しい。
    戦力が増強できるかもしれないならばやるべきだ。
    しかしそれは同時に、ミユキを敢えて遭わなくてもいい危険に晒すことでもある。
    そういった危険は回避すべきである、とこれが日常の論理である。
    タルトは一度は非日常の論理に基づいた作戦を提案したものの、土壇場で
    それを撤回したのである。

    なお、タルトは変身前のラブたちのことも「ピーチはん」とプリキュア名で呼ぶ、
    珍しいキャラクターである(シフォンは「ラブ」と個人名で呼ぶ)。
    割とお役目大事な部分のあるキャラクターだと言えると思う。

    あるいは、第37話で描かれたプリキュアの特訓のことがある。
    4人目探しに巻き込まれた結果、ミユキはプリキュアのことを知る存在になる。
    ミユキがラブたちにダンスを教える時間は、学校が異なるラブたちにとっては同じ経験を共有する大切な時間である。
    したがってフレッシュにおいては、ダンスレッスンが「日常」の場として
    機能している。その中心人物ともいえるミユキがプリキュアという非日常のことを
    知っているという構図は、ハートキャッチでのつぼみの祖母のあり方の原型ともいえる。
    日常パートを担う人に非日常性が入り込んでいるのである。

    そんなミユキがラブたちにプリキュアの特訓をするのは、つぼみの祖母がつぼみたちを
    試練の場に案内するのと同じようなものであるともいえる。
    しかし、彼女は結局ダンスといういつものやり方でラブたちを特訓する。
    ここでもフレッシュは、ぎりぎり「日常によって非日常に勝てる力をつける」という
    構図に留まっている。



    判断に悩むのがフレッシュの映画での美希のセリフである。この映画は
    子供たちに捨てられたおもちゃが復讐のために世界を支配しようとするストーリーだ。
    捨てられたおもちゃで構成されたトイマジンを止めようと4人で力を合わせて攻撃、という場面で
    キュアピーチは自分が子供のころよく遊んでいたぬいぐるみのウサピョンが
    トイマジンの中にいるのに気づき、「ウサピョンも私のことを恨んでいたんだ」と
    戦意を喪失する。ここでベリーはピーチを平手打ちして、
    「今のあなたは誰? 桃園ラブじゃない!! キュアピーチでしょ!?
     プリキュアがおもちゃを取り返すってあの子と約束したんでしょ!? 
     だったらプリキュアとして今すべきことをして!!」
    と叱咤するのである。
    これは大変微妙なセリフである。字面だけ見ると、桃園ラブではなくキュアピーチとして
    行動しろと言っているように見える。が、このセリフのひとつ前のセリフでベリーは、
    「ラブ! 何してるの? しっかりしてよ!」とピーチのことを「ラブ」と呼んでもいる。

    ピーチは更にその後パインの「ラブちゃんの気持ちはウサピョンにも伝わるはず」
    パッションの「人は何度でもやり直せる、それを教えてくれたのはラブ、あなたよ」
    という説得を受ける。ここでもピーチは「ラブ」と呼ばれているし、ピーチはピーチで
    「美希」「せつな」と返している。「桃園ラブじゃない」というセリフがすぐ近くにある割に、
    この場面は彼女たち個人の名前を連呼しているのである。

    ベリーのセリフは映画の初めの方でおもちゃをなくした男の子に「プリキュアが
    おもちゃを取り返してくれるから」とラブが約束したことに対応している。
    ちなみにこの約束の仕方自体、世間の人にプリキュアが認知されているからこそ
    生まれてくるものだ。プリキュアの存在が知られていないなら、
    「おもちゃ、絶対戻ってくるよ」という慰め方になるはずだし、ベリーのセリフも
    「あの子と約束したんだからしっかりして!」ぐらいになっていたはずである。

    実際に放たれたベリーのセリフは、ラブにラブ自身がした約束を強く思い出させる
    ためのもので、「ピーチは桃園ラブじゃない」わけではないことをその前後の「ラブ」
    という名前の連呼で示している……のではないかと思うが、違うかもしれない。


    ただし、日常が非日常を凌駕するということを基本にしつつたまに非日常が
    日常を凌駕しそうな場面を描くのがフレッシュの特徴だとすれば、
    映画のこのシーンはその特徴が見事に表れたシーンだということになる。

    フレッシュは放映時期だけではなく、内容的にも初期三部作とハートキャッチの間の
    過渡期として位置づけられる作品なのだと思う。



  7. 洗練されるプリキュアシステム

  8. ここで少し話を変えて、ハートキャッチ第32話の第一の試練で見られた、
    「戦う覚悟もないようならプリキュアをやめなさい」ということについて
    考えてみたい。

    ここでつぼみが、「そんな覚悟を持たなくても別の方法で私は強くなってみせる」
    と言えなかった理由はなんだろうか。性格はもちろんある。つぼみは
    祖母を相手にそこまで強気にはなれないだろう。

    しかしそれと同じくらいに、プリキュアの伝統の重み、特にあるべきプリキュア像という
    ものの影響を無視できないように思う。


    思い返してみれば初期三部作の諸作品では、「伝説の戦士プリキュア」という
    劇中の言葉はあるもののそれが具体的にどういう存在なのか、少女たちに明示されることはなかった。
    「伝説の戦士」というからには大昔にもプリキュアはいたのだろうが、
    その姿や行動を知る人は誰もいない。彼女達は手探りで、自分たちの進むべき道を
    探していくよりほかに仕方がなかった。


    ハートキャッチは違う。ハートキャッチでは、プリキュアのお手本が目の前にいる。
    つぼみの祖母である。最強のプリキュアと呼ばれた彼女をお手本にするのは
    当然のことだ。彼女たちには「あるべきプリキュア像」が具体的に存在するのである。

    つぼみが第一の試練で別の道を探れなかったのも、「あるべきプリキュアの姿は
    そういうものだから」という要因が大きいのではないかと思う。
    つぼみの祖母は試練にあたって「古来の掟に乗っ取り〜」といったことを言っている。
    ハートキャッチの試練は、祖母だけではなくかつてのプリキュアたちが
    脈々と伝えてきたものなのである。

    プリキュアとは、試練を受けて強くなっていくものだ。
    それがハートキャッチのあるべきプリキュア像である。
    キュアフラワーだってそういう経験をして最強のプリキュアになったのだ。
    プリキュアとして、彼女の辿った道は正しい。
    だから、せめてつぼみは「あなたを乗り越えてみせます」と言うしかなかったのではないか。
    別の選択肢は選べない。


    初期三部作の場合、お手本はない。だから、彼女達はどうしていけばいいのか分かっていない。
    彼女たちの道の選び方は基本的に直感によるもので、その直感を支えるものが日常の経験である。
    日常の経験が彼女たちを支えるというより、彼女たちを支えるものは日常の経験しかないと言った方がよい。
    彼女たちは自分たちが持てる唯一の武器(日常)を使って、行き当たりばったりに進んでいくしかない。

    ハートキャッチには、お手本がある。だから、彼女達はピンチに陥ることがあっても
    先輩(つぼみの祖母やゆり)に相談できるし、どうすればいいのかが分かる。
    先輩が教えてくれることは代々のプリキュアの積み重ねから出てくることだから、
    彼女たちのプリキュア活動に日常の経験が与える影響は相対的に低くなる。
    計画的にプリキュアの活動ができるのが彼女たちである。


    喩えて言うならば、初期三部作のプリキュア活動は秘密の野原で遊んでいるような
    ものである。
    野原で遊んで日が暮れると家に帰る。秘密の野原だから、その場所での彼女たちの行動を
    周りの人が知ることはない。
    野原で困ったことになっても、具体的に大人に相談することはできない。
    周りの大人や友達が言っていたことを応用しながら、彼女達は野原での困ったことに
    対応していく。彼女たちの成長は基本的に野放図だし、追いつめられた時には
    やけくそになって対処する以外にない。運が悪ければそれでおしまいである。
    大変泥臭いシステムであるといえよう。


    ハートキャッチでのプリキュア活動は学校生活である。
    上級生(ゆり)もいるし、先生がプリキュアについてちゃんと教えてくれる。
    個性を伸ばす教育ではあるが、生徒としての理想の姿は学内に共有されている。
    生徒たちの成長を促す進級試験もあるので、あまり無理をしなくても
    効果的に困ったことに対応できる。
    大変洗練されたプリキュアのシステムであると言えよう。

    (ちなみに、フレッシュはこの喩えに合わせようとするとうまくいかない。幼稚園か保育園だろうか。)


    時代の流れとともに、プリキュアのシステムが洗練されてきたことがうかがえる。
 * * *

長々書いてきましたが、日常〜非日常という軸で考えたとき初期三部作と
ハートキャッチは真逆といっていいほどの違いがあります。
フレッシュはたぶん過渡期です。

念のために書いておくと、ハートキャッチのキャラクターたちが嫌いなわけではありません。
ただ、冒頭にも書いたように私自身は初期三部作の「日常が非日常を凌駕する」
という構図が好きです。ということもあって、初期三部作的な展開(=自分の
好みの展開)であれば、ハートキャッチという作品をより楽しんで見ることができた
だろうと思うと、個人的には少し残念です。(勝手だな……)

しかし、プリキュアシリーズが続いていくためになぎさとほのかから咲と舞に
交代したように、こうした変化もまたシリーズが続いていくためには必要なものなのだろうなと思います。


(以下11/08追記)

これをUPしてしばらくしてから思ったのですが、上に書いたような変化は
ハートキャッチでのプリキュア活動が「楽しいもの」として提示されていることの
影響かもしれません。

初期三部作では、プリキュアはあまりなりたくないものとして設定されています。
例えばS☆Sの通常回の大部分で、咲や舞が敵に対してする主張はごく簡単にいえば
「私たちが楽しんでいるところを邪魔しないで!」です。
変身しないですむならそれに越したことはないのですが、敵が来るので
変身せざるを得ないという感じだと思います。

ハートキャッチの場合にはファッションでチェンジというテーマとも相まって
「プリキュアは楽しい」ということが強調されているように思います。
プリキュアになれば可愛い服も着れて自分を変えることもできて
みんなを助けることだってできる、というように(ゆりだけ少し異質ですが)。

「プリキュアは楽しい」というコンセプトだからこそ、
プリキュア変身時に猛烈なピンチに陥ることもなく
(唯一プリキュアを追い詰めそうだったダークプリキュアはサバーク博士が動きを封じ)、
強大な敵が来る前にきちんとパワーアップできる設定があり
(これまでのプリキュアのようにパワーアップ時に追いつめられることはなく)、
デザトリアンの被害者候補の気持ちにはデザトリアン化が起きるまで
気付かない場合が多い(プリキュアに変身した状態ではじめて人助けができる)

ということになっているのかなと思いました。

プリキュアの活動は、何かを守るための手段からそれ自身が目的という形に移行したのかもしれません。
ですから日常はもう彼女たちに力を与えるものではなく、
プリキュア活動の前座、むしろプリキュアの活動によって改善されるものという役回りになったのかもしれません。


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