「薫ー、これ見て」
ベッドに仰向けに寝転がったまま、満は顔の上にかざしていた雑誌を持った
腕を薫の方に伸ばした。机に向かっていた薫はちらりとそちらの方を見やるが、

「持ってきて」と一言だけ答えてまた机の上の本に目を落とす。
手を伸ばせば届かない距離でもないが、伸ばそうという気が起きない。

背後で本が空を切る音がした。薫が首を右に傾けると雑誌は空いた空間を通り、
薫の目の前の机の上にばさりと音を立てて落ちた。

「満っ!」
あまりに行儀が悪い。そう怒ろうとした薫の首に満の右腕が絡みつく。

「ねえ薫、このページ」
薄い雑誌を軽くめくると、「大特集! みんなの好きなおやつコーナー!」という
ページが出てくる。

「これ見て」
左手の人差し指で満は小さな囲み記事を指した。
「四つ葉町のドーナツ屋さんに注目!」という記事だ。
満に首を押さえられている薫は振り向くこともできず、ただその記事を読む。

ハート型に穴の開いたドーナツで有名で、最近はこれを食べると
友達との関係が強くなるなんて噂も出始めているらしい。

「……これがどうしたの」
「咲と舞に内緒で買ってこない? プレゼントして、4人でおやつに食べましょ」
「こんな噂のこと信じてるの?」
「別にそういうわけじゃないわ。ただ、そういうこともしてみたいだけ」
薫の表情が和らいだ。
――まるで普通の女の子みたいね、満。
口には出さないがそんなことを思う。その思いが薫の胸を暖かくする。

「いいわよ。……ただし、条件があるわ」
「条件?」
満が腕にこめた力を緩めた。薫がやっと満を振り返る。

「行き方は満がちゃんと調べておくこと。……それと、毎日ちゃんと行儀良くすること」
「はいはい」
満が軽く肩をすくめた。


二人が四つ葉町に出かけたのはそれから数日後のことである。
電車とバスを何本か乗り継ぎ、夕凪町から2時間ほどでこの町についた。

「満……」
バスを降りた薫が満に向かって厳しい表情を見せる。満もうんと頷いた。
この町は何かがおかしい。昔感じていたような気配が町に充満しているように思える。
精霊たちが今ここにいれば、
「嫌な感じがするムプ!」「恐いププ!」と大騒ぎしているだろう。

「……満、このことを知っていてここに来たの?」
満は首を振った。
「ただの偶然よ。でも、何が起きているのかしら」
「満、ドーナツ屋さんって言うのはどっちにあるの?」
「ちょっと待って」
かばんから地図を取り出すとあたりの建物と地図を見比べ、
「こっちね」と指差す。
二人が感じている邪悪な気配が弱まっていく方向だ。つまり、邪悪な気配の元があるとすれば
ドーナツ屋さんとは逆方向である。

「分かった。じゃあ、満はドーナツ屋さんに行ってて。私はこっちに行ってみる」
「独りで行く気?」
「様子を見たいだけよ」
薫は諭すように満の肩に手を置いた。
「もしかするとフィーリア王女に相談しなければいけないような事態かもしれないし……、
 情報を集めるのが最優先よ。満のドーナツ、早く行かないと売り切れるかもしれないんでしょ」
「でも」
「私だって食べたいわ、そのドーナツ。だから買っておいて」
一瞬満は俯いたが、「分かったわ」と答えた。
「深追いだけはしないで」
「分かってる。危なくなりそうだったら満を呼ぶから」
満と薫はそのまま左右に分かれた。


ドーナツ屋さんがいつもいるという場所に来て満が驚いたのは、
少し長い列ができていたことだけではなく、この場所でもわずかに怪しい気配が
強まっていたことだった。
そ知らぬ顔をして列に並びながら満は意識を集中する。

――この気配の元の一つは……

「はいはーい、列はこちらですよ〜」
妙に愛想よく列の整理をしている中年のサラリーマン風の男性。
今日はアルバイトか手伝いか何かだろうか。
「ブンビーちゃん、悪いね〜」
ドーナツ屋の店主――カオルちゃんと雑誌には書いてあった――が声をかける。
「いえいえ、このくらい。……ほかの方の迷惑になっちゃうんでこっちに並んでくださいねー」
満はブンビーという名の男の誘導にしたがって場所を少し移動した。
気配こそ少し怪しげだが、誰かを攻撃しようという様子はない。

もう一つの気配の元は満の数人前に立っている中学生くらいの男の子だ。
黒い髪をやや長めにしていて少し目つきが悪い。
女の子ばかりが並んでいるこの列で一人異質だが、本人はあまり気にしていないようだ。
ドーナツを買って憧れの女の子にでもあげるつもりなのかもしれない。
こちらも、気配こそ少し怪しげだが誰かを攻撃しようという様子はない。

ふっと満は口元を歪めて自嘲の笑みをこぼした。
恐らく自分も、見る人が見れば
「気配こそ少し怪しげだが誰かを攻撃しようという様子はない」存在だろう。
今の二人も満の気配に気がついているのかもしれない。

自分たちと同じように――、緑の郷を滅ぼそうとしながらも結局
この世界を守りたくなった存在はそれなりにいるのかもしれない。
満はそんなことを思った。


――ここね。
薫は洋館にたどりついていた。古風で巨大な建物だ。この町に充満している邪悪な気配は
明らかにここから発している。ダークフォールの幹部たちのような者がこの中に
住んででもいるのか……ここの住人には、緑の郷への害意がある。

ぐるりと洋館の周りを一周したが、中の様子を窺うことはできない。
窓にも人影は見えなかった。

「……」
道に立ち止まり薫は無言で考える。
このまま一度満と合流するか、それとももう少し調べるか。
中に入るのは満が来るまで止めておいた方がいいだろうが、
もう少し住人達の様子も知りたい。

――こうすれば……。
人目のない事を確認して薫は戦闘服姿へと変身した。
満は薫が臨戦態勢に入ったことに気づくはずだ。洋館の中の住人も薫の存在を察したかも
しれないが。

……薫の見ている前でゆっくりと洋館の扉が開いた。
中学生くらいの濃紺の髪の女の子が中から出てくる。彼女は冷たい視線を薫に向けた。
無言のまま、二つの視線が交錯する。


「うわっ、こんなに並んでる!」
ようやくカウンターの前まで来て、あとはドーナツができるのを待つばかりと
いうところで列後方から聞こえた声に満は「ん?」と振り返った。
「こんなに」と彼女は言っていたが列はだいぶ短くなっていたので
実のところ後数人だ。

薄い黄色の髪の女の子が青、山吹色の髪の女の子二人と一緒に最後尾に並んでいる。
彼女達の声は良く通る。
「なんか雑誌に載ったとかで人気らしいよ」
「ラブ、並ぶの?」
「うん、せつなに持って行きたいから」
「せつなってこの前のあの子?」
「うん、この前せつなにドーナツ半分分けてもらったから今日は私が
 せつなにあげようと思って……」

――ふうん……。
神経を研ぎ澄ますと、彼女達からはまた別の気配が漂ってくる。
咲と舞に少しだけ似た……、
――もしかすると、……プリキュア?
邪悪な気配のあるところにはプリキュアがいるのかもしれない。
そんなことを思った満の背筋にびくりと寒気が走る。

――薫が変身した……! 何が起きたの!?
「はーいお嬢さん、ドーナツ4つね」
「ありがとうございます!」
ひったくるように満はドーナツを受け取ると駆け出して薫を追った。


「何か?」
洋館から出てきた少女はぶっきらぼうな口調で薫に問いかける。
その言葉には温かさが微塵も感じられない。
薫は無言のまま少女を見ていた。

――この子、昔の満に似てる……。
薫にとっては鏡に映した昔の自分の姿に似ている、ということでもあるのだが。
邪悪な気配を身に纏っているというだけではない。
張り詰めた緊張感が強烈な意思を感じさせる。
その意思は、現在の満や薫とは恐らく相容れないものだ。
今の彼女の背骨になっているのは誰かへの忠誠心。
それが折れた時、彼女自身もおそらく折れてしまう。
「何か?」
少女は再度尋ねた。薫が只の人間でないことは既に分かっているだろう。
「なんでもないわ」
「……そう」
少女は薫に睨みつけるような視線を送る。

「薫っ!」
二人のにらみ合いの均衡を崩したのは満の声だった。すぐに薫の隣に立ち、
事態を把握する。

「何かしたの?」
「いいえ、まだよ」
互いに囁きあい、……満はわざと大きな声を出した。

「ドーナツは買ったから、薫」
「え?」
少女から目を離さないまま薫はいきなり何を言い出すのかと
言わんばかりの声を上げる。

「咲と舞の分も。……プリキュアの、分もね」
ぴくりと少女が眉を上げた。
「プリキュア? 何かしら、それ?」
そ知らぬ顔をして尋ねてくる少女に、
「すごく温かい存在よ」
と満は答える。
「聞いたことないわ」
「そう? あなたもいつか会うんじゃないかしら。
 あなたの運命を、変えるために」
少女の目の色が変わる。薫が満を守ろうと一歩踏み出す。

「あっ、せつな〜」
緊張を破ったのはまたしても声だった。
少女の顔から毒気が抜けたのを満は見逃さなかった。
満が先ほど公園で見かけた少女がこちらに駆けて来る。

「あれ、友達?」
満と薫の姿を見てそう尋ねる。
「いえ、ちょっと通りすがっただけよ」
満は微笑を浮かべてそう答えると洋館の少女に背中を向け、「行こう薫」と薫の手を引いて
その場から離れる。

二人は数分歩いてバスの停留所に戻ってきた。

「……満、あの子放っておいていいの?」
あの子というのは洋館の少女を指すのだと満にはすぐに分かった。
「放っておくわけじゃないわ……任せるの」
「任せる?」
「あの時来た黄色い髪の子、多分プリキュアよ。……薫、分からなかった?」
「……そうだったの」
薫は恐らく洋館の少女にばかり神経を集中させていたのだろうと満は思った。

バスが来た。二人は乗り込んで隣同士の席に座った。
「あの子が運命を変えたいと願うのなら、それを手伝うのは
 きっとこの町のプリキュアだから」
「そうね……」
薫は彼女の、昔の満に似た目を思い出した。
儚い運命を受け入れてしまっているかのような目を。

「薫? どうしたの?」
薫の腕が急に自分の身体に巻きついてきたことに満は驚いた。
「別に。こうしたくなっただけ」
「……そう」
夕凪町まではまだしばらく時間がある。

-完-

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